18 尽きぬ恐怖は耐えがたく

 カップの中身が三分の一くらいにまで減ったころ、ようやく話は佳境に入った。


「一ヶ月前くらいかな、浮気されてるって気が付いたの」


 クームズの話し方はすっかりくだけたものになっていた。


「もちろん、あたしが彼とつり合わないってことは分かってたよ。向こうは名門大学の金持ちで、こっちは専門学校の貧乏人。だから、大学の子と遊ぶことぐらい許そうって思ってた。でも……ちょっと気になってね。彼が口説くところ、近くで聞いてたんだ。相手は金持ちそうな、清楚系の服の子で、天然ぶった話し方してたっけ。栗毛のボブをふわふわさせててね」と耳の横で指を回す。的確な描写のおかげで、それがサリンジャーのことだとはすぐに分かった。「ああいう女に限って、とんでもないこと平気でしでかしたりするもんなんだけどさ」


 “嫉妬”の一言では片付けられない妙な説得力。先生との交際が“とんでもないこと”に当たるなら、ずばりどんぴしゃだ。恐ろしい勘の鋭さに僕はふるえ上がった。


「で、聞いてたら……彼、本気で口説いてた。女のほうがしたたかでさ、同じ大学なだけあって噂をよく知ってて『いろんな女の子と遊んでるんでしょ?』って。それに彼、頷いたのよ。で、『でもそいつらとはただ遊んでるだけだ。お互い合意の上で。君には本気だ』って。それで――遊び相手はあたしのほうだ、って、しかも他にもいるって分かったの。何が合意の上で、よ。最低でしょ?」


 そうだね最低だ、ではなく、分かるよ、でもなく、ウルフは「君は深く傷ついただろうね」と言った。どうやらその言い方が正解らしい。クームズは救助隊を見つけた遭難者のように目を潤ませ、こっくりと頷いた。僕は今の言い回しを脳内にメモしておく。安易な同意より相手の心中を思いやった台詞を、ってことかな。


「そんなことがあったのが九月の頭くらいのことで――それで頭にきちゃって。でも、本当にあいつがいろんな女の子とやってたのか、一応確かめておこうと思って、あいつが寝てる間に寮の他の奴らに聞いて回ったの。――本当だ、って分かるのに二日もかからなかった」と、溜め息を挟んで、「その中でジョナサン・ジュールって奴と知り合ってね」


 僕は持ち上げかけていたコーヒーカップを下ろした。ジュールとクームズは互いを知っていたのか!


「知ってる?」

「うん、知ってるよ。アンドリューズと喧嘩してた奴だろう?」

「そう。そいつが、手を組んでアンドリューズに仕返しをしよう、って持ちかけてきたの。なんでも、あいつに散々嫌がらせされてたんですって」


 彼女は鼻で笑った。


「で、乗ってあげたの。仕返ししたいのは本当だったし、ちょうどいいと思って」

「どんな仕返しを考えたの?」

「新入生に魔法使いがいるんだって?」と、クームズはおとぎ話をあざ笑うひねくれた女の子のように言った。「そいつのところに、彼――マックス・アンドリューズね。彼のふりをして行こう、って言ったの。アンドリューズが騒ぎを起こしたことにして、それで大学側がアンドリューズに手を出すように仕向けようってね。メイクとかは全部あたしがしたわ。完璧に。背丈だけはどうにもならないけど、後は度胸で乗り切れ、ってけしかけて」


 なるほど。ジュールは自分から計画的に何かするようなタイプには見えなかった。クームズが背中を押していたなら納得だ。

 ウルフがゆったりと頷いて、踏み込んだことを聞いた。


「そう思ってやってみたら、その直後にアンドリューズが階段から落ちて、驚いた、ってことかな」


 クームズが渋々頷く。それから深くうつむいて、嫌そうに、同時にひどくおびえたように言う。


「……正直に言うね……正直、いずれ落としてやろうとは思ってた。ジュールが失敗したり、大学が動いてくれなかったりしたらね。呪いだって言い張らせたのはそのためでもあったんだけど、でも、まさかあんなにいきなり……」そこで彼女はばっと顔を上げた。「あたしは本当に何もしてないの! あのときは背中を押そうなんて思いもしなかった! なのに……!」

