第3話

俺の所属している阪和大学ボート部には、現在二回生〜四回生までで合わせて十人の漕手がいる。今俺は二回生。日本ではボート競技を大学から始める人が多く、今年は男女合わせて15人の部員が入部した。入部間もない一回生組は夏が終わるまではボートそのものに慣れるため、俺たち上回生組とは別メニューで練習をしていた。


上回生組は今日はエルゴで2000mのタイムトライアルを行う。俺がさっきやっていたやつだ。俺は先日の関西選手権で俺は三回生の橋本さんとダブルで出場した。橋本さんは温厚な性格だから、俺たちのクルーは終始軋轢も衝突もなく淡々と練習していた。髪が短くて眉毛が太い。細い目はいつもニコニコしていた。通例では直前のレースに一緒に出たクルーは一緒にトライアルを行うのだが、今日は橋本さんが大学の講義の関係で艇庫に来るのが遅くなるので、先に俺だけがトライアルを行った。

残りの八人の漕手と、COXの川田さんはエイトで出場し見事に優勝を飾った。準優勝した六甲大学のクルーに10秒以上の差をつけての快勝だった。六甲大学は俺たち阪和大学のお隣の大学で、来月七月には両校の一騎打ちでレースを行う対校戦を控えていた。両校は土地柄隣り合っている大学ボート部ということでお互い過去からライバル関係にある。一度他のチームも含めて関西選手権では阪和大学が勝利したものの、一騎打ちのレースになれば展開が変わってまた勝敗はどうなるか分からない。次のレースに向けての戦いはもう始まっていた。レギュラー組はこの後、二組に分かれてトライアルを行う。


そのなかには同期の岡本と井上もいた。

二人は俺と同じ二回生だが、今シーズンのレースは全てエイトのメンバーとして試合に出ており、すっかりレギュラーに定着していた。


「よっしゃー」と声がして岡本が二階の居住スペースからこの一階の練習スペースに降りてきたことが分かる。そして騒がしくエルゴに座る。固そうな短い髪の毛と身長は175cmとエイトのメンバーの中ではどちらかというと小柄な方だが、がっちりした体をしている。腕と太腿、そして何より体幹が太くしっかりと漕ぎを支えていた。一緒に付いてきた井上の方は静かに集中していた。180cmと長身だがまだまだ体の線が細く、先輩からもたくさん食べるようにアドバイスされているが、少食の本人は迷惑そうに適当にいつも返事をしていた。

身長が高いこと、そして綺麗なストレートの髪を金色に染めていてよく目立つ。ベビーフェイスと相まって顔だけ見ればショートカットの女性に見えることもあるが、体は体育会である。そのギャップが評判で一回生の女性マネージャーの間ではすでに「井上さんイケメン」という声が上がり始めている。らしい。

岡本と井上の同じ組には四回生の山上さんと八木さんもいた。山上さんと八木さんは工学部で大学院への試験も控えているなか、ボートもこなす文武両道な先輩だ。もしかしたら院試に専念するために、来月の六甲戦で引退するかもしれない。でも先輩と打ち解けて親しく話せない俺は詳しい事情を知らなかった。

エイト組がアップを始めるとエルゴの後ろに人だかりができ始めた。選手たち以外にも、マネージャー陣や新人練習をしているコーチが「お手本になるから」と新入生を集め始めた。俺も寝転がったまま岡本と井上を見上げた。漕ぐ動作のことをドライブというが、そのドライブのキレと、ホイールの音が俺とは全然違う。ディスプレイを見なくても、アップからいいタイムが出ているのがわかる。これがエイトに乗るやつの漕ぎだ。


先週末の関西選手権。俺は補欠だから陸から見ていただけだった。どこか他人事のように思えて、声を出して応援すらできなかった。岡本と井上は勝利を経験して、鬼気迫る雰囲気を身に纏っていた。なんというか、もう同期という感じがしない。一緒に乗っている先輩漕手の迫力が乗り移っている気がする。たった三人の二回生。でも俺と二人の間には明らかな壁があった。競技の面でも人間関係としても。俺は二人に取り残され、かといって一回生と面識があるわけでもなく、中間地点の立ち位置で誰とも結びついていなかった。チームの中で一人、保留案件みたいに宙に浮いている。ボートを始める前にも確かこんなことがあった。別にいい。もうほとんど忘れかけて思い出せないくらいだ。


