010_非当事者の独学者がジェンダー論を勉強していたら躓いてしまった話 上


 独学でジェンダー論について勉強していたら躓いてしまったという話をする。できるだけどの方向にも攻撃しない表現を心がけたが、私の知識や想像力が至らずにそれが徹底できていないかもしれない。不快に感じられた方はそこで読むのをストップしていただいて構いません。

 以下本文、2000字くらい。


 最近、ジュディス・バトラーという哲学者の『欲望の主体』という本を買った。ジェンダー論については少しずつ勉強はしていたものの、世界の流れが速く、自分は古い価値観に取り残されているのではないだろうか、誰かを踏みつけにしているのではないだろうかと常に悩み続けていた。「差別しないこと」や「正しくあること」は、自分で決心しただけできるものではないということを、ここ数年で痛感した。

 私は百合を書いている人間として、フェミニズムやジェンダー論についても理解しておかなければならないと思っており、それについて勉強しているわけなのだが、やはり独学でしかないわけであり、現在、ついに壁にぶつかってしまった。その壁とは、今現在ネット空間やイギリスなどで起こっているジェンダー論についての「バックラッシュ」に関するものだ。考えれば考えるほど、この問題がどちらかが悪いというような簡単なものではないということが分かってきて、絶望してしまった。


 繰り返すが、差別をしないための方法は「差別をしない」と決心することではない。自分はこの意見を表明することによって何を踏みつけているのか、ということを自省することがスタート地点なのだと思う。ここで言っているのは、人は皆差別をするとか、差別をするのは仕方がないなどという話ではない。それでは思考放棄となる。差別をしないというのはある意味人間の究極の存在様式であって、私は現時点でその状態になっていないということを自覚して、常にその方向へ向かって進んでいくのだという姿勢を忘れないことが重要なのだと考えている。

 最近は女性とトランス女性(この分け方すら良くないのかもしれない)の概念を巡っての対立が激化している。そして奇妙なことに、どちらも「相手が差別者である」ということを主張している。その主張のために、様々な個別の事例が引き合いに出され、攻撃的な言葉が飛び交っている。


 ここでは、飛び交っている言葉や議論を具体的に取り上げることはしない(誰がどう傷ついてしまうか、本当に予想できないので……)。だがこの文章を読んでいる人は、ある程度知っていることと思う。


 この問題を考える上でネックなのは、私自身の属性が異性愛者の男性であるということだ。つまり女性とトランス女性のどちらの当事者でもないのだ。もしトランス女性の立場に寄った発言をすれば、現実に存在する性被害を無視し、女性の性被害経験の表明を否定(いわゆるセカンドレイプ)することになってしまう。しかし女性の立場に寄った発言をすれば、現実に存在する性被害を利用してトランス女性を差別するという、果てしなくグロテスク構図が生まれてしまう。このような絶望の三叉路に立ち尽くしている自分に気づいたとき、私はもう何もできることはないと思った。というより、何もしてはいけないと思った。ひたすらに中立を保って何も発言するべきではないのだと結論を出した。


 ……のだが、そうした姿勢もよくないと思い始めた。黒人差別に関する言葉で「白人がすべきなのは、黒人を差別しないことではなく、黒人差別に反対することだ」というものを聞いた。これは抑圧側の属性を持っていて、かつ差別しない生き方を模索している人間すべてに当てはまることだと思った。だがそもそもどのような思考の枠組みを持てば差別せずにいられるのかが、このままでは見当が付かない。


 上でも言ったとおり、私はどちらの属性でもなく、当事者ではない。なので自分の経験に立脚した意見を述べることはできない。また専門家や研究者でもないので、個別の事例を精査して分析するなどの方法も採れない。


 では私には何ができるのだろうか。完全に無関心でもなく、当事者でもなく、研究者でもない、素人の独学者である。であれば、何も知らない状態から、知識をつけていく中でどのような思考の枠組みを構築していったのか、その流れを示すことはできるのかもしれないと思った。その中で、非当事者や独学者が陥りやすい誤謬を明確にすることができるかもしれない。


 これまでの文章を読んでいて、ツッコミを加えたくなった読者がいるかもしれない。上で私は、まるで女性とトランス女性が直接対立しているかのように書いていた。これは正しい見方ではない。ここで、社会構造そのもの悪いという話もできるのだが、論点が逸れてしまうのでここでは触れない。ここで私は、私の頭の中にある二つの思考の枠組み同士が対立しているのだという考え方をしたいと思う。つまり女性差別を認識するための思考の枠組みと、トランス女性の差別を認識するための思考の枠組みが対立しているのだと考える。


 次の回では、私(非当事者の独学者)がフェミニズムやジェンダーについて何も知らなかった状態から、現実に存在する差別に目を向けながらどのように思考の枠組みを変遷させてきたのかを順を追って説明していく。それによって、非当事者の独学者がどのような道を進んで躓いてしまうのかを示すことができればいいなと思っている。その中で、思考の枠組みが対立しているという先ほどの話も理解していただけるのではないかなと思う。



 本文ここまで。

 次回予告代わりに、次の話の草稿を下に書いておく。書こうとしている内容はこれでほとんど語れているかもしれない……。


<段階A:性差というものを認識していない状態>

「私」:性差というものが現実の生活や競争に影響しないと思っている

認識対象:漠然とした概念としての女性

問題点:男女の身体的差異を認識していないため、女性の身体性(体力、生理、妊娠可能性、性的対象化)から生まれる抑圧が見えず、「公平な競争」が既に行われているのだと勘違いしてしまう。女性の活躍推進や防犯についての施策を見て、不公平だとか男性差別だとか女尊男卑だとか言い始めてしまう。



<段階B:男女を区別してその性差に注目すること、その身体的な差異から直接的・間接的に生じてくる格差を是正する必要があるということを認識した状態>

「私」:差別解消のためにはまず属性ごとに区別して差異に注目することが、かつ唯物論的(身体性に立脚する)に物事を見ることが重要だと考えている

認識対象:身体性によって社会的な抑圧を受けている形での女性

問題点:精神的に女性である人や、性別二元論に当てはまらない人間も存在しているということを想定できていないため、女性という概念からトランス女性を排除することになる。


<段階C:身体性による区別の境目は実は曖昧なもので、どちらにも属さない存在もおり、そうした人たちも特有の抑圧を受けているのだということを認識した状態>

「私」:区別を統合(あるいは解消?)しなければならず、身体性ではなく精神性を見る必要があると考えている

認識対象:LGBTQといった多様な人々

問題点:身体性によって生じていた格差を是正していたはずが、その施策の対象が不明確になり、是正措置で救おうとしていた対象が取りこぼされてしまう。



<ぶつかっている壁>

 段階Cの枠組みを手に入れた時点で、私は段階Bで手にしたはずの女性特有の抑圧についての認識が、手綱を離れて逃げ去ってしまうことに気づいた。しかし段階Bに戻ると、先ほどやっと捕まえた「二元論に立脚しない性の概念」を手放してしまう。ここで歩みが止まる。絶望の三叉路。



終わり

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