16 ひたすら長い迷宮を彷徨おう
翌日の午後の講義が終わって部屋に戻ると、ウルフが本から目を上げた。デスクには読み終わったと思われる本が二冊積んであって、彼は三冊目の半ばほどにしおりを挟んだ。昼過ぎに僕が出かけた時には一冊も無かったのに。
「何読んでたの?」
「先生方の著書を」
背表紙を見る。デスクに置かれていた『罪の自覚と償い』『ストア哲学の新解釈』はどちらもホール教授の本で、ウルフが持っていた『生命の矜恃』はタイナー准教授の本だった。どれも難しそう。
「オブライエン先生はまだ本を出されていないようなので、後で改めて論文を探そうと思います」
「何か分かった?」
「経歴ぐらいですかね」
いわく、ホール教授は一九四五年生まれで一九六四年イーラウ校卒、以降はグランリッド大学にずっといる。タイナー准教授は一九六七年生まれ、一九八六年ハイドン高卒、グランリッドに入った後、ドイツに五年間留学して戻ってきた、とのこと。
「それって重要な情報?」
ウルフは「さぁ」と首を傾げた。
「何が重要で何が重要でないか、事前にはっきりしていたらそんなに簡単なことはありませんよ」
「確かに」
正論を受けて僕は頷いた。
僕らは寮を出て、オブライエン先生の研究室に向かった。その道中、赤いコートに袖を通したウルフは案の定悪目立ちして、周囲の注目をめったやたらに集めまくった。けれどそのときになってようやく、僕は心の底から理解したのである。
みんなが見ているのは赤いコートであって、ウルフではない、ってことを。
「おお、魔法使いくん!」
机から顔を上げてにっかりと笑った先生は、上品な細い縁の眼鏡をかけていた。それがあるだけで数倍は知的に見えてくるからアクセサリーというのは重要である。
先生は雑多に積み上げられていた書類や本を一抱えにして脇に寄せた。山が一段と高くなり、絶妙な均衡で静止する。とんでもない量だ。そして雑さだ。こんな状態でどこに何があるのか分かっているのだろうか?
「いやぁすまんな。ホール教授が亡くなったことでいろいろな用事がこっちに投げ込まれてきてね、てんやわんやしてるんだ」
「すみません、日を改めたほうがよろしいようですね」
「いやいや、構わんよ。息抜きにちょうどいい。来てくれて助かったくらいだ。座ってくれ」
傍らのコーヒーポットには、いつ淹れたのか分からないコーヒーが三分の二くらい入っている。先生はそれをマグカップに注いで出してくれた。
そして出し抜けに言った。
「それで、矛盾は解消できたのか?」
僕は何のことだか分からなかった。けれどウルフのほうは違ったらしく、すまし顔で答える。
「魔法使いが最初に習うことは、矛盾を矛盾のまま許容し、同時に存在させることです」
どうやら一週間前に無理矢理終わらせた話の続きらしい、とようやく理解が追いついて、僕は唾を飲み込んだ。喉にべったりと張り付くファッジの味がよみがえる。
「やっていないのにやっている、思っているのに思っていない、そういう矛盾の隙間に魔力を通すことで魔法は現実のものになる、と習うのです」
「だから、矛盾は解消しなくてもいい、と?」
「いいえ、そうは言いません。あくまでこれは魔法の話です。魔法と関係ない部分にも一律に適用するべきではありません」
「一律に、ね。場合によっては適用できるというわけだな」
「はい」
ウルフの態度は毅然としていて、一週間前とはまるで違っていた。
「矛盾は迷いであり、迷わない人間はいない。決断することで一時的に迷いを振り払うことはできるかもしれませんが、生きている限りはまた新しい迷いがやってきます。迷っている間、つまり矛盾を抱えている間は、それを許容すると同時にそれに対抗しなければならない。この態度もまた矛盾です。違いますか?」
先生は褒め称えるように目を細めて、マグカップを傾ける。
「つまり君は今、迷いのただ中にいるということか」
「はい」
ウルフの手が太ももの上で、コートをぐっと握りしめたのが見えた。