「うん、大丈夫だから落ち着いて。コーヒーを飲みなよ。ほら」


 そう言ってウルフは優雅にカップを傾けた。立ち上がりかけていたクームズも、きちんと座り直してカップに口を付ける。

 彼女が落ち着くのを充分に待ってから、ウルフは仕切り直した。


「彼が落ちたときの話を聞いてもいい?」

「どうぞ」と小さく頷く。

「彼が落ちたのは、十一時二十分頃だったんだってね。そのときまで、君は彼と一緒にいた?」

「ええ、いたわ。外へ何か食べに行こうって話になって、出るところだったの」

「彼が落ちる瞬間を目撃した人が君以外にもいたらしいんだけど、知ってる?」

「階段の真ん中の踊り場に二人いたわ。私は見られちゃまずいって思って、すぐに隠れて、西側の階段を下りて出ていったの」

「そのとき、君が着ていた服の色って覚えてる?」


 クームズは一瞬眉をひそめた。記憶をねつ造するため、っていうよりは、質問の意図が分からなくて、って感じに見えた。その証拠に返答は早い。


「確か、黒だったと思うけど……」


 その答えに僕のほうが動揺した。赤じゃないのか。それじゃあ、あの目撃証言はいったい?


「良かった、君じゃないって確信できた」


 ウルフが素晴らしく人の好い笑顔を浮かべた。


「赤い服の人が突き落とすのを見た、って目撃証言があったんだ」


 彼女が目を見開く。


「赤い服の人? そんな人いなかったわ。あたしは見てない」

「じゃあ見間違いだったのかもしれないね」


 ウルフは証言の信憑性をあっさり無に帰して、コーヒーカップを空にした。三人分の代金をテーブルに置いて立ち上がる。どうやらもう行くらしい。僕も慌てて立ち上がった。


「話を聞かせてくれてありがとう。助かったよ」

「このこと、誰かに言う?」

「言うかもしれないし、言わないかもしれない。けれどもし言うとしたら、君に聞いたとおりに言うよ。勝手に変えたりはしない」

「ならいいや」


 クームズは話してすっきりしたみたいだった。棘のない表情で微笑まれると、気の強さが少し薄れて、うっかり見惚れてしまいそうになる。微笑みの向いている先が僕じゃなくても。


「また会えるよね」

「そういう運命にあるなら。あ、そういえば、君のバイト先の人が今日来なかったらクビだって言ってたよ」


 ウルフの態度は脈がないことをさりげなく、しかしはっきりと伝えていた。歴戦の戦女神がそれに気づかないわけがない。彼女は「そう。ありがとう」と素っ気なく言って、気の強さが全面に押し出された元の表情に戻った。

 僕らは女主人と入れ替わりに店を出ていった。隅にいた老人は、入ってきたときから一ミリも動いていないように見えた。


 雨は当然のように強まっていた。ここから寮までの距離からして、走ろうが歩こうが濡れネズミになることは避けられない運命だ。もう受け入れるしかない。

 演技をやめたウルフは疲れ切った表情になっていた。いくら彼でも、さっきの会話には体力を削られたらしい。大きな溜め息には密度の高い疲労が沈殿している。けれどそれ以上の成果があったおかげか、目の奥は星屑を散らしたようにきらめいていた。


「どうしてクームズが現場にいたって知ってたの?」


 僕が尋ねると、ウルフは一足す一の答えを聞かれたような顔になった。


「いなかったなら“私は何もやっていない”なんて主張する必要はないでしょう?」

「確かに」

「外れたらそれはそれで否定されるだけですし、割の良い賭けだと思いまして」


 聞いてしまえば簡単なことだった。どうして思い至らなかったのだろう?


