3 Almost all you need is here.


「あんまり素直に聞き入れてしまうから、少し焦りました」


 ウルフは外に出るなりそう言った。


「何のこと?」

「店主の言葉ですよ。適当な時間や日付を言っていたでしょう?」

「言ってたね」

「あれをそのまま鵜呑みにすると、その時間の世界に出ることになります」


 反射的に「嘘、本当に?」と言いはしたけれど、僕はその不可思議を自然と受け入れていた。目の前で朝になられたりしたんだ、受け入れざるを得ないだろう。


「先に言っておくべきでしたね。あの場所は店主が認識する時間に存在するんです。客は基本通り過ぎるだけなので何の問題もないのですが、店主に話しかけられると、彼の認識する時間に巻き込まれてしまうんです。店主は悪気があって話しかけてきたわけではありませんよ。元々話し好きな方なんです。本来は客の時間に合わせてくださる方だったんですけどね、すっかりぼけてしまって」

「ぼけちゃいけない人がぼけちゃったんだね。それじゃあ大変だ」


 何気なくそう言うと、ウルフが急にこちらを振り向いた。ブラックホールが大きな声で“理解不能”と叫んでいる。


「怖くなかったんですか」

「え、うん、別に」

「詳細を聞いた今でも?」


 僕はちょっと考えて――怖いかな? いや、別に怖くないな――頷いた。

 ウルフが眉根を寄せる。


「君の“怖い”の基準はどこにあるんですか?」


 確かに。言われてみれば。自分でも理屈が通っていないと思って、僕は首をひねる。僕にとっての“怖い”の基準か……。


「今まで、自分ではずっと、よく分からない、理解不能のものを怖がってるって思ってたんだけど……うーん、なんか、ちょっと違ったみたい」

「……そうですか」


 ウルフは不可解そうな顔のまま頷いて、それ以上は追及してこなかった。彼の不器用さに甘んじて、僕もそれ以上何も言わなかった。この謎の種の正体は、ちょっと考えたぐらいじゃ分かりそうになかったからね。

 それからまたしばらく歩いて、次にウルフが立ち止まったのは、地下につながる階段の前だった。下った先に、小さな灯りで照らされた看板が見える。『Almost ALL You NEED is Here』――なんだか古い歌みたいだ。ほとんどAllmostすべてAll、ってところが絶妙に胡散臭い。


「この店も普通じゃないんだろ?」

「先ほどのような危険はありませんけどね」

「気をつけるべきことは?」

「いろいろな品物がありますが、絶対に触らないように」

「了解」


 僕は両手をポケットに突っ込んで、店を出るまで出さないぞ、と決めた。

 階段を下りて中に入る。ごろんごろんと鳴る鈍い鐘の音と、もわっとした空気に出迎えられた。僕は思わず顔をしかめた。なんだこのにおい。くさいってわけじゃないんだけど……なんていうのかな……百年前の洗剤を使って洗濯した服が生乾きになっていたら、こんな感じのにおいになるかもしれない。あまり長居はしたくないね。

 店内には最低限の照明しか灯っていない。古ぼけた白熱電球のランプが、カウンターの両端に一つずつあるだけ(魔法関連の店ってどこもこんな感じなのかな)。そのせいで壁側は薄闇に包まれていて、何があるのか判然としなかった。すべて棚になっていて、そこにいろいろな品物がぎっしり並んでいるようだ、とは分かったけれど、それ以上のことを知るには近付かなければならなかった。そして、近付くには少々僕の度胸が足りなかった(ちょっと目を凝らしたら、何かのホルマリン漬けの瓶のようなものが見えたから、それが“何”か分かってしまう前に慌てて目をそらした)。


「こんばんは」


 ウルフが奥に向かって声を張った。一呼吸置いて、ぎぎぎぃ、と木が軋む音が響いた。たぶん奥の扉が開いた音だろう。それも暗くてはっきりとは見えなかった。

 のっそりと灯りの中に現れたのは、予想していたよりはずっと若い(ように見える)女性だった。黒いポーラーハットを斜めにかぶり、下唇に銀のフープピアスを着けて、丸いサングラスで目を隠していた。白黒のストライプのワンピースは体にぴったりとくっついていて、下腹がぽっこりと出ているのが丸見えになっている。なのにすごく堂々としているものだから、この人にとっては体型なんかコンプレックスの内に入らないんだな、って分かった。

