007_神という概念についての理解、簡単なメモ
少し前にこんなツイートをした。
「人間は神について考えすぎてしまっているから、実際に神を名乗る上位存在が現れても神の定義に当てはまらないとか言いそう」
西洋哲学の本を読んでいて、神という概念によくぶつかることがあった。自分なりになぜしょっちゅう神の話が出てくるのかを考えたので書いておく。結局のところ完全な独学なので、ものすごく頓珍漢なことを言っているかもしれない。その時はご指摘ください。
以下本文。800字くらい。
西洋哲学の書籍を読んでいると、本当にしつこいぐらいに神の話が出てくる。
神はいるのかいないのか、神の意志とは、神は何を求めているのか……。
キリスト教の信者ではない私は、これまでそうした叙述を読んでも、うるせえ!! としか思えなかった。あまりにも頻度が多すぎて、好きで哲学書を読んでいても神の話が出てきたらその部分を飛ばすくらいにはうんざりしていた。
……なのだが、最近は、神を求めようとして思索を重ねた昔の人の気持ちがだんだんと分かるようになってきた。
別にキリスト教に改宗したいと思っているわけではないし、エルサレム発の諸宗教が人類の宗教の中で一番正しいと思っているわけではない。
ただ、人間というものは、自分が物事を判断する上での理由や法則性のようなものを何回も何回も考え続けているうちに、より根本的で普遍的な原理を求めたくなる欲求を持っているのだと思う。何が正しいことなのか。1のケースではどうか。2のケースではどうか。では3のケースでは……?
ずっと個別的な問題ばかりを繰り返していてもその先には進めない。
だから古代ギリシアの哲学者は絶対的な「善」を求め続け、そしてその延長にイデアというものを見出そうとしたのだろう。それがキリスト教と結びついて西洋哲学となり、神や絶対者などの呼び方をするようになった、ということなのだと理解している。
そのように考えると「西洋に押しつけられたもの」と勝手に思い込んでいた神の概念もかなり肌感覚で理解できるようになる。
哲学者たちは、聖書に書いてあるから、教会の権威が怖いから神について考えていたわけではないのだろう。いると書いてあるからいるのだ、というのはよく考えると哲学の姿勢から最も離れている。そうではなく、正しいものというものを追求していく過程で、その正しさを本当の意味で保証してくれる根本原理は一体どこにあるのだと見まわしたときに「神」という単語が当てはまる何かに照準を定めることになるのだろう。
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