2 Your memory connects you to the correct year.

 寮に帰り着いたときには息も絶え絶えで、僕らは揃って談話室のソファにへたり込んだ。


「大丈夫ですか?」


 後から追いついてきたウルフだけが一人、平然とした顔で紅茶を持ってくる。


「気付けにはやや不十分だと思いますが」

「いや、充分だよ、ありがとう」


 温かい紅茶を流し込むと、凍えきっていた体がようやく体温を取り戻した。素晴らしきは紅茶と文明の光だ。ジョンソンとバーナムも同じく、カップに口を付けてほっと息を吐いた。リトルはまだ白目を剥いたまま(これでちょっとは懲りてくれるといいんだけど)。


「助けに来てくれてありがとう、ウルフ。僕は君に助けられてばっかりだな」


 僕がそう言うと、彼は「いえ、別に」と言いながらしかめ面になって、手のひらで首筋をこするようにした(照れ隠しだな、と僕は察した)。


「どうして来てくれたの?」

「本当は行くつもりじゃありませんでした」

「え」

「君が引きずられていくのが見えたのですが、血飛沫婦人のところなら問題ないだろうと思って、放っておくつもりでした。行ったのはただの気まぐれですね。特に理由はありません」

「……来てくれてマジでありがとう」


 彼が気まぐれを起こさなかったら僕らは死んでいたかもしれない、なんて、ぞっとしない話だ。


「しかし驚きました。あの大人しい方に一体何があったんでしょう」

「どういうこと?」

「君は何の理由もなく暴れ出したりしますか?」


 僕は納得して頷いた。理由もなく暴れるのはいかれた奴だけだもんな。

 と、素直に納得したのは僕だけだったらしい。

 ジョンソンが眉根を寄せた。


「相手は幽霊だぜ。そんな理屈が通用するのかよ」

「しますよ、イメージしているよりはずっと。もちろん人間の常識から外れてはいますけどね」

「常識から外れてたら通用しないのと同じじゃないのか」

「同じことは動物にも言えると思うのですが」


 確かに。人間の常識からは外れているけれど、動物には動物の理屈がある。ジョンソンは急に紅茶に熱を上げだしたふりをして口を閉ざした。

 小さく「早めになんとかしたほうがいいかもしれないな」と呟いたウルフが、僕をその真っ黒な瞳の中に入れる。


「血飛沫婦人は何か言っていませんでしたか」

「何かって?」

「何でもいいです。彼女が言っていたことを思い出してください」


 ウルフは簡単に言うけれど、僕にはそうもいかない。さっきの恐怖をよみがえらせろ、なんて。

 情報を求めるブラックホールに急かされて、僕は慌てて記憶の再生を始めた。


「ええと……」


 思い出されるのは死人のように白い顔と、真っ赤な唇、そして頬に落ちた――僕ははたと頬をこすった。付いてるか? 付いてない! 付いてない?! それはそれで不可解で不気味だ!


「盗んだ、とかなんとか言ってなかったか」


 そう言ったのはバーナムだ。おかげでウルフの目がそちらに移る。僕は記憶の再生をやめてこっそり息を吐いた。助かった……。


「盗んだ?」

「そう言ってたぞ、俺の聞き間違いでなければ。なんか変な、大昔のハウスメイドっぽいしゃべり方してたから、聞き取りにくかったけど」

「ハウスメイド……?」

「服装と合ってなくて変だったな」


 ちょっと眉をひそめたウルフが壁にもたれかかり、口元を隠すように手を当てて考え込み出した。さながらスクリーンの中の名探偵のように。こういうポーズが嫌味なく似合う、っていうのは才能だよね。次の瞬間「ワトソンくん、謎はすべて解けたよ」とか言い出しても何の違和感も覚えないだろう。

 そんなことを思っていたせいで、


「ロドニー」


自分の名前を呼ばれたことを一瞬認識できなかった。


「あっ、うん、何?」

「ちょっと出てきます。今夜中には帰れないと思うので、そのつもりで」

「ああ、うん、分かった――」そのときの僕の問いかけを、どうして咎めることが出来よう?「――どこに行くの?」


 すでに壁から背を離し、扉のほうへ向かいかけていた彼は、半身で振り返って僕を見た。それからやや答えあぐねるようにして、


「ひとつ確認を。それから……精肉店、のような場所へ」

「精肉店? この時間に?」

「のような場所、という言葉を聞き逃さないでほしかったですね。正確に言えば何でも屋です」


 何でも屋だろうが時間の件は解決できまい。思い切り首を傾げた僕を見て、ウルフは少し考え込むような間を開けた後、言った。


「気になるなら君も来ますか」

「えっ」

「別に、怖くはないと思いますよ」


 僕は彼が続けざまに「たぶん」と呟いたのを聞き逃さなかった。


「たぶんって何だよ」

「少なくとも幽霊が出ないことは確実ですが……私の“怖くない”と君の“怖くない”では基準が違うと思うので」


 それはそうだ。辛いものが平気な人の「辛くないよ」が信用ならないのと理屈は同じ。

だから僕は、怖いのが平気な人の「怖くないよ」を信用してはいけないのだ。

 なのに、


「……マフラー取りに行っていい? 思ったより寒かったから」


 行く気になってしまったのはどういうわけなんだろう。謎の種が心の隅にコロンと転がる。

 ウルフは思いのほか嬉しそうに微笑んで、「外で待ってますね」と真っ赤なコートを翻した。


   ☆


 リトルのことはバーナムたちに任せて、僕は談話室を出た。部屋に戻りながら、謎の種について考察を進める。謎を謎のまま放っておくから恐怖が芽吹くのだ、ということを知ってしまったからね。自分自身のことであるなら、明かせないわけもないのだし。

