17 失くした夢はいまだ色濃く
レイヴンズコート・パーク駅はここからだいぶ南にある。今日も朝からずっと曇っていて、その辺りに着いた頃にはぱらぱらと雨粒が落ち始めていた。とはいえ今更戻るわけにもいかない。
「もしかして、あそこですか?」
とウルフが指を指す。今日はいつものコートを着ていないし、格好もやんちゃで遊び好きそうな若者の雰囲気に変えていた。
「そうそう。あれだ」
古びた小さなビルの一階だ。見るからに流行っていない、貧相なダイナーが窮屈そうにたたずんでいる。ネオンが瞬いているから、営業してはいるらしい。窓越しに中を覗く。客が二、三人。ウェイターはいない。カウンターに頬杖をついてあくびをする三十代の男。店員か店長か、どちらにしたってあまりにもやる気に欠けている。
扉を開くと、安っぽいカウベルがごろんごろんと鳴った。男の視線が一瞬だけ持ち上がって、またすぐ手元の雑誌に戻る。どうやらここの売り物は食事でなく油だったようだ。
真っ直ぐ彼の元に向かって、カウンターに肘をつき、
「なぁ、ここにいるフィービーって女、分かる?」
と、ウルフ。今回は男と同じノリでいくことにしたらしい。そっぽを向いて爪の先をいじりながら、ひどく面倒くさそうに聞いた。
男も面倒くさそうに、
「今日やる相手を探してんなら店が違うぜ」
「アンドリューズっていうさ、フィービーの男、あいつが足折って入院したんだよ。で、フィービーに会いたいフィービーに会いたいってうるせぇから、探しにきてやったってわけ。分かる?」
「なるほど、入院中の発散用か。どーせお前も、一度やらせてもらうのと引き換えに来てやったんだろ」
「逆だよ。俺は相手に苦労してないから、伝書鳩に採用されたんだ。分かる?」
初めて男がまともに顔を上げて、ウルフの横顔を見た。そして唾でも吐きたそうな顔になって、雑誌を乱暴にカウンターへ叩きつける。
「フィービーなら先週の土曜からずっと休んでるぜ。電話にも出やしねぇ」
そう言いながら、彼は住所を口にした。三ブロック先の通り。どうやらそこに住んでいるらしい。個人情報の保護があんまりにも緩くて反応に困る。
「伝書鳩ならついでに言ってきてくれ。今日も来なかったらクビだ、ってよ」
「ちょうどいいだろ、人件費が削れて。あぁ、人件費、って分かる?」
「とっとと出てけ、クソガキ」
ウルフはクソガキらしく笑って、ひらりと片手を上げると颯爽と踵を返した。完全に傍観者となっていた僕は慌てて彼の後を追う。ごろんごろんとカウベルの音。それを合図にしたかのように、ウルフの声音が元に戻る。
「思いのほかあっさり居場所が分かりましたね」
「あっさり過ぎて驚いたよ」僕は本当に驚嘆していて、思慮というやつをすっかり忘れていた。「君の演技力って本当にすさまじいね。別人だと思った。きっと素晴らしい役者になれる――」
しまった、と思ったときには言葉は滑り落ちた後だった。ウルフはぎゅっと口をつぐんでいた。けれど、慌てた僕が情けない謝罪をするより早く、
「そういう夢を見たことはありますよ。もう忘れましたが」
と、微笑んでみせた。それがあまりに寂しげに見えたものだから、僕はやっぱり「ごめん」と空虚な謝罪をしてしまう。
「謝ることではないでしょう。褒められて悪い気はしません」
「それならよかった」
僕は彼の厚意に甘えることにして、ただ頷くだけ頷いておいた。
クームズの住処は三階建てのフラットだった。一人で住むには広そうだし、きっとルームシェアをしていることだろう。
ウルフが呼び鈴を押すと、ドタドタと重たげな足音が響いて、腫れぼったい目をした女性が顔を出した。焦げ茶の髪に蛍光ピンクと水色のメッシュを入れて、下唇と耳たぶにフープピアスが連なっている。リラックスタイムだったんだろうね、ほとんど下着同然の姿。ぶよぶよとした二の腕はとても柔らかそうだ。ドアを開けた格好で呆然と固まったのは、ウルフの爽やかな笑顔を前にしたからだろう。さっきの僕の失言なんてなかったかのような素晴らしい演技だ。彼は普段の〇・七五倍速でしゃべった。
「突然ごめんね。ここにクームズって子がいるだろう?」
「へっ? あ、えーと……そりゃあまぁいるけど……」
女性は“そんなことより今すぐ着替えに行きたい!”って感じのうろたえ方をしながら、南のほうの訛りで頷いた。
「申し訳ないんだけど、彼女を出してくれないかな。話があって来たんだ」
「話って……別れ話?」
「まさか。でも大事な話なんだ」
ウルフはおとぎ話の王子様みたいに微笑んで、不適切にならないぎりぎりの距離に顔を近づけた。女性の顔が毒キノコみたいに赤く染まる。
「お願いしてもいいかな?」
あんまりにも甘い声。傍から見ていた僕ですら胸焼けしそうになったぐらいだから、真正面から直撃を受けた彼女は、たぶん一週間くらい甘い物を食べなくても平気だろう。彼女にとってはちょうどいいダイエットになるかもしれない。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってて!」
彼女は逃げ出すように扉を閉めた。中で何かをひっくり返したような音がしたのは、慌てすぎて何かを蹴倒したのだろう。
「君っていずれ背後から刺されるんじゃない?」
