逃げろ!ひらがなから!

飛鳥休暇

きみの刺身を食べたい

 それは二限目の授業が始まった直後だった。

 廊下をバタバタと大きな音を立てて誰かが走ってきたかと思うと教室の扉を勢いよく開けた。


「ひ、ひらがなが学校内に入ったらしい! みんな急いで体育館に移動しろ!」


 息を切らしてそう告げたのは生活指導部の権藤先生だった。

 普段は仏頂面で生徒から恐れられている先生が必死の形相でそう訴えてきたので、全員が先ほどの言葉が冗談でないことを理解できた。


 教室内で軽い悲鳴が上がったあと、全員が音をたてて立ち上がり廊下へと殺到する。


「なんでひらがなが入ってくるんだよ」

「敷地内はフェンスで覆われているはずなのに」

「押さないで! 押さないで!」


 混乱した様子で各々が不安を口に出す。

 避難訓練のたまものか、あるいは現実感がないからか、早足ではあるが全員が行儀良く列を作って体育館を目指す。

 権藤先生はおれたちより先に次々と教室を回りひらがなの来襲を告げている。


「本当にひらがなが入ってきたのかな?」


 おれは後ろから聞こえてきた声に聞き耳を立てる。

 それが憧れの存在である姫野紗妃ひめのさきの声だったからだ。


「権藤先生があんな必死なとこ初めて見たから本当なんじゃない?」


 姫野とカップルよろしく腕を組みながら歩いている仲良しの女子が答える。


「た、体育館まで行けばひらがなも入ってこれないし、非常食とかも備えているらしいから大丈夫だよ」


 おれは顔だけを後ろに向け、さりげなく二人の会話に入っていく。


「うん、そうだよね。浜崎くんありがとう」


 そう言って微笑んだ姫野は天使のように可愛かった。


******


 日本にそれが現れたのは一年ほど前のことだった。


 初めて確認されたそれは「す」だった。


 高さ百五十センチ、長さ百センチ、幅三十センチほどのそれを初めて見た人間は、映画の撮影かなにかかと思ったことだろう。

 薄い灰色で不格好な3DCGのようなそれは次々と人を襲いだした。

 襲いだしたといっても噛みついたり、殴りかかってくるわけではない。

 その「す」に触れた人間はみな、頭文字が「す」のものに変異させられたのだ。

 たとえば「酢だこ」、たとえば「すいか」、中には「スギ花粉」なんかに変えられた人もいたという話を聞いたが、すぐに風に飛ばされたそれを確認するすべは無かった。


 ともかく、そのひらがなの「す」はその町のほとんどの住民を「す」のつく物に変えてしまった。


 連絡を受けた警察、消防、自衛隊にも大きな被害が出た。


 なぜなら対処法が分からなかったからだ。


 拳銃を撃ってもダメージを受けず、捕まえようにもそれに触れた途端にたちまち「す」の物に変えられてしまうのだ。


 しかし、対処していくうちに人以外の物理的なものは変化しないことが分かったため、いくつかの網を使い「す」を捕縛し、檻の中に閉じ込めることに成功した。


 これが「始まりの【す】事件」だ。