 さて。

 クローゼットからマフラーを引っ張り出して、適当にぐるぐる巻きにする。

 きっと僕はスクリーンの中の名探偵に誘われて、自分が助手になったと勘違いしているんだ。こういうときだけ都合よく恐怖を忘れられるのは、魔法使いが味方だって分かっているからだろう。我ながら、残念な臆病者。

 それだけかな?

 マフラーの形なんてどうでもいいから、見苦しくない程度に整える。鏡越しの僕は小さく首を振った。

 いや、違うね。正直になるべきだ――僕はおそらく、彼に同情している。

 ウルフに夜歩き癖があるって知ったのは、この間のホール教授殺害事件のときのこと。今夜がそれに当たらないことは分かっているけれど、それでも、できるだけ独りで夜を歩かせたくないと思ったんだ。気まぐれだと言いながら、幽霊を嫌う僕を気遣ってこっそり来てくれた彼のように、あくまでさりげなくね。

 それに、断ったら二度と誘ってくれなくなるだろう。そういうところ、微妙に融通が利かない頑固者だからさ。

 部屋を出て鍵を閉める。文明の光とはしばしの別れだ。


   ☆


 時刻は十一時をとうに回っていた。これだけ寒いと最高だね。息は吐いたそばから凍って消えていく。


「それで、どうして肉が必要なの?」

「肉ではなく骨です」


 くぐもった声が返ってくる。ウルフはマフラーに顔の下半分を埋もれさせていた。息で眼鏡が曇るのを煩わしく思ったのか、眼鏡を取ってポケットに突っ込む(彼のあれは伊達眼鏡だからね)。

 それからウルフは普段通りの唐突さで講義を始めた。


「グランリッドにヒューバート・カレッジが出来たのは一八二四年のことです。その前まで、あの校舎の場所はある伯爵の別邸だったそうです」

「へぇ、そうなんだ」

「そして血飛沫婦人は、その伯爵の奥方だったと伝わっています。発狂して自殺したらしいのですが、その原因は伯爵に愛人がいたからだ、ともっぱらの噂ですね」

「……愛人かぁ」


 嫌いな単語だ。僕はちょっとだけ気が滅入るのを感じた。


「どうして浮気なんてするんだろうね」

「さて、したこともされたこともないので分かりませんが。……そういえば、昔見た映画がこんなことを言っていましたね」


と、ウルフは半分以上閉じた目を、夜闇に向けたまま呟いた。僕はその映画のことを知らなかったから確かなことは言えないけれど、声音を役者に寄せていたのだと思う。普段と違って、二段ぐらい低く、煙草に燻されたような響き。


「“それは自分に自信がないからだ。だから一つの愛では足りなくなる”」


 ああ、確かに。僕は心の中で深く頷いた。


「それ、なんていう映画?」

「『薔薇を焼く』です。かなり古いですよ」

「見てみようかな」

「落ち込んでも大丈夫なときに見てくださいね」

「ああ、そういう感じの映画なんだ」

「私は結構引きずりました――と、まずはここに」


 彼はぴたりと足を止めた。そうなって初めて僕は、今までどこをどう歩いているのか全然意識していなかったことに気が付いたのだった。

 ともあれ、そこには小さな書店があった。かなりこぢんまりとした、埋もれるようにして存在している書店だ。看板もないしショウウィンドウもないから、たとえ明るいときであったって、言われなければ気付かずに通り過ぎていただろう。しかしこれ、営業しているのだろうか? ドアの小窓にはカーテンが掛かっていて、中の様子を覗けない。

 ウルフはドアに手をかけて、ふと思い出したように開けるのをやめた。


「念のため確認しておくべきですね」

「何を?」

「今日は何年の何月何日ですか」

「二〇一〇年の十二月十五日――時間は?」


 ウルフが胸ポケットから引き出した懐中時計を開く。飾りっ気のない、けれど美しい年代物の時計だ。


「零時三分です」

「じゃあもう十六日だね」

「オーケー、では行きましょう」


 彼が静かにドアを引くと、橙色の灯りが雲間の月明かりのように漏れ出てきた。本当にやっているらしい。

 中は埃っぽく、古い紙特有のにおい――数年ぶりに動かしたエアコンのにおいとちょっと似ているあれ――に満ちていた。息をするごとに灰色の粒子が肺に積もっていくような気になる。

