15 傷口に砂糖を塗り込まれたなら
翌日、講義終わりに待ち合わせて、僕らはセント・ジェローム・カレッジに向かった。ウルフの赤コートは今日もお休み。目立ってしまって仕方ないからね。でも今日は眼鏡と髪型をそのままにしているから、顔見知りなら彼だと気づくだろう。
セント・ジェロームの塀の中は、外から眺めたときの印象同様、さっぱりとしていて開放的だった。穏やかな夕日に染められた構内はなぜか感傷的になってしまうほどである。ヒューバートの閉塞感を少し分けてあげたいくらいだ。
「サリンジャーの居場所に心当たりがあるんですか?」
「いや、まったくないけど」
「……じゃあ、どこに向かってるんです?」
「んー、なんか暇そうにしてる人がいないかなぁと思って」
「暇そうにしている人、ですか」
「そうそう。――あ、いた」
待ち合わせだろうか、外灯にもたれかかって携帯をいじっている奴がいる。僕は斜め向かいからそいつに近付いた。ウルフのような演技、僕の場合は必要ない。素のままでいって、覚えられることも警戒されることもないからね。
「やあ、悪いね、ちょっと聞いていい?」
「何?」
「サリンジャーを見なかった? 二年のエイリーン・サリンジャー」
「知らないな。他を当たってくれ」
「了解、ありがとう。それじゃあ」
僕はひょいと片手を振って彼から離れた。再びウルフと合流して流し歩く。
「外れだったね」
「当たるまで繰り返すつもりですか?」
「他にやりようがなくない?」
「まぁ……そうかもしれませんが……」
ウルフは不満げだったけれど、他にやりようがないって意見には賛同しているようで、大人しく黙った。
当たりはなかなか引けなかった。けれど、僕らはサリンジャーの背格好を知らないから、人に聞くほかどうしようもない。情報を求めてセント・ジェローム内を転々とする。
適当な校舎の一つに入ったとき、すぐそこに見覚えのある顔を見つけて、僕は何も考えず声を上げていた。
「あ、タイナー准教授」
准教授はきょとんとした顔で僕を見返した。が、隣に立つウルフを見て、はたと気が付いたように微笑を浮かべた。(相変わらずその笑顔は不器用に引きつっていた。)
「こんにちは。こちらのカレッジで会うとは思わなかったな。誰に用かな?」
「エイリーン・サリンジャーという方を捜しています。ご存じないですか?」
「サリンジャーくんを?」
タイナー准教授は片側の眉をバネ仕掛けのように跳ね上げた。細い指先が眼鏡の位置を微調整する。
「いや、今日の講義には来ていたけれど、今どこにいるかは知らないね」
「そうですか」
「どうして彼女を?」
「いえ、たいした用事ではないのです」
詳しく聞きたそうな目をしたタイナー准教授を、ウルフはあっさり無視した。(彼の場合本当に気が付かなかっただけかもしれないけれど。)
「ところで、タイナー准教授はどのようにお考えですか。ホール教授が亡くなったことについて」
ウルフが真摯に尋ねると、准教授はぐっと眉尻を下げて、ことさら同情するような顔つきになった。
「呪いだ、という噂が広がっていることは知っているよ。アンドリューズくんの件と続いたからだろうけれど、こんなのただの偶然に決まっている。君は大変な思いをしているだろうけれど、気を確かに持つんだよ。噂なんてすぐに消えるものだから」
「はい、ありがとうございます」
彼はまったくありがたがっていない調子でそう言った。
「先生はこれを事故だとお考えですか」
「もちろん。ホール教授を、その――害する人なんていないよ。これは不幸な事故だったんだ。だから徹夜はやめたほうがいいと言っていたのに……」
もっと強く言えば良かった、と先生は目を伏せた。自責の念を紛らわすように微苦笑が浮かぶ。
「警察は事件の可能性を考えているようですが」
「おや、どうして君がそのことを?」
「私も一応捜査線上に置かれていたもので」
「警察は呪いを真に受けていたのか。何とも愚かしいな」
「ホール教授が使っていらっしゃった仮校舎の勝手口の鍵が、教授の亡くなった十三日の朝に壊されていたことはご存じですよね」と、ウルフは先生の言葉を流して話を続けた。「警察は犯人がわざとそうしたのではないかと考えているようですが、どう思いますか」
「もっともらしいね。だが、人の目は望むようにしか物事を見ないということを忘れてはいけない。警察は事件にしたがっているから、そういうふうに見えたのだろう」
タイナー准教授は哀れむように穏やかに微笑んで、すぐに笑みを消した。