 その日を境に、各地で「ひらがな」の出現が観測されるようになった。

 ひらがなの姿は様々で、それは「ま」とか「れ」とか、ともかくひらがなの一文字の姿で現れては、触れた人間をその頭文字が付く物体に変異させていった。


 日本政府は対策本部を作り、全国民はこの謎の「ひらがな」の存在を恐れることとなった。

 このことは世界にも知られることとなり、一時期日本円は暴落、世界との貿易もストップし、強制的な鎖国状態となってしまった。


 しかし、そんな中起きたのが「カリフォルニアの【ふ】事件」だ。


 貿易が中止されているはずのアメリカ、カリフォルニア州で突如としてひらがなの「ふ」が現れたのだ。

 全米が騒然となったこの事件は、一人の味噌好きアメリカ人が起こしたものだと後の調査で発覚した。

 そのアメリカ人は日本の味噌が好きすぎるあまり、秘密裏に船を使い味噌を密輸していたのだ。

 そしておそらくその船のどこかに隠れていた「ふ」がアメリカへと上陸してしまったというのが関係当局の見立てであった。

 後に逮捕されたそのアメリカ人が裁判で叫んだ「NOミソスープ! NOライフ!」という言葉はその後しばらく流行語となった。


 さて、アメリカで発見されたその「ふ」はというと、現在は州立動物園の檻の中で飼われている。

 不思議なことに、初めて発見したアメリカ人がこの「ふ」に触れても何も起こらなかったのだ。

「変なものが町を歩いているぞ」と話題になり、近所の住民が一目見ようと集まった。

 そして珍しい動物に出会ったときのように「ふ」の周りに群がり、そしてなで回したのだが、誰一人として「ふ」のつく物に変異しなかった。

 そんな中、一人の女性が近づき、他の人間と同じように「ふ」に触れた。

 その瞬間、女性は「」に変異した。

 それを見ていたとなりの男性が「what is fukin snack!なんだこのクソお菓子は」と叫んだのはあまりにも有名な話だ。

 その女性は日系アメリカ人で日本語が堪能であったことが後の調査で判明した。

 現在では、動物園の「ふ」の檻の中に「麩」を投げ入れるのが観光客のブームとなっている。

(なお、「ふ」は「麩」を食べることはない)


 そしてこの「カリフォルニアの【ふ】事件」により、以下のことが判明した。


・ひらがなは人間の「匂い」のようなものを感知して近づいてくる。

・ひらがなは、ひらがなというものの概念を理解している者が触れるとその者を変異させる。

・ひらがなに「触れた」と認識した時点でその者は変異してしまう。

・ひらがなにより変異させられた人間を元に戻す手段は未だ解明されていない。


 つまり、人間以外の動物は変異せず、日本語が理解できない外国人も変異することはない。

 また、いくら手袋や防護服を着ていようがその人物が「触れた」と認識してしまうと変異してしまうため、日本にいる人間の対策としてはフェンスや網で「ひらがな」の侵入を防いだり、近づかないということを徹底するしかないのだ。


