Drive!! 第1章(全17話) 〜ボート X 小説〜
まさき
第1話
もういいって。放棄する気持ちとは矛盾して鐘の音が鳴る。
嫌味なくらい機械的な音がひとつだけ。なんか工場で商品が出荷されるときみたいじゃないか。高校生のランナーが5000mのラスト一周に向かおうとしているって言うのに。もうすこし人間味のある音は出せないものか。先頭集団が通過したときには、抽選で一等が出たみたいに派手に何度も音を鳴らしてたくせに。それにしても呼吸がきつい。顎を上げると、灰色の雲が無愛想な観客のように陸上競技場を見下ろしていた。太陽の位置がわかるくらいに薄いこの雲が、先ほど唾を吐くみたいに雨を降らせた。短時間だけ降った夏の雨が地面から蒸発して、今走っている俺たちは蒸し焼き状態にされている。元々赤茶で一色だったトラックのタータンは濡れて濃い部分と、乾き始めて薄い部分でまだらになっている。まとまらない自分の頭の中みたいだ。
「ひゅっひゅっ」
情けない息遣いは自分のものだった。体がこんなに酸素を欲しているのに、深く息ができないのはなんでだろう。レース用の平べったいスパイクが地面を叩く弱々しい音も響いている。なんか視界がぼやけて狭い。自分の目で直接見てる感じがしなかった。なんとなくカメラのファインダー越しのように四方が暗い。いきなりホームストレート側の観客席が沸いた。先頭集団がゴールしたのだろう。自分はまだバックストレート側にいて、出場している選手なのに見ている観客以上に蚊帳の外って感じだ。また視界が暗くなっていく。
ホームストレートに向かうコーナーに差し掛かると、客席が目についた。その中に俺を応援する人は誰もいない。
揺れながら動いている景色を見て、かろうじて自分が前に進んでいるんだということを確認している。足の感覚がほぼなく、自分の足で走っていることを自覚するのは難しかった。コーナーを曲がり切る。速くというより、早くと意識が叫んでいた。足だけでなく腕も肺も限界だった。記録なんかどうでもいい。早くこの苦しみから解放されたい。
ふと後ろからバタバタと足音がする。その瞬間、背筋に冷たい電気が走った。諦めたはずなのに、もうどうでもいいとか言っておきながら、その音を聞いた途端に、だめだ、走らなきゃと反射的に腕の振りを強くする。最後のストレートに入る頃には「追いつかれたらおしまいだ」と焦っている自分を発見する。ゴールまで残り100m。追手の足音はまだ遠いが確実に明瞭さを増していた。
「ひゅっひゅっひゅっ」
無様だろうがなんだろうが、走り続けなければいけない。ゴールが迫るにつれて、さらに重たく感じられる足をなんとか動かし続ける。まるで坂道でも登ってるみたいだ。そう思ってゴールを見た瞬間自分の目を疑った。
確かに傾斜がついている。ありえない。ここは陸上競技場だぞ。傾斜のついているトラックなんて聞いたことがない。それにさっきこの位置を通過したときには傾斜なんてついていなかった。
でも確かに目の前では地中から巨大な生き物に押されたみたいに、走路がゴールラインを頂点にして盛り上がっていた。なんだこれ。前を行く選手の中には手をついて頂上を目指しているものもいた。
その山の頂上に男がひとり立っている。さっきラスト一周の鐘を鳴らしていた補助員とは明らかに服装が違う。夏だというのに分厚いグレーのハーフコートを羽織って目深にフードをかぶっていた。顔は見えない。
「もう無駄だ。やめとけ」
コートの男がそういうと傾斜がさらに増して、立っていられなくなった。傾斜をずり落ちないように両方の肘と膝で踏ん張る。しかし傾斜がきつくて後退してしまう。頂上付近から選手が何人も落下していった。訳がわからない。でも自分は落ちたくないと思って身体中に力を込めている。膝が擦れてそこから血が滲んできたのがわかる。
"こいつ何がしたいんだ"と混乱していると「お前のためじゃないか」と返事がある。
顔を上げるとコートの男は手に回転式の拳銃を持っていた。その銃のシリンダーの中に気怠そうに弾丸を詰め込んでいく。そして目の前で手をついている選手に銃口を向けると、短く咆哮があった。選手の背中から血が噴き出すと、支える力を失い落下していった。
傾斜を伝って血が流れ落ちてくる。
"何してる、やめろ" 理解が追いつかないが男を止めようと必死に念じる。息がきつくて声にはならない。
「なんでだよ、いつもお前が願ってることじゃないか」
男は心底おかしいといったふうに笑っている。
「まあ最終的には俺を殺すか。俺以外を全員殺すかだよ」
そういうとコートの中に銃を収め諭すように言う。
「いつか選ぶときがくるさ」
その言葉の後、男はサラサラと砂の粒になって地面に落ちていった。さっきまで這いつくばっていた傾斜も砂になり、あたり一面は夜の砂漠になった。訳がわからないはずなのに、先ほどの数分間がずっしりと自分の中に堆積していくのがわかる。
辺り一面の砂と星のない空の下で「ひゅっひゅっ」という息遣いだけが聞こえる。
俺は残り50m地点だった場所で、無様な呼吸の音が収まるのを身を縮めてじっと待っていた。
さっきまで真夏にいたのに、執着していた何かが去ると体はたちどころに冷えていった。
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