「とはいえ、客観的な視座に立てば、偶然と言い切るには少々違和感があるという意見を否定しきれない。仮に誰かがホール教授を害したとするなら、その朝の一件も同じ人物の手によるものと考えるのは自然な思考だ。事故だと思われるように犯行に及んだとしたら、十三日の金曜日に研究室へこもる、というホール教授の癖を知っていてのことだろう。つまり近しい人間だ、ということになるだろうね。しかし、教授と近しい人間の中に、彼に恨みや何かを抱いていた者はいない。よって、犯人は存在しない。さらに、アンドリューズくんの件も考慮すると、より幅は狭くなる。二人の共通点といえば師弟関係にあったというだけだ。二人が同時に一人の恨みを買うようなことが起きたとは考えにくい。起きていたならきっと大事になっていて、誰もが知るところになっていただろうから」
無論、管見の限りだが。と彼は長い講義を締めくくった。
「先生方の間で諍いはなかったんですね」
「個々人の主義の差異に端を発する意見の食い違いを、諍いと呼ぶのは大げさすぎるだろう。完璧に円満な人間関係などありはしないさ。だからこそ、その程度で殺しが起きることはありえない。分かるかね」
「ええ、分かります」
「巻き込まれてしまって君も精神的に不安定になっているのだとは思うけれど、ありもしない原因をむやみに求めるようなことをしてはいけないよ。冷静な見方を忘れないように」
「はい」
ウルフはわずかに苛立ったような調子で小さく頷いた。哀れまれているように感じたのだろう。優しさは時に染み過ぎる。傷口に塗り込めば砂糖だって痛いのだ。
タイナー准教授はまったく気が付いていない様子で、穏やかに微笑んだ。
「何か困ったことがあったら、いつでもおいで。きっと君一人ではどうにもならないこともたくさんあるだろうから。私が君の力になるよ」
「ありがとうございます」
もうこれ以上は我慢ならない、とブラックホールが吠えていた。
「そろそろ失礼いたします。お忙しいときに引き止めてしまってすみませんでした。それでは」
と、ジャケットを翻す。僕は気持ち丁寧に会釈をして、その背中を追いかけた。
外はすっかり夜に染まっていた。ウルフが冷たい風に頬をさらし、気持ちよさそうに目を細める。
「捜索を続けましょうか」
「そうだね」
僕らは何事もなかったように行動を再開した。
それからしばらくしてようやく「サリンジャーならさっき食堂で見たよ」と聞けた。ラッキー。食堂なら接触しやすい。顔が分からないから、服の色と何人でいるかを聞いておいて、食堂に向かう。
「ついでに夕食をとりませんか」とウルフ。
「ついでに聞き込み、の間違いじゃない?」
「どっちでも同じことでしょう」
彼は軽く笑った。
食堂は空いていて、サリンジャーはすぐに見つけられた。金持ちそうで、清楚系の薄青いワンピースで、ふわふわの栗毛のボブ。まず間違いなくあの子だろう。女友達二人が一緒にいるが、他二人もサリンジャーに負けず劣らず可愛かった。無論、サリンジャーが頭二つ分くらい飛び抜けているんだけれど。
楽しげにおしゃべりをしているところに割って入る勇気はないなぁ、と思って二の足を踏んでいたら、ウルフがすっと前に出た。(彼はしれっと眼鏡を外していた。)
「失礼ですが、サリンジャーさんではありませんか?」
「そうだけど、なぁに?」
サリンジャーはどこか間延びした調子で言いながら、こてんと小首を傾げた。その仕草や声音は確かに可愛らしい。
そこへウルフはあっさりと爆弾を投下した。
「あなたがオブライエン先生と結婚の約束をしている、という噂は本当ですか?」
そんなストレートな聞き方があるか! と僕は内心で頭を抱えた。動揺を見せたのは周りの友人たちで、紅茶にむせたりフォークを握ったまま固まったりしている。当の本人は飄々としたものだ。軽く握った手を口元に当て、くすくすと笑い出す。
「えー、誰から聞いたのそんな噂」
「ああ、やっぱりでたらめですよね。私だって真に受けていたわけではないんですよ、絶対にあり得ないと思っていました。さすがに突拍子がなさ過ぎますから。いくらでたらめであっても、もう少し信憑性があってほしいですよね」
ウルフはことさら“でたらめ”だと強調する言い方をした。サリンジャーの大きな栗色の目がウルフを見上げる。
「それ、誰から聞いたの?」
声のトーンが少し落ちていた。なんだかちょっと不機嫌そう。僕は少し違和感を覚えた。オブライエン先生との交際が嘘なら、でたらめだと言われて喜ぶもんじゃないのかな。
「気になりますか?」
「だって嫌だもの、そんな噂流されたら」
「心配いりませんよ、でたらめな噂はすぐに消えます」
「それでも嫌なの。誰から聞いたのか答えてよ」