******


「とりあえず点呼をとるから全員出席番号順に並べ!」


 体育館に辿り着いたおれたちは全校集会よろしくクラスごとに一列に並べられた。

 整列してはいるものの、そこかしこから話し声が聞こえてくる。

 そのほとんどが不安を口にする声だった。


「本当に大丈夫かな?」


 ひとつ後ろで体育座りをしている姫野が口にするのをおれは聞き逃さなかった。


「大丈夫だよ。きっとすぐに対策部隊が来てくれるから」


 おれはさりげなく振り返り姫野にぎこちない笑顔を向ける。


 ――なにがあっても君のことはおれが守るよ。


 その言葉は喉元まできて、結局外には出なかった。


「そうだよね。それにみんなもここにいるんだし」


 そう言って微笑む姫野の顔を見れただけで、おれはほんの少しだけ侵入してきた「ひらがな」に感謝をした。


 姫野紗妃は可愛い。

 ブラウンがかった瞳が特徴的な大きな目が可愛い。

 重力に逆らわず滑らかに落ちるロングヘアーが可愛い。

 いまにも折れてしまいそうな細い首が可愛い。

 姫野という名字なのに名前に「妃」が入っているのが可愛い。


 おれは出席番号順で姫野のひとつ前になれたことだけでご先祖様に感謝した。


 その間にも先生たちが各クラスの点呼を取っている。

 今日の欠席者はいなかったか、いまここにいない学生はいるかなどと先生たちが話し合っている時だった。


 体育館の入り口の扉から、なにかがぶつかるような大きな音が響いた。

 一瞬にして体育館内が静まりかえる。


「逃げ遅れた人間か!?」


 生活指導の権藤先生が大声で扉の外に呼びかける。

 しかし返事はなく、規則的に何かが扉に衝突する音が響くのみ。


「ひ、ひらがなだ!」


 誰かの叫び声が聞こえると、体育館内は騒然とした。

 女子生徒たちはお互いの手を握り合い震え、男子も口をあんぐりと開けて固まっている。


「だ、大丈夫だ! 体育館の扉はしっかりと施錠している! じきに対策部隊が来てくれるはずだ!」


 権藤先生がみんなを落ち着かせるために大きな声を出した。

 ――その時だ。


 ふらり、と列から立ち上がる影が見えた。

 確かあいつは隣のクラスの、飯島とかいう名前だったはずだ。

 伸ばしっぱなしの不衛生な髪の毛で顔が隠れ、表情は見えない。


 飯島はゾンビのようにゆらりゆらりと扉に近づいていく。


「おい! 飯島ぁ! お前なにしてんだよ!」


 隣のクラスのヤンチャな金髪男子が飯島に怒声を浴びせる。


 ふ、ふふふ、とどこからか笑う声が聞こえてきた。

 発信源は他でもない、飯島だった。


「イーヒッヒッヒ! ヒャーッハッハ!」


 突如として狂ったように笑い声を上げる飯島。

 そこでようやく見えた飯島の目は血走っていて狂気に満ちていた。


「よくぞ。よくぞ今まで僕をいじめてくれたなぁ! バカども!」


 飯島が指さしたのは先ほど彼に怒声を浴びせた金髪男子だった。

 指された男子とその周りにいた数人の学生がびくりと肩を揺らした。


「な、なんだよテメー」


 金髪男子が立ち上がろうとするのを、飯島が手の平を向けて制する。


「フェンスで覆われた学校になんでひらがなが入ってきたと思う?」


 飯島は楽しそうに金髪男子に問いかける。


「おかしいと思わないか? まぁ、君の頭だと分からないかもしれないけどね」


「あぁ?」


 自身が馬鹿にされたことを理解した金髪男子が飯島に睨みをきかせる。

 飯島はそれを意にも介さず徐々に扉へと近づいていく。


「お、おい。何する気だ?」


 金髪男子が戸惑いの声を上げる。周りの人間も状況が掴めずに固まっていた。


「いままでぇ! さんざん! この僕を! 馬鹿にしてきた! 罰を受けろ! お前ら全員だぁぁ!」


 飯島はそう叫ぶと同時に扉に向かって走り出した。


「やめろ!!」


 飯島がなにをしようとしているかを理解した金髪男子が叫ぶが、飯島の手はすでに扉にかかっていた。


「みんな死ねばいい。お前ら全員! 死ねばいいんだぁ!」


 飯島が叫ぶと同時に体育館の内鍵が開かれ、重厚な扉の外側から太陽の光が差してきた。

 その瞬間。


 プイーン。


 一瞬にして飯島の姿が消えた。

 代わりに全員の目に映ったのは、子どもの背丈ほどの「さ」というひらがなだった。


 つかの間の静寂の後、すぐにそこかしこから悲鳴が上がった。


「ひ、ひらがなだぁぁ!!」


 整列していたはずの学生たちが散り散りになって走り出す。

 しかし、腰が抜けたのか固まって動けない人間に向かってひらがなが接近していく。

 その動きは想像以上に速かった。そして。


 プイーン。プイーン。プイーン。


 馬鹿げたゲームの効果音に似た音と共に、次々と人間が変異させられていく。


 ある者は「サイコロ」に。ある者は「桜餅」に。あるいは「サバイバルナイフ」に。


 人間が変異していく様を初めて間近にしたおれも驚きのあまり動けなくなっていた。


 ひらがなはどんどんと近づいてくる。


 隣のクラスで同じバドミントン部に所属している伊藤がすぐ目の前で白い粉に変異した。


 ――砂糖だ。


 なぜかおれは冷静にそんなことを思ってしまった。

 「さ」のつく白い粉といえば砂糖に違いない。


 ちくしょう! 伊藤は砂糖になってしまった! あいつは伊藤なのに!


