第4話

熱いシャワーで頭を洗っている。安物のリンスインシャンプーで頭皮を強く擦った。そのまま脳裏にこびりついた岡本と井上の握手する映像が消えないかな。実際にはそれは目で見たんじゃなくて、自分の脳が作り出した映像だった。だがそれだけに頭から消し去るのは困難だった。諦めてシャワーの湯を止めて、タオルで頭と体の水分を拭き取った。

艇庫の二階部分は選手の居住空間も兼ねていて、細い廊下を挟んでシャワールームの反対側に食堂があった。四つの机とパイプ椅子が三十脚程度配置されている。部屋の一番奥にホワイトボートがあって、今日のタイムトライアルの結果が書かれていた。

岡本と井上のタイムにだけ赤のマジックで花丸がついていた。誰かマネジャーが書いたのだろう。


六月 エルゴタイムトライアルの結果(2000m)

桂 雄大 3回生 (S) 6'18"

桂 翔太 4回生 (B) 6'19"

岡本 竜也 2回生(B) 6'34"

井上 隼人 2回生(S) 6'35"

下屋 誠 4回生 (B) 6'37"

八木 涼介 4回生 (S & B) 6'38"

山上 和樹 4回生 (S) 6'39"

辰巳 直哉 3回生(B) 6'41"

橋本 健 3回生 (S) 6'42"

杉本 諒太 2回生(S) 6'49"


朝晩の料理はいつもマネージャーが作ってくれる。今日は肉じゃがに、きゅうりの酢の物と豚汁だった。俺たち漕手のために献身的に働いてくれる彼女たちを見て、いつも申し訳なく思う。自分はそれに見合うだけの情熱をちゃんとボートに注いでいるだろうか。最近の自分の態度だとここにいること自体が嘘をついているように思える。嫌ならやめればいい。何度もそう考えながら、それでもありがたいその環境を享受していた。最もマネージャーにはマネジャーとしての戦いがあるだろう。誰もがボランティア精神だけでやっている訳ではないだろう。だから申し訳なく思うことももしかしたらおこがましいことなのかもしれないが。


無理して食欲以上に食べようとしない俺は、控えめに米を皿に盛って、人の少ない席を選んで腰掛けた。スマホを置いて適当にSNSを見ながら、誰とも視線を合わせずに食事を摂る。去年の秋くらいまでは米をきちんと800g測って食べていた。自分の体格なら、増量のために必要なカロリーを摂るためだ。でも今はそれもやめてしまった。ボートを速く進めることにそれほど興味を抱けなくなっている。

もう一度、ホワイトボードの花丸を見る。

俺のタイムはというとその羅列の一番下にあって6’49”になっていた。いや違う、確か6’48”だよと一瞬思ったけど、それが選考に影響があるわけでもないし、別に誰も気にしてない。俺も気にしない。俺の一秒なんて。


一番上に桂雄大さん、桂翔太さん、三番目が岡本で四番目が井上だった。雄大さんは先ほどのトライアルで「お疲れさん」と声をかけてくれた翔太さんの弟である。三回生ながらチームのエースでエイトのストロークを漕いでいる。ストロークは漕手の中で一番前に座っている漕手でみんなこのストロークのリズムに合わせて漕いでいる。エイトで言うとCOXと向かい合って座っている漕手である。進行方向で言うと逆に一番後ろの漕手ということになる。ボートが後ろ向きに進むスポーツなので、その辺はややこしいが。とにかくこのストロークが勝敗の鍵を大きく握っているのは周知の事実である。四回生を差し置いてそのシートに座るのは相当な実力者の証で部の中でも一目置かれる存在だ。

二人は日本では珍しく小学校からボートを始めており、実力から考えてもなぜ戸田で漕がないのか不思議なくらいだった。翔太さん曰く「高校まででボートは終わり」と思っていたとのことだが、何があってこの阪和大のボート部に入ることにしたのか、その経緯はあまり誰も知らない。

とにかく二人の桂さんが上位を独占することは当たり前のようになっているので、今日のランキングを見ると、誰もが口を揃えて岡本と井上の躍進に触れるだろう。部屋に入ったとき岡本と井上とちらっと視線が交差したけど、言葉は交わさなかった。同期であれば、いや同じチームメイトなら「おめでとう」というべきなのだろうが、話しかけることすらできなかった。


俺とは離れたテーブルに岡本と井上は腰掛けていた。その周りにはマネージャーが何名かと練習技のままの辰巳さんが立ったまま二人を囲んでいた。ヒーローインタビューのようだった。

「ほんと、この子たちは伸びるって私言ったでしょ」

高い声ではしゃいでいるのは四回生の坂野さんだった。あまりに大きな声だったので意図せずそちらに視線を向けてしまった。気を使ってくれたのか、坂野さんが「次は杉ちゃんだね」とピースサインをしながらもう片一方の手で俺を指差した。全員の視線が自分を向く。俺は気まずくなって、苦笑いと伝わるようにわざと苦笑いして、また下を向いて箸を進めようとした。


「同期が35秒切ったんだぞ、嬉しいだろ」

不意に冷たい声がした。岡本だ。さっきまでの笑顔はなく、温度のない表情がこちらを向いていた。その横で井上は俯いて食事を摂っている。俺の方を見ていない。

「嫉妬してんなら、もっと本気出せよ」

何も言い返せない俺に岡本が言い捨てた。

感情が昂りそうになったが、脳裏にチラッとコートの男がよぎって、いやいや、どうでも良いんだって、全部終わるんだからと、急速に醒めていった。

どうしようもない空気に包まれる中「まあまあ、やめとけ」と辰巳さんが止めてくれた。でも食堂の空気は一変して先ほどまでの談笑が全て壊れた。誰もが声を小さく潜めている。俺はなぜか落ち着いた心地でいる自分を発見した。桂先輩のことを、厳しくて窮屈だとか思っておきながら、かと言って浮ついている部の空気も気に食わない。だから、険悪でもピリピリとしている方が今の自分には心地いいのかもしれない。

他人の成功を喜べなくなったのは、いつからだろう。

そもそも誰かの成功を、見返りなく心から喜べたことがあっただろうか。


そして同期の二人と普通に喋れなくなったのは、いつからだろう。 

さっきまで固まっていた人だかりが消えて、会話は無くなってしまった。

俺がいない方がよかったな。これは素直にそう思った。

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