 背の高い本棚に挟まれた細い通路を、赤いコートがひらひらと進んでいく。ずいぶんと来慣れているみたいだ。僕は床に積まれた本の塔をうっかり崩さないよう気をつけながら、その背中を追うので精一杯。

 裸の白熱電球が点々とぶら下がっていて、下を通るたびにふらりと揺れた。四つの建物の隙間を埋めるために造ったのだろうか、細長い通路は東西に一本、南北に一本伸びているらしい。二辺が重なる点に円形のカウンターがあって、そこに誰かが座っているのが見えた。

 通路の半ば辺りで立ち止まって、


「ええと、確かこの辺りに……あった」


本棚からするりと引き出したのは、緑色の革で装丁された薄っぺらい本だった。横長。目測では二十センチかける三十センチ、厚さ〇・五センチって感じかな。


「何の本?」

「地図です。一八〇〇年頃の」


 彼は丁重な仕草でそれを開いた。コーヒーを霧吹きで吹きかけたみたいな紙は、ちょっと角度を間違えたらすぐに破れてしまいそうだ。僕にはそれに触る度胸はないね。

 確かにそれは古い地図だった。といっても、あまり大々的に変わってはいないから、ちょうど大学周辺の地図だとはすぐに分かった。

 半透明の体の小さな虫が、久々の空気に驚いたのか、素早く地図の上を走って別のページに潜り直す。僕がその虫の名前を思い出そうとしている間に、ウルフは目的地にたどり着いたようだった。


「ああ、やっぱり」


 見てください、と僕のほうへ地図を傾ける。


「ここが現在のヒューバート・カレッジです。当時は先ほど言ったとおり、伯爵の別邸――ブライアーズ伯爵、という方のものだったようですね」

「寮のほうまで敷地内だったんだ」

「ええ」とウルフの目が光る。「食料庫です。そしてここに、鶏小屋がありました」


 指差したのは、今で言う寮の西側に当たる一点だ。


「血飛沫婦人の暴走はこのせいだろう、と思うのですが……やはり違和感がありますね」


 うーん、と首を傾げるウルフ。

 何のせいで暴走しているのか、どこに違和感があるのか、僕にはまったく分からなかった。彼に問おうとしたとき、


「おはよう、坊やたち」


突然しわがれた声をかけられて跳び上がる(本の塔を蹴倒さなかったのは運がよかった)。

 ウルフの向こう側に、ひどく小さなおじいさんが立っていた。僕らを見るために首を九十度真上に曲げなければならないほど、背が極端に曲がっている。髪の毛はほとんどなく、わずかに残った白髪は頭皮にへばりついてだらしなく垂れていた。皺だらけの顔に目も口も埋もれてしまっていて、存在がはっきりしているのは鼻ぐらいだ。細いステッキを両手で握りしめていたが、その手は細かく――寒さでも恐怖でもない理由で――震えている。

 顔の下の辺りが開いて声が出てきたから、そこが口だったのだと知った。


「よい朝だな。珍しくよく晴れて、散歩日和だ」


 もう朝になっていたのか! と驚いた僕が思わず振り返ると、入ってきたドアのカーテンが開いていて、そこから明るい日差しが差し込んできていた。

 ところが、


「こんばんは、ミスター。現在の時刻は零時十五分頃です」


とウルフが言った瞬間、日差しがすぅっと消えて、窓は真っ暗闇に包まれた。消えていた通路の電球が灯る。

 僕はわずかに動いて、ウルフの背に隠れるようにした。寒さが増している。


「こんな夜更けに来てしまって申し訳ありません。どうしても調べたいことがあって」

「いいのだよ、そのために開けているのだから」


と老人は笑ったらしい。ぐっ、ぐっ、と、沸騰したお湯のような声は、笑い声というには不気味すぎたけれど。


「今は十二月かね」

「ええ、十二月十六日です」

「そうかね。それならば、あと二週間もすれば、一九〇〇年になるのか。なんとも感慨深いものよ」


 そうだったと僕は思った。世紀をまたぐ年――厳密にはいささか違うけれども――に立ち会えるというのは、無意味と知りつつ、一方で喜びのようなものを感ぜずにはいられなかった。あと二週間で今年、つまり一八九――

 蕩々と流れる思考が止まったのは、ウルフに外套の袖口をついと引かれたからであった。そして、


「いいえ、今年は二〇一〇年です。あと二週間で二〇一一年になります」


彼の言葉に、そうだった、と思い直す。そうだった、店に入る前に確認したじゃないか。二〇一〇年十二月一六日、それが今日の日付だ。


「そうかね。そうだったかね。記憶は確かかね」

「はい。そろそろ失礼いたします、ミスター。よいクリスマスを」


 ウルフが僕をちょっと見て、つまんだままだったダッフルコートの袖口を引っ張った。


「よいクリスマスを」


 ぐっ、ぐっ、と笑った老人の脇をすり抜けて、僕らは入ってきた扉の反対側から外へ出た。

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