第5話
理由はわからないが、ものすごく不機嫌な雄大さんが食堂に入ってきた。荒々しくドアを開いてドカンと音を立てて席についた。空気を壊すという意味ではこの人も俺と同じだけど、それでも雄大さんが堂々としていられるのは、圧倒的な実力があるからだろう。多少ムードが壊れようが、そんなものお構いなしの力がある。俺もそうなりたい。今の俺はエルゴも一番遅いし、チームの雰囲気を壊す人間だ。
「お前、鬼みたいな顔すんなよ」
辰巳さんが雄大さんにそうツッコむと、その鬼は笑って普通の大学生になるから不思議だ。雄大さんはなぜだが辰巳さんとだけは、仲が良い。というか辰巳さんが誰とでも仲良くなれる特殊な人だからかもしれない。
「おーい、杉本、ちょっときてくれー」
翔太さんが食堂の入り口から顔だけ出して俺を呼んだ。返事をする間も無く、その顔はすぐに引っ込んでしまった。「きてくれ」というのはおそらくミーティングルームにきてくれということだろう。食堂の向かい側には八人掛けの丸型のテーブルと、デスクトップのパソコンが二台配置されただけの簡素なミーティングルームがある。そこはいつも四回生の主将とか役職がついている人しか普段出入りしない。その部屋に呼ばれるってことは、俺たちにとっては結構特別なことだった。俺はふと、さっきエルゴが終わった後の無礼な態度を咎められるのかなと思った。冷静になった今は申し訳ないとは思う。でも誰だって極限状態の時は他人に対して配慮が難しくなるだろう。ましてやタイムが悲惨で自分が毎日積み重ねてきたものが無駄だったと知った時、他の誰かに優しくなんて出来ないだろう。謝れと言われれば謝るが、釈然としない気持ちは残るだろうなと思った。しかし俺を読んだ翔太さんは自分のトライアルの前に俺のことを応援してくれていた。そして、ぶっ倒れている俺にさらっと声をかけてくれた辰巳さんのことも思い出した。ふたりのような先輩もいる。自分との違いはなんだろう。
ミーティングルームの扉を開けると、翔太さんだけではなく副将の下谷さん、それから副将でCOXの川田さんも同じくテーブルに腰掛けていた。てっきり翔太さんとふたりで会話すると思っていた俺はたじろいだ。そんなにまずい態度だったかな。
机の上には何枚か印刷された紙がある。チラッと見ると、そこには今日のトライアルのタイムが記録されていた。その横に「5」とか「B」とか数字やアルファベットが記入されている。これはボートのどこに座るかを意味しているのだろう。エイトならストロークは「S」その後ろで漕ぐ人を「7」その後ろを「6」と順番に表していって「2」の次は「B」で終わる。「S」はストローク、「B」はバウとも呼ばれる。今日のトライアルの結果と、今までの試合での実績で次の六甲戦のクルーを決めているに違いない。
「杉本、明日から俺とペアに乗ろう」
俺は最初翔太さんが言っている意味がわからなかった。
「六甲戦は俺と杉本のペアで出場したいと思ってる」
俺は必死に自分の頭の中を整理した。言っていることは簡単だ。「ペア」は漕手がひとり一本ずつオールを持ち、艇の各サイドを一人ずつが漕ぐ種目だ。桂さんばバウサイドという艇に座った時の左手側を、俺はストロークサイドという右手側を漕ぐ。要するに漕手の実力差が如実に表れてしまう種目である。片方だけ漕ぐ力が強ければ当然艇は真っ直ぐには進まない。そんなペアで部内でも主将を任されている翔太さんと、一番遅い自分がクルーを組むなんて。冬のオフシーズンならまだしも、来月にレースを控えている中では考えにくいことだった。何より対校戦といえば両校のエイトが雌雄を決するのがメインイベントである。複数種目にエントリーすることは出来ないはずで、そうなるとエイトに主将の翔太さんは乗らないことになる。色々と気持ちが入り混じっている。呼吸が浅くなって、視界がチカチカした。さっきまで投げやりになっていたのに、自分勝手な気持ちが「翔太さんとクルーを組めば、自分は何か変わるかもしれない」と直感していた。どこまでも自己中心な俺はチームの全体最適よりも、自分の享受する環境に対して気持ちが昂っていた。
「エイトはどうするんですか?」
偽りの心配を口にする。とっくに頭の中では、自分にこれから起こる変化に対する期待の方が大きくなっていた。
「そりゃ残ったメンバーで組むさ。それに六甲戦の対校はエイトじゃない」
そうですか。と曖昧に返事をした。
俺たちのやりとりをすぐそばで下屋さんと川田さんは何も言わずに見守っていた。一緒にいるのに何も言わないってことは、翔太さんの独断ってわけでもなさそうだ。ちゃんとこの三人が承知しているなら、チームとしても問題はないだろう。反対意見が多少出たとしても、この三人の意見を覆せるとは思えない。翔太さんたちの真意はわからないけれど、俺は身に余るその環境を受け入れることにした。
「ペア、頑張ります。よろしくお願いします」
「よし、決まりだな。じゃあ明日からよろしく頼むな」
翔太さんは表情を緩ませて笑う。下屋さんと川田さんも肩の力を抜いたように見えた。俺だって馬鹿じゃない。色んな事情があるには違いないが、その中に成長が止まっている俺をなんとかしようと考えてくれた配慮があることは間違いない。そのくらい分かる。
さっきまで、どうでもいいと自分自身に言いながら、実力も伸ばせず、チームにも害を与えている自分。でも自分にとって都合のいい環境があれば、さっと色めき立っている。何回もこんなことを繰り返している気がする。頑張ろうと決めても頑張りきれず、どうでもいいと言い訳とも予防線とも取れる便利なものを張り巡らせてボートをしている。もう終わりにしよう。次、この環境で変われなかったら、ボートは諦めようとも決めた。次の試合が最後になるかもしれない。そしてボートを諦めるってことは単にスポーツを辞めるだけじゃなくて、何かもっと大きなものを諦めることのようにも思えた。
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