 彼女はカウンターに頬杖をついて、ウルフを見上げた。強いコックニー訛り。


「オゥ、坊主。お前の必要なモンのだいたいはここにあるぜ。言ってみろ」

「十九世紀初頭の七面鳥の骨を五羽分」

「はいよ。お代は後ろのオッドだな」


 二重になった顎がひょいと僕を指した。妙なオッド、と発音されたのは、どうやら僕のことらしい。


「冗談でもやめてください」


 冷たく言い捨てたウルフが、カウンター上へ硬貨を叩きつけるように置いた。銀色の、見たことがないサイズと絵柄のものだ。照明のせいか、わずかに発光しているように見えた。


「チェ、せっかく生きのいいのが入るかと思ったんだがな。――アァ、冗談に決まってんだろ、そんなに睨むんじゃねェよ。お前の目は怖ェ」


 女性は真っ赤な唇をぐいと歪めた。それから硬貨をおざなりに回収して、一瞬カウンターの裏に消える。次に出てきたときには、両手一杯に白骨を抱えていた。


「ほらよ」


 ばらばらばら、と乾いた音を立てて広げられた骨の山。僕は肩を縮こめて、そっと目線を落とした。なんでそんな物があるんだろう、とか、なんで必要なんだろう、とか、そういうことに頭を回しながら、紙袋をがさがさする音を聞く。


「ありがとうございます。五羽分、確かにいただきました。では、失礼します」


 ウルフの爪先がこちらを向いた。これでこことはおさらばらしい。僕は即座に反転して、率先して扉を開けた。ごろんごろん、と重たい鐘の音は背後へ置き去りに。氷のように透き通った空気の中へ。

 階段を上りきった瞬間、堪えきれず溜め息がもれた。ああ、空気が美味しい。


「大丈夫ですか」


 紙袋を抱えたウルフがやや気遣わしげにこちらを覗き込んだ。


「大丈夫。だけど、その、骨? 何に使うの?」

「血飛沫婦人の暴走を止めるのに」

「なんで七面鳥の骨で暴走が止まるの?」

「先日の暴風雨で、寮の西側のブナの木が倒れたでしょう」


 僕は話の急カーブにびっくりしながら、ようやく頷いた。


「その根元から古い七面鳥の骨が出てきて、生物学の教授たちが騒いでいたのを覚えていますか」

「ああ……そういえば」


 発掘とか骨とかまったく興味がないから、すっかり忘れていた。


「ブナの木があった辺りは、ちょうどブライアーズ伯爵の鶏小屋があった辺りです。つまり、出てきた七面鳥の骨は、血飛沫婦人のものだった」

「あ、まさかそれで、“盗んだ”って?」

「それ以外に暴走のきっかけとなりうるものが思い浮かばなかったので」


 ウルフはやや自信なさげに続けた。


「問題は、なぜ血飛沫婦人――伯爵夫人が七面鳥の盗難を気にするか、という点です」

「自分の家の物なんだし、気にしたっておかしくないんじゃない?」

「本邸ならまだしも、別邸ですよ。仮にそうだったとして、発狂して自殺した後もこだわり続けるほどのものでしょうか」

「うーん……旦那さんの浮気を知って自殺するくらいなんだから、独占欲が強いのかも?」

「一理ありますね」


 〇・一理くらいしか認めていないような口ぶりで彼は頷いた。


「君の考えは?」

「談話室にいた彼――名前を知らないのですが、あの……栗毛のサラブレッドみたいな髪の、背の高い」

「バーナムだね」


 比喩が的確だったからすぐに分かった。実際あいつは育ちがいい奴サラブレッドだし。


「彼が、血飛沫婦人の話し方を“ハウスメイドのようだった”と言っていたでしょう」

「ああ、言ってたね」

「彼の言が正確だったならば、血飛沫婦人は使用人だった、と考えるべきです」

「え? それじゃあ――」

「はい。あの場所で亡くなったのは伯爵夫人ではなく、別邸で働いていた使用人――おそらくキッチンメイドで、伯爵の愛人だったのではないでしょうか」

「……伯爵夫人に殺された、ってこと?」

「さて、そこまでは分かりませんが。彼女が使用人だったとすると、七面鳥を盗まれて怒り狂ったことに筋が通ります。時季もちょうど今頃、クリスマス前で、盗まれることに神経質になっていたのでしょう」

「なるほど」

「これを元通りの場所に埋めて、それで怒りが収まったなら、ほぼ正解と見ていいと思います」


 と、ウルフは紙袋を抱え直すようにした。がさり、がしゃり。紙袋の擦れる音と、骨の触れ合う音。

 ――それを聞いたときに背筋を駆け抜けていった小さな恐れが、謎の種を刺激した。あ、これが答えだ、と悟った瞬間、僕はそれを種のままで放置しようと決意し、冷暗所に放り込んでいた。


