005_哲学の棚卸 自分の思想の移り変わりを復習する2
<唯物弁証法の限界に行き着く>
マルクス主義の唯物弁証法によって、社会の問題について思索を深めることができるということを少しずつ理解していったのだが、だんだんと違和感が出てくるようになる。 2点、気になることがあった。1つは、マルクス主義を主張して解説している人たちの口調だ。恐ろしいほどに他者を攻撃する。意見の違う人間に対しては、もう道徳的な欠損すらあるかのように、その人が書いた文章を徹底的にこき下ろしている。はじめにマルクスがそのような論の展開の仕方をしてしまったものだから、それがエンゲルス、レーニンにも引き継がれているのかなと思っている(それぞれ、プルードン批判の『哲学の貧困』、デューリング批判の『反デューリング論』、マッハ批判の『唯物論と経験批判論』)。
毛沢東までいくと、東洋の陰陽道などの思想や老子・孫子思想なども合流してかなりマルクス主義のけんか腰は薄まっている。マルクス主義者の文章で一番読みやすいのは圧倒的に毛沢東だ。かつての文化大革命時代には毛沢東語録などというものが学生たちに手渡され、みんなそれを読むことができていたのだからはやり読みやすく平易な文章を書くのがうまいのだと思う。
弁証法の思考方式の1つに(弁証法に限らないが)、内因と外因の区別がある。ある物事が発展するためには内因に働きかけねばならない。内因を重視せねばならない。外因に頼るのは外部に依存することになり、自力では発展できないといういうことになってしまうからだ。
つまり内因のほうが本質的な原因なのだということなのだが、これを表して、
「卵と熱があれば鶏が生まれるが、石と熱では鶏は生まれない」
と言った。外因と内因、本質はどちらにあるのかを見極めねばならないということを端的に表している。
とはいえ毛沢東も、対日戦争や革命戦争の指導は天才的だったものの、いざ「統治」が始まるとその限界が見え始めてしまう。
唯物論的弁証法への気になる点の2つ目がこれだ。
マルクス・レーニン主義はこれまでの哲学や社会通念をすべて疑って、その先に答えを見いだそうとするが、そうした努力の末にマルクスやレーニンが見出したものを後の時代の人々が絶対化してしまうという特徴があった。懐疑の先にあるものをつかみ取ることこそが彼等が目指したことの本質のはずなのだが、共産主義者たちはマルクスやレーニンがつかみ取ったものをご神体として大切に教条の祠の奥へとしまい込んで拝むだけになってしまう。なぜならそうしなければマルクス・レーニン主義お得意のけんか腰の人格攻撃によって政治的にも社会的にも、そして肉体的にも抹殺されてしまうからだ(トロツキーは本当にかわいそう)。
マルクス・レーニン主義はその性質上「敵」と「味方」を明確に分け、片方を闘争によって滅ぼすことを至上の目的とする。そのため革命や戦争指導には絶大な力を発揮するが、平和が訪れた後の統治に使うにはあまりにも攻撃的すぎる。統治をするときには、味方も敵だったものもまとめて利害を一致させることが必要となるはずなのだがそれができる理論ではないのだと思う。
<ついにマルクスへ、そしてヘーゲルへ>
そういうわけで、マルクス、レーニンそして毛沢東に至るまでの間に抜け落ちたものは一体なんなのだろうかと気になり始めた。そこで共産主義の思想の源であるマルクス、そしてマルクスの思想の源であるヘーゲルへと私の興味は移っていくことになる。そしてせっかくなら根本を読みたい、つまりヘーゲルを読んでみたいと思った。
……とは言ったものの、この時点で私は哲学的な素養はほとんど持っていないし、西洋哲学、特にドイツ哲学に特有の用語や文脈を全く理解していなかった。つまりマルクスやヘーゲルを読めるような状態ではなかった。
一応、平凡社ライブラリーから出ている『精神現象学』を本屋で買って読んでみたが、やはりちんぷんかんぷんだった。
使っている言葉が難しい、なんてレベルではない。訳文って読みにくいよね~なんてあるあるの話でもない。日本語が書いているはずなのにいくら読んでも音しか頭に入ってこない。書いている内容が一切分からなかった。
この挫折はかなり大きかった。自分の頭ではこんなものは理解できない。やはり馬鹿は馬鹿なりに難しいことなど考えずに生きていくしかないのだ……。
絶望した私はもう哲学なんてこりごりだと思うようになり、哲学に関する本を探したり調べたりすることもなくなった。
時々思い出したように『精神現象学』のアマゾンのレビューなどを読んで、自力で読み解けない悔しさを噛み締めたりしていたが……。
<挫折からしばらくして、百合から哲学へと進んでいくことになる>
哲学から距離を置こうとした私だったが、また別の方面から哲学へと接近していくことになる。
私は元々アニメや漫画、小説などを愛好するオタクなのだが、その中でも特に百合というジャンルを好んで読んだり観たりしていた。
特に『艦これ』や『ストライクウィッチーズ』のシリーズ、『結城友奈は勇者である』のシリーズなど、人類を脅かす怪異と戦うタイプの百合が好きだったのだが、そうした作品を好んでいることに対する罪悪感のようなものにいつもつきまとわれていた。
そんな折、『艦これ』界隈のとある二次創作サークルの作品群を読んで、私はまた衝撃を受けることになる。
次からは、百合から現象学へ、そしてメタ倫理学への興味の変遷について話してみたいと思う。
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