 そんなことが頭をぐるぐる回っているうちにひらがなは目の前まで迫ってきている。

 ふと隣を見ると、姫野が顔を伏せて固まっている。

 その瞬間、おれの身体に力が戻ってきた。


「姫野! 逃げよう!」


 おれは姫野の手を取るとすぐさま立ち上がりひらがなから距離をとるべく走り出そうとした。


 ――が。


「浜崎くん」


 姫野の声に振り向くと、涙で真っ赤に目を腫らした姫野がおれを見ていた。

 そのあとはまるでスローモーションのように見えた。


 足先をひらがなに触れられた姫野がプイーンという音と共に目の前で変異した。


 新鮮で美味しそうな「刺身」へと。


「うわぁぁぁ!」


 おれはとっさに横っ飛びをしてひらがなをかわす。


 ひらがなは別の人間をターゲットにすべくおれの横を過ぎ去っていった。


「ひ、姫野」


 おれはかつて姫野であった刺身の前で膝をつく。

 いくら呼びかけたところでマグロの刺身になった姫野から返事はなかった。


「別の扉から逃げるぞ!」


 誰かの叫び声が聞こえた。


 誘導されるように体育館の別の扉に殺到する人間たち。

 焦っているのか、内鍵を開けるのに手間取っているようだ。


「開け! 開け! ……よし! 開いたぞ!」


 しかし、扉が開いた次の瞬間聞こえてきたのは例の効果音の連続だった。


 プイーン。プイーン。プププイーン。


「……嘘だろ」


 おれの目に入ってきたのは、次々と変異していく人間と、変異させている元凶、――ひらがなの「き」だった。


「……二体目」


 学校に侵入してきたのは一体ではなかったのだ。


 体育館は地獄絵図となった。

 奇声を上げながら必死で逃げ回る人間、壁際で腰を抜かし失禁する人間。


 おれもなんとか力を振り絞り壁際まで行きひらがなの動きを注視する。

「ちくしょう! どうすれば!」


 その時、目に入ってきたのは先ほど誰かが変異したサバイバルナイフだった。

 おれは瞬時にそれを掴み鞘を抜き取る。

 新品のような輝きを放つ刃が現れた。


 そんなものでどうにかなるとは思わないが、少なくとも何もないよりはましだと思った。


 残っている人間はもうあとわずかだ。


 ひらがなの「さ」が狙いをつけたかのようにおれに迫ってきた。


「やってやるよ! ちくしょう!」


 おれは迫り来る「さ」に向かい両手で握ったサバイバルナイフを突き出した。


「うぉぉぉぉぉ」


 サバイバルナイフの先が「さ」と接触する。

 しかし刃はひらがなに傷一つつけることはできなかった。

 おれは「さ」に刃を当てたまま身体ごと後ろに押され続ける。

 それはとてつもない力だった。


「ぐぎぎぎぎ」


 せめて触れないようにおれは必死になってサバイバルナイフに力を込める。

 が、その時だ。


 視界の端に「き」の姿が映った。


 おれの後方からすごい速さで近づいてくる。


 ――ちくしょう。おれの人生これで終わりなのかよ。


 一瞬にして走馬灯のような思いが脳内を駆け巡る。


 ――どうせ、どうせ死ぬならおれは。

 ――姫野の刺身を食べて死にたい。


 そう思った瞬間、信じられないような力が全身に沸き上がってきた。


「うぉぉぉぉぉ」


 おれは背後から近づいてきた「き」が身体に触れる寸前、横っ飛びでそれをかわした。


 勢い余った「き」と「さ」が衝突する。


 バシューン。


 辺りに効果音が響いたかと思うと、衝突した「き」と「さ」の姿が消滅した。


 体育館が再び静寂に包まれる。


「……消えた」


 理由は分からない。

 お互いの能力が暴走して消し合ったのか、それとも衝突する速度が関係するのか。

 ともかく、目の前にいたはずの二体の悪魔は消え去っていたのだ。


 生き残っていたわずかな人間も、徐々に事態を把握したのか歓喜の声を上げた。


「浜崎! お前やったな!」


 話をしたこともない別のクラスの男がおれの肩を強く叩く。

 そいつの目も真っ赤に腫れていた。


 おれは呆然としていた。

 定まらない思考の中で唯一の思いに突き動かされてゆっくりと歩き出す。


「どうせ、……どうせ元に戻らないなら」


 変異させられた人間は、ひらがなが消滅しても元には戻ることはなかった。

 ふらふらになりながら目的の場所へと近づいていく。


 ――姫野の刺身を食べよう。


 おれの頭にあるのはその思いだけだった。

 かわいそうな姫野。

 可愛い姫野。

 大好きな姫野。


 どうせこのまま元に戻らないなら。

 新鮮なうちに。

 おれが食べてやろう。

 その身を食べて、一緒に生きていこう。



 おれはかつて姫野であった刺身のそばまでいくと、その場で膝をついた。


「あぁ、おいしそうだ」


 刺身になっても姫野は姫野だった。

 艶やかに赤く光るそれをおれはとても愛おしく思った。


 そして両手を合わせて一礼し、姫野の刺身を一切れ掴み、大きく口を開けた。


 ――その時だ。


 プイーン。


 背後で再びあの音が聞こえた。


 おれはゆっくりと振り返る。


 虚ろなおれの目に飛び込んできたのは。



「……嘘、だろ?」


 体育館の入り口付近から入ってきたそれは、不格好な3DCGのような、――カタカナの「タ」だった。



【逃げろ!ひらがなから!――完】

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