「目撃証言を精査したいですね」


 その言葉には一も二もなく頷く。クームズは黒い服を着て現場にいたと言った。目撃者は赤い服の男がいたと言った。明らかな矛盾だ。


「食い違いが発生したもんね。これって、どっちかが嘘をついているってことだよな」

「ええ。あるいはどちらもついていないか」

「どっちもついてないなんてことあり得る?」

「ゼロではありませんよ。嘘をついたのではなく、黙っているだけかもしれませんし。どちらにせよ、事故・・という可能性が出てきました」

「え、事故?」


 どうにも納得いかなくて首を傾げる僕に、ウルフが晩ご飯の相談のような気軽さで続けた。


「彼女には霊感がまったくないんでしょうね」

「え?」

「カフェにいた老人、君には見えましたか?」

「……え、見えたけど……え?」


 嫌な予感を覚えた僕が耳を塞ぐよりも早く、彼はさらりと続けた。


「彼は幽霊ゴーストでしたよ」


 全身の血液を一瞬で抜かれたような感覚に襲われ、喉の奥で変な音が鳴った。幽霊? 幽霊?! 幽霊と同じ空間で十分以上も一緒にお茶してたって言うのか、僕は!


「う、嘘だろ?! あれ……あれ、だって、普通の人のように見えたじゃないか! 透けてなかったし、変な様子もなかったし……!」

「幽霊ならば必ず透けているというわけではありませんよ。特に場所に憑いている場合は」


 僕は言葉を失った。雨水を含んだ服が急に重苦しく、締め付けてくるような感じになる。手足がみっともなく震え出す。雨雲に閉ざされた漆黒の空にはかすかな光すら浮かんでいない――幽霊の夜だ。ああ、文明の光が恋しい。温かいシャワーと乾いた服と、文明の光が!


「さて、そうすると――どうしたんですか?」

「は、早く帰ろう!」


 僕は耐えきれず走り出した。ああ、もう、何も考えたくない!

 僕より一歩遅れた――それどころか、いつもの赤いコートを着込んでからスタートを切ったらしい――ウルフが、あっさり僕の横に並んだ。息も切れていない。

 その状態で聞いてくる。


「君って幽霊が嫌いなんですか」

「……ああそうだよ! 嫌いだ! 大っ嫌いだ!」脳に酸素が足りていない証拠だ、こんな風に叫ぶなんて。それで余計に酸素不足になるとすら考えられないほど、僕は混乱して恐怖していた。「話は通じないし、何なのか分からないし、どうしているのかも何でいるのかも理解できない! 怖いんだよ! 何もかも怖いんだ! 理由もないけど怖くてたまらなくて、できるだけ近付きたくないし関わりたくないし、話だって聞きたくもない! 臆病だって笑ってくれていいよ、その通りだと僕も思うから!」

「いえ、それは正しい態度だと思います」


 即座に返ってきた答えに、僕は思わず立ち止まった。肩で息をする僕は、相当呆けた顔をしていたに違いない。

 けれど、二、三歩先で振り返ったウルフは笑いもせずに言った。


「幽霊の中には害をなすものもいます。見分けるのは魔法使いでも難しい。そのうえ、妖精と同様、その性質は変化するものです。危険に対処するすべを持たないならば、近付かないのが一番いい。君の判断は賢明です。臆病などではありません」


 分別は勇気の大半だと言うでしょう? と。その言い方は、慰めるわけではなく、諭すわけでもなく、ただ事実を述べているだけといった調子で。雨に濡れたブラックホールは真っ直ぐに僕を見ていた。

 肩から力が抜けた。震えが収まる。


「……君が言うとすごくもっともらしく聞こえるね」

「もっともなことを述べているつもりなので」


 僕は大きく深呼吸をして、姿勢を正した。


「次から、幽霊がいるときは事前に教えてくれるか、それか最後まで教えないでくれる?」

「分かりました。そうします」

「……ちなみに、大学にはいる?」


 ウルフはちらりとこちらを見た。


「知りたいんですか?」

「やっぱいい」


 僕は即座に断った。彼がくすりと笑う。


「とりあえず、私たちの寮にはいませんよ。そこは安心してくださってよいかと」

「マジで? 良かったぁ……!」


 その言葉の裏の意味を僕は考えないことにした。知らない知らない、知らなければいないのと同じ!


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