「杉本は本気出せば、もっとできるのになあ」

突然声をかけられた。声の主は辰巳さんだった。俺を覗き込んだ顔は笑っている。慌てて起き上がると、頭をフル回転させて辰巳さんへの返事を考える。突然話しかけられるのは苦手だった。辰巳さんは三回生でその温厚な人柄から部員からの人望が厚い。みんな日に焼けているボート部の中でもさらに日焼けしていて、濃い顔立ちの持ち主だった。黒髪の短髪がよく似合っている。いかにも好青年という感じで、誰とでも打ち解ける人だが、俺はあまり辰巳さんと喋ったことがない。エイトに乗っている岡本や井上と仲が良いからだ。二人と辰巳さんが近くにいるとなんとなく俺は辰巳さんとは話しにくかった。


「杉本、なんで最後で落としちゃうんだよ。あのままキープすれば、少なくとも6分45秒は切ってただろ」

辰巳さんも見てくれていたのか。そして責めるような言い方ではなかった。自分のことのように本当に残念がってくれているのを感じる一方で、その親切を不思議に思う自分もいた。

「なんか心配事でもあるのか」

辰巳さんが冗談めかして笑う。明るく茶化しているけど何かあれば受け止めるぞという懐の広さを感じさせる言い方だった。俺は一瞬、最近自分の身に起こっている不可解な妄想なのか幻覚なのかよく分からない砂漠の景色のことを口走りそうになったが、「いやー、単純にバテただけっす」とごまかした。いきなり意味不明な話を吐露しても、辰巳さんを驚かすだけだろう。いや、驚かす以上に自分が不審な人間だと思われることも危惧して黙っておいた。辰巳さんは、納得いかない表情を浮かべていたが「まあ、次だな」と言いながら、艇庫の外へ歩いて行った。しばらく背中を見送っていると小走りになって、そうか、この後トライアルだよな。と思った。ほとんどメンバーの入れ替えはないとはいえ、選考のかかった自分のトライアル前に俺を応援して、その後声もかけてくれた訳だ。今の自分にはできそうにない振る舞いだった。


エルゴの周りで流れていた音楽のボリュームが小さくなった。トライアルが始まる気配に、艇庫は静まり返る。アップを終えた四人は、膝を曲げて前傾姿勢をとる。


「Attention」

チームで唯一のCOXである四回生の川田さんがコールをかける。岡本は大きく息を吐き、井上はグリップを握って静かに目を閉じていた。

「Go」

川田さんの声を聞いて、四人が一斉に漕ぎ出した。後ろには一回生の集団とマネージャー陣がいた。俺の時とは明らかに盛り上がりが違う。俺は見えない壁を感じた。マネージャーにしても全く悪意はないのだろう。単純にエイトメンバーを応援しにきただけだ。でも今の自分は「エイト以外を応援しない人」として群衆を見てしまっていた。自分が歓声を浴びる「あちら側」に行けば、こんな気持ちにはならないのだろうか。

「二回生、リラックスしていこう」

川田さんの声がする。岡本も井上も初めから飛ばしているのだろう。同期の見せる本気に心が痛んだ。

最近、本気を出す感覚がよく分からなくなっている。ベストが出なかった言い訳をする訳ではない。そしてそれは煎じ詰めれば、「何をやっても、結局辞めるんだし意味はない」に集約されることに気がついた。去年の秋くらいにそれに気がついたことが心の不調の始まりだと思う。そこからエルゴタイムは変わっていない。テクニック面でも、オールで水を掴む瞬間に肩が力む癖が直ってない。いつかやめることを今頑張っている。それを俯瞰して、馬鹿馬鹿しくなって、何事にも身が入らなくなってしまった。


歓声大きくなった。四人がラストスパートに入ったのだ。エルゴの方を見ると、一回生と目が合い「誰だろう?」みたいな顔をされた。先輩なのに自分の方が場違いな気がした。たまらず艇庫の外に出た。ダウンがてら歩こうと思った時にガシャんという音がした。振り向くと井上と岡本の手からはすでにグリップが離されていた。同時に漕ぎ始め、先に2000mを漕いだ順に、グリップがその手から離れていく。この様子だと、山上さん八木さんを差し置いて二人はゴールしたらしい。エルゴに座ったまま、井上と岡本が握手をしそうになるのが見えて、慌てて目を逸らし、振り向いて歩き始めた。受け止めきれない何かが来ると体が直感した。


そこからぼんやり歩いていたら、いつの間にか三つ目の橋まで来ていた。歩きながら、早く艇庫に充満する熱が冷めればいいと思った。トライアル後の高揚した独特な雰囲気が俺は苦手だった。自分がいない方が水を差さないし、消えてしまいたい気持ちになる。せめてもう何も起きずにさっさと全部終わればいい。感動なんかいらない。押し付けないで欲しい。特別な瞬間なんて疲れるだけだ。どうせ大学の部活動だろ。似たような感慨を抱いて、みんなやめていくだけだ。


そんなに嫌なら今日ボートを辞めてしまえばいいと自分でも思うのだが、何故だか踏ん切りがつかなくて、途方もなく混乱していた。

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