「戻って埋めてみたら、私は確認に行ってきます。付き合ってくれてありがとうございました」


 ウルフが鈍感な奴で助かった。僕は何事もなかったように言った。


「お礼を言うべきはこっちのほうだよ、ウルフ」


 彼はきょとんと首を傾げた。


「助けてくれてありがとう。本当に。今度、なんでも好きなだけ奢るよ」


 なんだそんなことか、とでも言いたげに、彼はふいと前を向いた。


「危険が予測できる魔性生物には対処する義務があります。当然のことをしただけですから、お礼など必要ありません」

「それは違うよ、ウルフ」


 僕は首を振る。


「助けてもらったんだから、お礼をするのは当たり前だよ。君にとっては義務だったとしてもね」


 ウルフは考え込むように少しだけ目線を落とした。

 返事は、寮が見えたころにやってきた。


「遠慮しませんよ」

「大丈夫、あとの三人にも払わせるから」

「なら安心ですね」


 にっこり笑ってみせたウルフはきっと本当に遠慮しないだろう。けれど、無茶な要求はしてこないはずだ。


「では、私は残りの作業をするので」

「うん。本当にありがとう」

「おやすみなさい」

「おやすみ」


 談話室の壊れている窓をくぐり抜けて、僕は部屋に戻った。空の端っこが明るくなり始めていたけれど、構うもんか。体は芯まで冷え切っているし、いろいろあって疲れも眠気もピークに達している。

 毛布にくるまって、枕に頭を落ち着けた――と思ったときには、もう眠りに落ちていた。


   ☆


 死を忌み、それと関連するあらゆるものを遠ざけようとするのは、生き物として当然の本能だと僕は思う。程度の大小こそあれ、誰だって持ち合わせているんじゃないかな。僕が度を超して(それも少々いびつな形で)臆病なのは、まぁ、原因となりそうな出来事に心当たりはある。

 彼にそれを言えなかったのは――理解はしてくれるだろうけれど、共感は得られないような気がしたから――そして、共感を得られない、ということが導き出す次の答えを、思いつきたくなかったから――それを思いつくのが怖かったからだ。

 いくら僕でも、見えない幽霊を恐れたりはしない。それが賢明なことなのかどうかは分からないけどね。


   ☆


 次の日、東の大教室がひどく荒らされていることを職員が発見し、教室は一時封鎖された。イスもテーブルもぐちゃぐちゃ、窓は何枚か割れ、黒板にもひびが入っていたという。

 誰かの嫌がらせだとか、悪魔が暴れたのだとか、そんな噂が立ってしばらくの間騒ぎになった。けれど当事者たちが揃って口をつぐんだから、ついに真相は闇に葬られた。


「予想通り、落ち着きましたよ」


 ウルフが語ってくれたのは、その日の夕方になってようやく彼が起き上がったときだった。


「少しだけ話を聞けました。以前お会いしたときは、一切しゃべらない方だったんですけど」


 それによると、やはり血飛沫婦人の正体はキッチンメイドだったらしい。


「明らかに他殺と見える傷痕が胸元にありましたが、誰に殺されたか、ということについては一言も」


 ウルフはひどく残念そうに首を振った。これ以上は諦める、と決めたみたいだった。


「伯爵が殺したんじゃないかと思いますけどね」

「え?」

「仮にそうだとすると、つじつまが合うんです」


 目を剥いた僕に向かって、ウルフは流暢に語りだす。


「伯爵は自分の妻を殺そうとした。しかし旦那に殺されそうだと察した伯爵夫人が、愛人と服を交換して入れ替わった。まさか殺されるとは思っていなかったキッチンメイドは、そのまま幽霊になって場に残った。そうすればキッチンメイドが伯爵夫人のようなドレスを着ていた理由もはっきりします」

「なるほど……」

「まぁ、何もかも仮説ですが」


 今となっては確認のしようもないので、と彼は残念そうに呟いて、パジャマを脱ぐために立ち上がった。

 僕が投げた懐中電灯の残骸については誰からも聞かされなかった。確認に行ったついでに、ウルフが回収しておいてくれたらしい。重ね重ねありがたいことだ。


 数日後、ウルフのために飲み放題コース(上限あり)を用意して、四人そろってお礼を言った。彼は本当に遠慮なく、容赦なく、上限ぴったりまで飲みまくった。

 その翌日、頭痛を抱えて呻くウルフを見て、


「なんだ、魔法使いでも二日酔いになるんだな」


と、リトルがげらげら笑った。

 これでこの件は、めでたしめでたし、ってわけ。

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