グランダッドの盗難
1 猫も老人も知らないのだ
ニューイヤーの花火の余韻もすっかり抜けた一月の半ば。ロンドンは冷蔵庫にすっぽり収まったように冷え込んでいた。空模様はへそを曲げた女の子よりも不機嫌。泣き出さないだけまだまし、ってところかな。
そんな灰空の双子のようなやつが僕の隣に。
「本当に寒くて嫌になる」
と、ウルフはマフラーに鼻まで埋めて呟いた。彼は寒いのが大嫌いなのだ。目元と耳の先が、コートと同じぐらい真っ赤に染まっている。見えないけれど鼻もそうだ。
「そのコート、真冬に着るにはちょっと薄いんじゃない?」
「充分とは言いがたいですね」
「もっと厚いダッフルコート持ってたじゃん」
「あれとは用途が違うので」
同じコートなのに、と思ったけれど、それ以上の追及はやめておく。彼のコートに触れるのはちょっぴり危険だからね。
僕らはグランダッドを目指していた。寮から歩いて十五分くらいのところにあるパブだ。正式名称はザ・グランド・オールド・マン。だけどみんな親しみを込めて
重たい扉を押し開けた瞬間、思わずため息が漏れた。暖かい。ウルフも同じように息を吐きながら、マフラーをほどいて、曇った眼鏡を拭いた。
店内は土曜日の昼らしい賑わいを見せていた。カウンターの中では老眼鏡をかけた鷲鼻の婆さんが、安楽椅子に座って新聞とにらめっこしている。彼女がここの一切を取り仕切る店主、通称グランマだ。実は百年以上生きている魔女なんだよ、って言われてもすんなり納得できるくらい、鋭いグレーの眼光とボケることを知らない頭を持っていて、煤けた毛色のペルシャ猫を従えている。
「やっほー、グランマ」
「こんにちは」
僕らが声をかけると、グランマはピッと目を上げて、大きな鷲鼻の頭にしわを寄せた。
「あんたらが揃うと派手だね。目が痛くなっちまう」
「ウルフはともかく、僕まで?」
「あんたの赤毛はなかなかのもんだよ。赤毛連盟があったら間違いなく合格だ」
ウルフが笑いながら「新聞に加盟者募集の広告が出ていたら教えてあげますね」と言った。僕はどうしようもない跳ねっ返りの前髪を撫でつけながら、グランマのしわしわの手にお金を乗せた。今日は僕が支払う番だからね。
注文したものが出てくるまで、僕らはカウンターの脇で待つ。このパブでは二階のレストランを使わない限り、ウェイターなんていう優しい人は付いてくれないのだ。
「やぁ、マダム」
あとからやってきたおじいちゃんがグランマへ親しげに声をかけた。“サム”と呼ばれている常連さんだ。腰が少し曲がっているが、白いひげは立派だし頬はふっくらとしていて、身なりも綺麗。レイヴンズコート・パークの辺りから歩いて来ているらしいから、素敵な杖は飾りだろう。かつてはかなり良い体格をしていたんだろうな、と簡単に想像できる。
「ご機嫌いかがかな」
「なんだ、サムか。悪くないよ。あんたはまたくたばり損ねたようだね」
「マダム以外の天使に導かれるわけにはいかないからね」
「よく言うよ」
グランマは鼻で笑って、目線を落とした。小さな琥珀の指輪を指先でなぞる。ミスター・サムがカウンターに手をついて、背の高いスツールに腰掛けた。その様子を何の気なしに見ていた僕は、ふとあることに気が付いた――彼の右手、
「はいよ、真っ赤なお二人さん!」
気風のいい声をかけられて、僕は慌てて向き直った。
ブレッドさんが人懐っこい笑顔をこちらに向けていた。グランマの息子さんで三児の父。話し好きで優しいけれど、決して怒らせてはいけないお人だ。この間六十五歳になったとは思えないたくましさの腕を振り回して、無法者たちの喧嘩をあっと言う間に収めてしまうのだと聞いたことがある。
「ありがとうございます」
ウルフが日替わりパイ――今日はサーモン・パイだった――と二人分のモルド・ワインを器用に受け取った。
「そういや赤コート、お前って魔法使いなんだろ?」
「ええ、そうです」
