14 新しき鍵の行方は誰も知らぬまま
エイト・ブリッジから出てきた時には、空は真っ黒になっていた。降り出すのも時間の問題だろう。僕の頭の中にも暗雲が立ちこめてきていた。登場人物が増えてくるとひどく混乱してしまうんだ。
「ジュールの証言で、新たにオブライエン先生とエイリーン・サリンジャーが登場しましたね。この二人が交際しているという話ですが、どうにかして確認する必要があるでしょう」
「それをホール教授が知ってたかってことも」
「犯行に結びつくかどうか……」
ぼんやりと言いながら、ウルフはキャンデラ・ストリートを下っていく。道中、何人か知り合いとすれ違ったけれど、みんな僕の隣にいるやつが魔法使いだとは気が付かないで「お前、まだあの魔法使いと同じ部屋にいるのか?」「さすがにつるむのはやめたんだな。教授を呪い殺したってマジ?」なんて言ってくる。僕はひやひやしながら、適当に笑ってあしらった。ウルフに機嫌を害した様子は見られなかったけれど、きっと内心は穏やかじゃないだろう。黙っているのは気まずくて、僕は努めて明るい声を出した。
「しかし誰にも気が付かれないね。本当にすごいや」
「目立つ目印が一つあると、細かなところを見るのは難しくなるものです」
彼は何てことなさそうに微笑んだ。
「それより、君の顔の広さに驚きました。ヒューバートの全員と知り合いなんですか」
「全員は言い過ぎだよ。顔だけ知ってる、って奴のほうが多いし。さっきの二人も名前までは知らないな。学年は一つ上なんだけど」
「どうやってこれほどまでにコミュニティを広げたんです?」
「君が本を読んでいるのと同じだけの時間をおしゃべりして過ごしていたら、自然とこうなるよ」
「なるほど」
ウルフは感心したように(あるいは宇宙人の文化を知ったかのように)頷いて、ふいと前を向いた。
「現場を見に行ってみませんか」
「オーケー、行こう」
道を折れて、ヒューバート・カレッジの校舎の外をぐるりと回る。ヒューバートの西に隣接するセント・ジェローム・カレッジ、その間の通りに現場となった仮校舎があるのだ。離れ小島のようにぽつんと建っている小さな二階建ての家は、白と青のテープで周りを囲われ、立ち入り禁止にされていた。南側にある玄関の真横では、制服を着たおまわりさんが厳めしい表情で仁王立ちしている。
「昔の教員用宿舎だったんだって」
僕は入学したその日にトムから聞いた話を思い出した。
「今は物置にされてたんだけど、補修工事の間の別荘として、ホール教授の仮校舎になってたらしい」
「なるほど」
ウルフは仮校舎の外観をじっくりと見つめた。それからその目は東のヒューバートと西のセント・ジェロームのほうにぱっ、ぱっ、と振られた。
「ヒューバートのカメラでは無理そうですが、セント・ジェロームの東門のカメラなら、玄関と西側はぎりぎり入るでしょう。北側と東側は写らなさそうですね」
「そういえば刑事さんも言ってたね。カメラに写っていた人物はいないって」
「裏口から侵入することは可能でしょう。その気になれば、雨樋を伝って二階の窓から侵入することだってできるでしょうし。どちらも、鍵さえどうにかすれば、という話ですが」
確かに東側の二階の窓のすぐ傍には雨樋があって、上って入ることはそう難しくなさそうだった。運動神経に関してそこまで自信のない僕ですらできそうだと思ったくらいである。だけど、
「雨の夜でもいけるかな?」
ウルフは「安全性を考慮するなら、普通裏口のほうを選ぶでしょうね」と肩をすくめた。
そのときだった。仮校舎から見覚えのある壮年の男性――サマーヘイズ刑事が出てきたのは。彼は僕らを目ざとく見つけると、にこやかに片手を挙げて近寄ってくる。どうやらサマーヘイズ刑事にはきちんとウルフの姿が見えるらしい。
「よう、坊ちゃん方。元気そうだな」
「こんにちは。奇遇ですね」
「そりゃあこっちの台詞だぜ」
と彼は煙草を噛んで、煙に染められたようなブルーグレーの目を細めた。