「私は迷っています。逃げられるはずがないのに逃げ出して、なのにそこ以外に生きる場所を見出せなかったから」
「何から逃げているんだ?」
「魔法と魔法使い、それから、己が魔法使いである、ということから」
平淡な調子を保っているけれど、それらはあまりに痛々しい言葉たちだった。傷だらけで血まみれで、今にも息絶えてしまいそうで、なのに決して救いを求めていない。僕は耳を塞ぎたくなったのをぐっと堪える。なぜ逃げだそうと思ったのか――それも、僕が逃げるのかと言った瞬間に態度を豹変させたほど、負けず嫌いな彼が――その理由は二年前の事件だ。間違いなく。なぜならそれらは、僕が初めて二年前のことを話題にした瞬間に見えた、彼の深い傷口からあふれ出てきた言葉たちと同じ表情をしていたから。
そっと彼の横顔を窺うと、彼は鈍い痛みをこらえるように口元を引き締めていた。視線を落とさないことに全力を注いでいるように見える。相変わらず、握りこぶしの中ではコートがぐちゃぐちゃに。
彼は一度深く息をして力を抜くと、困ったような微笑みを浮かべた。
「無駄な足掻きでした。現にこうして、呪いで人が死んだなどという騒ぎが起きてしまっている」
「ああ、そういうふうに言う輩もいるね」
先生は一笑に付した。
「とんでもなく馬鹿馬鹿しいが。言っている連中は君と直接話したことがないんだろうな」
「先生も容疑者のひとりに挙げられているはずですよ」
「おっとそうだった。それじゃあ、君が呪った説を支持したほうが俺からしたら得になるわけだな」
くだらないね、と先生は肩をすくめ、コーヒーのおかわりを注いだ。
「やっていないことはやっていない。それ以上でもそれ以下でもない。他人を巻き込んで主張する必要がどこにある? 犯人というものは絶対的な存在だ。相対的に決まるものじゃない」
「では、先生はやってない、と」
「無論」
「ホール教授が亡くなった夜は、いったいどこで何を?」
「警察の真似事か。それとも探偵かな」
「これが呪いでないことを証明したいのです。私にあれこれ答えさせたのですから、先生も応じてくださるものと思っていたのですが?」
「答えさせた? 違うね、君は自発的に答えに来たんだ。あのまま話が流れて、答えられないで終わってしまうのが嫌だったんだろう? 不戦敗になるとでも思ったのかな。筋金入りの負けず嫌いと見た。違うかね?」
挑発的な言葉に、ウルフは何も答えなかった。ブラックホールの瞳は何の感情も返さない。
先生はふっと力を抜いて笑った。
「まぁいい。証明はできないが、俺は自宅にいたよ」
「ミス・サリンジャーと一緒に?」
僕は音を立てないよう最大限の注意を払いつつ息を飲んだ。どうして彼はこうも軽率に爆弾を投げ込めるのだろうか。
オブライエン先生の顔色は一瞬だけ変わって、太い指の先が耳たぶをちょいと引っ張り、それから戸惑った表情になった。
「何の話かな? どうしてサリンジャーの名前が出てくる?」
「警察から聞きましたが、あなたにはアリバイがまったくないそうですね。それは少々おかしいと思います。普通に生活をしていれば、多かれ少なかれ、何らかの形で行動の痕跡は残ります。防犯カメラにしろ目撃証言にしろ、それらを警察がひとつも見つけられないという状況は普通なら考えにくい。だとしたら、“普通に生活をしていなかった”と考えるべきです。人目を忍び、周囲を警戒し、痕跡が残らないように行動していた、と」
なるほど、とうっかり納得しそうになった。冷静によく考えるとずいぶんごり押しの、言いがかりにほど近い理屈だったけれど。
「あなたがミス・サリンジャーと婚約していると聞きました。その件を他の職員や学生たちにばれないように行動していたとしたら、自ずとアリバイはなくなるでしょう。その夜も同様に過ごしたならばつじつまが合うのです。違うならば違うと、はっきりおっしゃっていただけますか。そうすれば私は考えを改めます」
「探偵にしてはスマートじゃない理屈だな」