爆発しそうな雰囲気を素早く察知したように、ウルフはちょっと申し訳なさそうな表情になって口を割った。
「ジュールから」
「ああ、彼ねー……」
サリンジャーは額の辺りにわずかにしわを寄せて、髪を耳にかけ直した。
「ずいぶん前だけど、振ったことがあるの。あんまりしつこくされたからちょっと怒っちゃって、それっきり。逆恨みとか最低ね。あなたは彼と仲が良いの?」
「いいえ、それほどでは」
「あいつとはあんまり付き合わないほうがいいよ。くそ真面目で神経質で、めんどくさいって有名だから」
「ご忠告ありがとうございます。ところで、アンドリューズが階段から落ちて入院していることは知っていますか?」
「もちろん。あいつ、呪われたんでしょ?」
サリンジャーの顔に浮かんだのは面白がる色だ。無関係の第三者がよくする表情。残り二人もよく似た顔つきを見せて、くすくすと忍び笑いをした。
「いい気味。あいつもたいがいだったから」
「たいがい、というと」
「ものでも金でも、貸したら絶対に返ってこないって有名なのよ。そのうえ無類の女好きで、何股も掛けてて、毎日のようにトラブルばっかり。私にも何度も言い寄ってきて、すごいしつこかったの」
「それはいつ頃の話ですか」
「一ヶ月前くらいかなー」
「モテる方は大変ですね」
「えー、それはそっちだってそうでしょ?」
からかうように聞き返されて、ウルフはちょっと目をぱちくりさせた。それから困ったような微笑みを浮かべる。
「そうでもありませんよ。飢えた男どもとは違って、女性の皆様におかれましてはどなたも慎み深くていらっしゃったので」
「やだ、どんな高校行ってたの?」
くすくす、と三人の笑い声がさざ波となって寄せてくる。それに足下をすくわれまいとするかのように、ウルフがすっと後ろに下がった。ガードの堅い微笑。
「いろいろとお聞きしてすみませんでした。では、失礼」
今の人めっちゃカッコよくなかった? 名前聞けば良かったー。なんていう黄色い声を背後に聞き流し、僕らはカウンターに向かった。
食事を受け取って、彼女たちからなるべく離れた席に着く。
「なんであんなにストレートに聞いたの?」
「搦め手は嫌いなんです」
ウルフは平然とそう言って、パスタを頬に詰め込んだ。彼の食べ方は“詰め込んだ”と形容するのが最も相応しい。がっついているわけではないんだけど、一口が異様に大きいんだ。これだけ幼い仕草でありながら汚いとは思えないのだから、元がいい奴は得だよね。
そういうわけだから、飲み込むのに普通の倍くらいの時間を必要とする。その間は僕の考えを伝えるのにちょうどいい。
「彼女、思い切り否定してたね。でもなんだか奇妙に思えたな。違うんだったら“でたらめ”って言われて喜びそうなのに、なんか不機嫌になってたし、誰から聞いたのかをひどく気にしてたし。やっぱりジュールの情報は本当だったのかな」
ようやく一口目を飲み込んだウルフが頷いた。
「君の目は正しいと思います。私はわざと“こんな噂でたらめだ”と強調していたのですが、彼女は決してそれに賛同しませんでしたので」
「それを狙ってたの?」
「半分くらいは。どんなに隠しておきたいことであっても、本当のことをはっきり否定するのは難しいものです。もちろん、人によりますが」
そう言って大きな二口目。
「それじゃ、裏はとれたって判定でよさそうだね。次はオブライエン先生のところへ行くとして……ホール教授がそのことを知ってたってどうやって確かめればいいんだろう。あ、いや、確かめる必要ってないのかな。犯行に及んだことが確実になればいいんだから、当日の動きがはっきりすればすべて解決しそうだね」
「警察がそれをして無理だったのですから、別の方向から攻めるべきでしょう」
「別の方向っていうと……たとえば?」
聞き返すのがちょっと遅れたせいで、ウルフはすでに三口目を詰め込んでしまっていた。もう話したいこともなくなっていたから、僕は大人しく待つ。
僕がパンを半分くらい飲み込んだタイミングで、ウルフが喉を鳴らした。さぁ、満を持して解決策の登場だ。
「具体的な策はありません」
「えっ、ないの?!」
「ないです」
身構えていた分がっくりときた。そっか、ないのか……。
ウルフはにっこりとした。
「ですので、ここからはアドリブといきましょう」
果たしてここまでにアドリブじゃないときがあったのだろうか、と思いながら、僕は彼の真似をしてほっぺたいっぱいにパンを詰め込んだ。
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