第2話

「今だ」と思ったときにはもう遅い。ボートはそういうスポーツだ。今だと思うその少し前に、動作を開始すると動きがつながり流れが生まれる。膝の屈曲が最大になる少し前に溜めていた体の力を解放する。コンクリート打ちの壁に向かってエルゴのホイールから風が噴射された。艇庫の端の空間には合計八台のエルゴが配置されていた。エアロバイクのボート版に当たるこの器具は、効率よくボート選手の体を苛め抜くのに効果を発揮する。そして今の実力を忖度なく測ることにも長けている。俺は実際のレースと同じ距離である2000mのトライアルを実施していた。艇庫には俺以外誰もいない。音楽もかけていない。薄暗い空間の中で、エルゴのホイールから出る風の音だけが一定のリズムで繰り返されていた。どんなに激しく漕いでも六月の湿った空気がまとわりついてきて、痕跡を残さない熟練のスリのように通りすがりに体力をじわじわと奪っていく。

 目の前には無表情な灰色の壁があって、その少し手前にはさらに無表情なエルゴのモニターがある。骨盤を起こしてセットポジションをとると、シートをスライドさせ膝を曲げていく。そしてまた膝が曲がり切る直前に漕ぐ動作を開始する。勢いよく息を吐きながらグリップを鳩尾まで引き切ってフィニッシュする。セットポジションにグリップを戻し体を起こしてシートを前にスライドする。

個々の動きはいたって単純だ。しかし流れるようにこれらを行うには長い期間鍛錬が必要で、ボートをやると決めた人はそのたったひとつの一連の動きを、何年も何年も磨き続けている。

 フィニッシュポジションで息を吐いてタイムを確認する。モニターは目標のアベレージである1'39"をきちんと表示していた。表示されているタイムは、500m換算でどのくらいのスピードが出ているか表している。このままいけば、2000mを目標の6’40”以内で漕ぎ切ることができそうだ。大丈夫、呼吸や筋肉の疲労度もまだ限界ってわけじゃない。今日はここまでリラックスできている。このまま漕ぎ切ればベストタイムを更新できるだろう。1000mを通過した。


ペース配分は完璧だった。今日こそ6'40"を切れそうだ。二回生の中で先駆けて40"カットを達成したい。いや、達成しなければいけない。そうすることで、また俺は堂々とした気持ちを保つことができる。自分の全力を捧げた記録が自分自身の代わりに威厳を発してくれる。空っぽな自分自身の代わりに。自分自身に価値がないのだから、自分から出る実績に何か価値がないと存在意義を失ってしまう。


突然、頭の中でカンと鐘がなった。


またか。そう思った途端に呼吸が苦しくなり体から力が抜けていく。ここまでの疲労度とは明らかに別のものが体を襲った。さっきまで出来ていたことが何もできなくなり、ドライブが弱々しくなっていく。セットから立て直そうとするが焦りが増すばかりでうまくいかない。

「ひゅっひゅっ」と呼吸の音が聞こえる。こうなったらもう抗うことはできなかった。特にオーバーペースというわけでもなかったはずなのに。「セットして、スライドして、膝を曲げ切る前に・・・」と前半のリラックスした動きを取り戻そうとするが、どうにもならなかった。

意識が薄れていき、視界の四方が黒なり狭まっていく。頭がおかしくなったのだろうか。エルゴを漕いでいるはずなのに、目の前に陸上競技のトラックが見える。「ひゅっひゅっ」という自分の呼吸の音。ホームストレートの先にあるゴールライン付近で、コートを着た男がいた。顔は見えないが肩を震わせてどうやら笑っていることがわかる。六月に艇庫でエルゴを引いているはずなのに途端に背筋が寒くなった。

「やめとけ、やめとけ」

男にそう言われると、さらに吸い取られるように体から力が抜けていく。呼吸ができない。

「それに悪いようにはしないさ。お前を分かってやれるのは俺だけだぞ」

その囁きを聞くと、目の前は全て砂の粒に変わり砂漠になった。それから徐々に呼吸が戻ってきて、視界が明瞭さを取り戻していく。体の感覚も戻ってきた。自分は座っている。何に?そうだエルゴだ。そのことを思い出したら、エルゴのメーターが目の前に見えた。残りの距離は0になっている。そしてモニターには不本意なタイムが映し出されていた。記録は6'48"。嘘だろ、と声が漏れた。


エルゴのグリップを置いて両足のストラップを外す。シートに座ったまま地面に両足をつき、太ももの上に肘をついて俯くとレールの上に顎から汗が落ちた。

「杉本、お疲れさん」

背後から翔太さんの声がした。よりによって一番醜態を見られたくない人だ。

声を出さず俯いたまま、一度だけ頷いて返事をする。

「最後どうしたんだよ。惜しかったのに」

最後どうした。ということは初めから見てくれていたのか。単に応援したいって気持ちできてくれたのだろうか。いやきっと主将としての義務感に違いない。

「どうしたって、俺が一番聞きたいですよ」

翔太さんの「お疲れさん」に対するお礼は出ないのに、皮肉だけが口から飛び出してきた。

「悪い悪い」

顔を上げない俺の心中を察してか、翔太さんはその場を離れていった。

 あーあ、まただよ。こんな自分見せちゃいけないのに。特に俺みたいなやつは人とうまく絡めないんだから、結果くらいはずっと出してなきゃいけないのに。こんなヘボいタイムだったら、また逆戻りじゃん。高校の時の自分に。


にわかにコートの男が現れる。今度は声だけだった。

「結果なんて出しても一緒さ」

「うるせえ、お前に何がわかる」

「おー怖い怖い、でもお前に俺は殺せないよ」

気でも触れたのか俺は。なんだこの妄想は。外から見れば、大学の体育会でスポーツに励む健康的な学生だろう。でも実態はそれとはかけ離れていた。トライアルの度に変な妄想が頭に浮かぶ。妄想の中の世界は断片的には俺が知っている景色だが、つながりはよくわからなかった。意識を覚醒させながら不条理な夢を見ているようで気味が悪かった。


ストレッチマットがわりに艇庫の床に毛布を敷いて、その上に仰向けに倒れ込んだ。空間に対しては頼りない光しか発しない天井の蛍光灯だが、真下から覗くと無遠慮に白い光を浴びせてくる。視界の両端には流線形の黄と白の艇がいくつも見えた。俺たちが練習やレースで使っている船で、新人勧誘用のナックル艇とは全然違う。水上での速さを追求した形だ。八人の漕ぎ手と舵手が乗るエイトは全長17mほど。シングルスカルという一人乗りの艇でも全長8メートルほどの長さがある。シングルは艇を上から見て中央の一番膨らんでいる部分で40cm。そこから左右に60cmほどずつアウトリガーが突き出している。オールを固定するための場所だ。この艇庫にあるものは、ほとんど3点式のアルミリガーが主流だが、最近ではカーボン性のウイングリガーというものも登場している。艇はひとつずつ神棚に祀られるように堂々とそこに置かれていた。この空間においては、人間の自分の方が道具であるはずの艇より小さい存在で、見下げられている罪人のように思えた。最近はこの艇庫が自分の居場所だと感じられない。なんでこんなことやってるんだろう。もっと華やかなんじゃないの、大学生ってさ。

でもまあどうでもいいか。どうせ全部いつか終わるんだし。

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