ブレッドさんの問いに、ウルフは何の気負いもなく頷いた。僕のほうがなぜか、オムレツの皿を持ち上げた手を固くさせていた。殺人事件の犯人にされかけたのはたった二ヶ月前のこと。見事解決してみせたとはいえ、立場の変化はほんのわずかだ。
「それじゃ、グレムリンって知ってるか」
「比較的新しい妖精の一種ですね。機械にいたずらをして事故を起こさせることで有名です。特に二度の世界大戦において各地の空軍を悩ませた――」
「そう、そうなんだよ!」
僕の心配をよそに、ブレッドさんは目を輝かせた。
「俺の親父、俺が生まれたころにゃ病気で死んじまってたんだがね、戦闘機乗りだったのさ。なぁサムじいさん」
ブレッドさんは子どものようにミスター・サムを見た。ミスター・サムはたっぷりとした頬を緩ませて頷く。
「サムじいさんは親父と同じ部隊の整備士でね。親父のことは何でも知ってるんだが、そん中で最高の話がグレムリンの話でさ。親父の乗ってた飛行機がグレムリンにいたずらされて、途中でいろいろの計器がおかしくなっちまって。それでしょうがないってんで帰ってきたら、なんと基地が襲われててあわや部隊全滅ってところだった! そいつを間一髪で救い出して、親父はあの勲章をもらったってわけさ」
太い指が壁を指し示す。大量の写真やポストカードの額縁の隙間の一角を、小さな勲章が誇らしげに占領していた。刻まれた名前はブライアン・ロビンソン。
「グレムリンには感謝したいね。親父が英雄になるチャンスをくれたんだから。病気になんなきゃもっと活躍してたはずなんだ」
「あんたは昔っからその話ばっかりだね」
グランマがしかめっ面で茶々を入れた。
「こっちにゃグレムリンに指を取られたやつもいるってのに。なぁ」
「昔の話さ」
ミスター・サムが顎を揺らして、穏やかに笑った。明るい茶色の瞳が柔らかな笑い皺に埋もれる。一本足りない右手の人差し指が、丸い鼻の頭を掻いた。
ゆっくりしてけよ、とブレッドさん。僕らはごちゃごちゃしているバーを抜けて、カウンターの横の階段を下りた。ちょうど空いていた半個室のテーブルを占領する。列車の客室の扉を外してテーブルを無理やりはめ込んだような場所。壁には大昔の誰かの落書き。
『お給仕さんはいらないよ。僕らにゃ立派な手足がある。給仕に払うはした金で、もう一杯! もう一杯! 一丁上がりさ、手も足も出ぬ飲んだくれ』
きっと昔からこんな感じの場所だったんだろう。寒さに耐えかねたやつらが真っ先に思い出す小さな家。最低限のことはやらされるけど、その分手足を投げ出して座れる場所。実家を思い出す、っていう人が多いのは、この雰囲気がそうさせるのだろうね。
僕が何気なくテーブルの上のパイのカスを払いのけた時、
「みゃうっ!」
抗議するみたいな猫の声がした。びっくりしてそっちを見ると、煤色のペルシャ猫がちょうどソファからテーブルに飛び移ったところだった。グランマの猫だ。確か名前はマチルダ。こんなところに来るなんて珍しい。いつもグランマの膝の上から動かないのに。僕のせいでパイのカスが毛に付いたのだろうか、彼女は金色とアイスブルーのオッドアイを嫌そうに細めながら、テーブルの上に座った。
僕は冗談交じりに問いかけた。
「やあ、レディ。どうしたの? なーんてね」
「お願いごとがあってきたのよ、魔法使いさんに」
それは確かに女性の声だった。鼻が詰まっているような、柔らかくてセクシーな声。だが僕らの他にこのテーブルには誰もいない。どこからともなくむさくるしい歌声が聞こえてくる。誰かが皿を落として割れる音。グランマの叱責。猫がぐるりと首を巡らせた。
そしてまたさっきのセクシーな声。
「あらやだ、きっとキャシーね。あの子、悪くないんだけどどうも手元が狂いやすいのよ。そのサーモン・パイを作った子。もしかしてものすごくしょっぱかったら、そのせいだから」
「なるほど。手元が狂っていないことを祈りましょう。……とりあえず、座ったらどうですか、ロドニー?」
僕はごくりと唾を飲み込んで、そろそろと腰を下ろした。
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