「私は探偵ではありませんから」
「じゃあ何なんだ?」
ウルフは一秒ほどかけてゆっくりと瞬きをしてから、はっきり答えた。
「魔法使いです」
その宣言にどれほどの重みがあるか、さっきの彼の話を聞いていた僕らにはよく分かった。
ブラックホールを真正面から見つめて、重苦しい三秒。
オブライエン先生がふと肩の力を抜いて、眼鏡を外した。
「オーケー、降参だ。君の闘志に敬意を表して、認めよう」
内緒にしておいてくれるね? と先生は苦笑した。
「彼女との関係を終わりにしたくはないんだ。なにせ婚約するほど本気なんでね」
「では、ホール教授が亡くなった夜は」
「九時頃から彼女と一緒に食事をしていて、十一時頃にレストランを出た。パディントン駅近くの『シュトーレン』ってレストランだ。で、彼女のフラットの前で別れたのが十一時半頃だったから、俺が家に着いたのは十二時頃かな。おそらく、レストランのカメラには二人で写ってるだろうから、アリバイは証明できると思うがね」
「他のアリバイがまったくなかったのはなぜです?」
「俺の住処は防犯意識が低くてね、カメラなんぞ設置されていないんだよ。他の住人で起きてる奴はそういないし、周辺のカメラの位置はたいがい覚えている――というか、うっかり大学関係者とすれ違わないようにしようと思ったら、カメラのない裏通りを進むしかないんだよな。そのせいだ」
「あなたとミス・サリンジャーの関係を、ホール教授はご存じでしたか?」
「ああ、知っていたよ。いったいどこから聞きつけてきたのか……」と大きな溜め息。「この件についてはかなり言われたね。ほら、ホール教授は昔気質のお人だったから。とはいえ、殺すなんて論外だ。そんなことしたって人生がおしまいになるだけだし、なにより哲学者の態度じゃあない。俺たちは論破してこそだ」
「ちなみに、警察にこの話は?」
「聞かれたが答えなかった。あの若い刑事はまだまだだな。おっさんのほうには勘付かれてそうだったがね」
「他に知っている方はいらっしゃいますか」
「マダム・バルコニーは知ってるね。あとは学生でひとり、サリンジャーが自分にちょっかいを出してきたしつこい野郎に話してしまった、って言ってたな」
ジュールのことを言っているのだろう。これでオブライエン先生の噂は確定した。確定したのはいいけれど――。
「失礼を承知でお聞きしますが、タイナー准教授に動機となり得る何かがあるか、ご存じですか?」
「いや、ないと思う。少なくとも俺は知らん」
「仮校舎の勝手口の鍵が壊されていた、という話は、詳しくご存じですか」
「金曜日の朝のことだな。詳しくはないんだが、ホール教授が最初に見つけて、適当な学生を集めて片付けさせたらしい。それぐらいしか知らんね」
「そうですか、分かりました」
ウルフはずっと放置していたマグカップへ申し訳程度に口を付けた。
「いろいろと教えてくださってありがとうございました、先生」
「いやなに、たいしたことじゃないさ。なぁ、魔法使いくん。おっと、いい加減名前を聞くべきだな。教えてもらっても?」
「アーチボルト・ウルフです」
「ウルフか。――ウルフ?」
先生はちょっと探るような目つきになって、すぐに「いや、まさかな」と呟いた。それから仕切り直すように笑顔になる。
「君が言ったとおり、人生に迷いがつきまとうのは必定だ。しかも迷いに迷ってようやく下した決断も、正解か不正解かは死の間際になっても定かでない。とてつもなく苦しい道行きだ。だが、きちんと向き合え。己が迷っているということを自覚し続けろ。自覚なく迷うことが最も恐ろしいことだ。自覚がないと、行き先が分からないまま進んでしまうからな。その先に何が待っているかなど考えもしないで。迷っている自覚があれば、行き先も選択できるし、立ち止まるという選択もできる。思考を止めてはならないんだ、いいね」
「……はい。ありがとうございます」
ウルフはぎこちなく微笑んで、席を立った。