「そんなへまをするように見えますか?」
「いっそそんなへまをしてくれたほうが助かるよ」
しばらくして再びドアが開き、今度はブロンドの女性が顔を出した(もちろんその奥にはワンピースに着替えたさっきの女性が控えていて、わざとらしく髪の毛を触りながらウルフを見つめていた)。
「あたしがクームズだけど、何?」
フィービー・クームズは噂通り、ブロンドでグラマラスな美人だった。色も形も胡桃のような目はたいへん魅力的だ。目尻と眉尻がきゅっとつり上がり、唇と顎は薄くて、話す前から気が強いなと分かる顔立ち。現代の戦女神、って感じ。
そんな魅力的な顔が不機嫌に歪んでいると、相応に恐ろしい。
「体調が悪いから、さっさとしてほしいんだけど」
「先週エイト・ブリッジで何があったか、知ってる?」
端的に告げた瞬間、クームズの顔色がさっと変わった。唇が震え、視線が泳ぎ出す。あからさまな動揺。
「あたしは何もやってないわ。変な言いがかりはやめてくれる?」
逃げ出そうとしたのを察知したように、ウルフが素早く言葉をつないだ。
「大丈夫、君が何かしたとは思ってないよ。僕たちは真実を知りたいだけなんだ。どうか協力してほしい。お願い」
溺れかけの目がウルフを見て、それから決意したらしい。彼女は素早く部屋を出ると、ルームメイトを閉じ込めるように扉を閉めた。
「コーヒー一杯でしゃべってあげる」
「ありがとう、助かるよ。近くにいいカフェが?」
「よくはないけど、話すにはぴったりのところがあるわ」
こっちよ、と先導する彼女に従って、僕らはフラットの階段を下りていった。ねぇーあたしだけ仲間はずれぇー? という不満げな肥満体の声を置き去りに。
小雨の中をちょっと走って、近くのカフェに入った。確かになんとなく寒々しくて、よいとは言いがたい雰囲気だ。店の隅に老人がうずくまるようにして座っている。女主人は三人分のコーヒーを出すと「もしも誰か来ることがあったら、適当に言っといてくれるかしらぁ」と言って、ふらりと出ていってしまった。この界隈の飲食店はどこもこんな調子なんだろうか?
「ね、話すにはぴったりでしょ。いつもこんな感じで、誰もいないんだから」
クームズは老人を物の数に入れなかった。
コーヒーには手も付けず、ウルフが切り出す。
「それじゃあ、話してくれる? 君とアンドリューズの間に何があったのか」
「どうしてそんなこと嗅ぎ回ってるのよ。あんたたちには関係ないでしょ」
砂糖とミルクを放り込みながら、クームズが根本的なことを聞いた。カップの中身をかき混ぜる仕草は荒々しく、苛立ちを見せつけている。けれどウルフは一歩も引かなかった。
「ある人がアンドリューズを突き落とした犯人だと疑われていてね。彼の潔白を証明したいんだ。今のところ君の存在は警察に伝わっていないけれど、潔白を証明できるなら君のことを警察に言ったって構わないと思ってる」
「脅すのね」
「まさか」
戦女神の質量のある眼光を、ウルフは柔らかい微笑みで軽く躱した。
「ただ本当のところを知りたいだけなんだ。君だってそうなんだろう? 先週からずっと休んでいるのは、あの事件が気にかかって、なんじゃない?」
クームズは押し黙って、コーヒーカップを持ち上げた。鈍重な一口。カップを下ろして、それから重たげに口を開く。
「本当にあたしは何もしてない」
「うん。でも、君は彼のすぐ傍にいて、落ちていくところを見たんだよね?」
その言葉に危うく僕が声を上げるところだった。クームズが現場にいた? 誰がそんなことを言っていた? そんな適当を言ってもしも違ったら――なんていう僕の考えは、三秒で杞憂に変わった。
クームズは頷いたのだ。
「……そう。確かにそこにいて、その瞬間を見た。でも、彼は自分で勝手に足を滑らせて落ちていったの。……こんなこと、決して信じてもらえないでしょうね。あたしが彼のことを憎んでいたのも確かなんだし」
「最初から話してくれる? 君の話を聞かせてほしい」
ウルフは良き聞き手になりきっていた。一般的に女性は話し好きで、素晴らしい聞き手を前にすると羽毛よりも口を軽くする。まして相手が美形ならなおさら。そういうものだと僕は思っているんだけれど、違うかな? 少なくともクームズは、僕のこの常識――アインシュタインに言わせれば、十八歳までに身につけた偏見のコレクション――に見事に当てはまっていた。
「あたし、彼のこと本当に好きだったの」
コーヒーの水面を見つめたまま始まった話は、そこからしばらくアンドリューズとどこで出会いどう付き合っていたか、という内容に終始した。心底どうでもいいと思っていた僕と対照的に、ウルフは真剣に聞く態度を維持している。すさまじい精神力だ。僕だったら、たとえ自分の彼女だったとしても、こんなに無益な話を真剣に聞き続けることはできないだろう。――こういうところが彼女ができない原因かな?
なんて思いながら、ちまちまとコーヒーを飲む。飲みきってしまったらいよいよ手持ち無沙汰になってしまうからね。店主もいないから、おかわりも頼めないし。
視界の隅にいる老人は、まるで眠っているかのように深くうつむいたまま、不自然なほど動いていなかった。
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