研究室を後にして、食堂へ向かって夜道をふらふらと漂う。冷たい夜風が頬に気持ちよい。ふわふわした思考回路に冷たい水を流し込まれたような感じがして、情報がさらさらと整理されていく。サリンジャーとの関係は肯定された。なかったはずのアリバイが生まれて、オブライエン先生による犯行は不可能になった。僕らじゃアリバイの確認はできないけれど……。
「先生は嘘をついているのかな」
「いや、嘘ではないでしょう。その手の判断に自信はありませんが……嘘をつくならサリンジャーとの関係を隠すのが自然では? それを明かしておいて、他の部分で嘘をつく必要があるとは思えません。君には嘘をついているように見えましたか?」
僕は力なく首を横に振る。そうは見えなかった。
「相対的に、ジュールによる犯行という可能性が高まったわけですが……」
どうにもしっくりこないな、とウルフは独り言のように呟いた。僕も同じ気持ち。犯人は絶対的なものだ、と言った先生の言葉は正しいもののように思える。
「ジュールが犯人なら、アンドリューズの転落時のアリバイがおかしくて、オブライエン先生が犯人なら、ホール教授の転落時のアリバイがおかしい、ってことになるね。誰かが嘘をついているんだな」
僕がそう言うと、ウルフはふてくされた幼児のように靴底で道をこすった。
「そういうことになりますね」
「何か気になる?」
「いえ……」
ふと口ごもったウルフが、急に歩調を緩めた。食堂へ向かう道とキャンデラ・ストリートとの分岐点に立ち止まった婦人が、僕らを見て片手を上げていた。
「奇遇ね、お若い紳士さん方」
「こんばんは、マダム・バルコニー」
薄紫のスカーフに控えめな黒真珠のイヤリングを着けたマダムは、並び立つ僕とウルフを見て口元をほころばせた。けれど余計なことは何一つとして言わなかったのだから素敵なお人だ。
「ティムはおうちですか?」
「ええ、散歩はいつも朝の内にするの」
マダムはふんわりと微笑んだ。それからふとその笑顔を消すと、ちょっと僕らに顔を近づけて声を潜める。
「ところで、ホール教授の事件に何か進展はあったのかしら」
「これといったことは、何も」
「そう」
ふと気が付くと、ウルフが横目でじっと僕を見ていた。尋ねろ、ってその目が語っている。分かったよ、仕方ないな。
「マダムは何かご存じないですか」
「何かって?」
「この事件と関連のありそうなことです。何らかのトラブルとか、そういうものは」
マダムは眉根をきゅっと寄せた。
「ホール教授が抱えてらしたトラブルなんて、私が知っていることはみんな関係ないと思うわ。去年の夏にタイナー准教授がギャンブルで借金を背負った件も、彼の昔のご学友が手伝ってくれてすぐに解決なさったそうだし、オブライエン先生が学生さんと交際している件も、ホール教授のお耳に入ったのはずいぶんと前のことだもの」
「お詳しいですね」
「ちょうどいい木の
何かあったら言ってちょうだいね、協力できることがあればするのだから。とマダムは僕に念を押して立ち去った。
「ギャンブルで借金なんて、なんだか意外だな。そういうことをするようなタイプには見えなかったんだけど」
「だからこそ、という可能性は大いにありますよ」
僕は言葉の意味を捉え損ねてウルフを見つめたのだが、彼は僕の視線の意味をまったく汲み取ってくれなかった。
「そういえば、フィービー・クームズにまだ会っていませんね」
その名前の持ち主のことを思い出すのに、僕は約四秒を費やした。
「マックス・アンドリューズの恋人だね」
「ええ。居場所は分かりますか?」
「レイヴンズコート・パーク駅の近くの安いダイナーでバイトしてる、って聞いたよ。行ってみる?」
「君は素晴らしく優秀な調査員ですね」
僕はただあちこちで噂話を聞いてきただけなんだけど。手放しで褒められて悪い気はしない。
「明日行ってみましょう」
「オーケー。じゃ、また講義のあとに」
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