「ルーサーの野郎がぼやいてたぞ。お前さんが寮にいなかった、って」
「何か私に聞きたいことが?」
「いや、たいしたことじゃないんだけどよ」
吐き出された煙がふわりと宙を漂った。
「事件当夜に詰めてた警備員から話を聞いたんだ。セント・ジェロームのほうからは何もなかったんだが、ヒューバートのほうからは『十時頃、校舎の外側で赤い服の男とすれ違った』って話が聞けてね」
僕は瞠目した。また赤い服の男だ。まるでウルフを陥れるかのように。サマーヘイズ刑事が目を細めてウルフを見る。
「やっぱりお前さんだってルーサーが息巻いててよ」
ウルフはちょっと憮然とした様子でそっぽを向いた。
「もしも私が犯人だったら、あのコートは着ていきません」
「分かってるよ、俺は疑っちゃいないさ。ま、それはそれとして、だ。坊ちゃん方」
急に彼の目が鋭い光を帯びた。僕は一瞬背筋が粟立ったのが分かった。髭の剃り残しは消えていたけれど、ビア樽のように出っ張った腹とやるせなく覗く頭皮、くたびれたスーツは昨日とまったく同じ。威圧感なんて欠片も持ち合わせていない格好なのに、目線一つでこうも凶器のような鋭さを纏うなんて。これがベテランの刑事ってやつなのか。
「お前さんら、早速あれこれ嗅ぎ回ってきたんだろう。違うかね?」
僕はなんだか万引きを見つかったような気分になって黙り込んだ。対照的に、ウルフは平然と頷く。
「おっしゃる通りです、サマーヘイズ刑事。何かお役に立てることがあるならばすべてお話ししますが」
「よしきた、それじゃあ堅物が戻ってきてあーだこーだ言い出す前に、適当なカフェで遅めのランチと行こうぜ」
サマーヘイズ刑事は金歯を見せて笑った。僕に向けて、ぎゅ、と両目を瞑ったのは、どうやらウインクのつもりだったらしい。僕はさっき感じた寒気のようなものがすっぱり消え去っていることに、どうも騙されているんじゃないかという気分になりながら、彼らの背中について行った。
ブース席を一つ占領して、三人分のサンドイッチとコーヒーを受け取ってから、ウルフがこれまでに知り得たことをすべて包み隠さず話した。ほうほう、ほうほうととぼけた梟のような相槌を打ちながら、サンドイッチを頬張っていたサマーヘイズ刑事は、話が終わるとコーヒーを一気に飲み干してソファの背にもたれかかった。
「なるほどなぁ。それで、坊ちゃん、お前さんはどう考えているんだ?」
「現状では、ジョナサン・ジュールによる犯行の可能性が高そうだ、というところでしょうか。次点でオブライエン先生が出てきましたが、まだ確認ができていないのでなんとも」
「そういうことじゃあ、この二件に連続性はありそうだな。グランダッドの婆さんももういい歳なんだ、見間違えることだってあるだろうし、アーヴィン・オブライエンとエイリーン・サリンジャーが共謀した可能性もある」
「そちらは事件だと確定したのですか?」
「ちょっとばかしそっちの方面に傾いた、ってぐらいだな」
刑事さんは曖昧な言い方をした。
「分析の結果、やっぱり血痕の付き方が不自然だって鑑識の連中が。それと、坊ちゃん方もつい今し方見てきただろ? あの仮校舎には、カメラに写らない位置に勝手口がある。そこの鍵は、長い間使ってなかったってこともあって、教授さんの仮校舎にするってなった時から無かったらしい。でも内側から開けられるし、短期間だから問題ないってそのままにしていたんだと」サマーヘイズ刑事はこちらの注目を誘うように、テーブルの上へ身を乗り出した。「で、その鍵がな、十三日の朝に壊されてたんだ」
僕は息を呑んだ。鍵さえどうにかなれば――どうにかなっていたのだ!
「なんでも、キッチンが荒らされてて、勝手口の周辺にゴミやなんやらがぶちまけられてたんだってよ。誰かの悪戯か浮浪者の憂さ晴らしか、そんなところだろうってことで、その日のうちに学生連中に片付けさせて、ホール教授が鍵の交換をどこだかに頼んだんだが、すぐには手配できなくて月曜にすることになってたらしい。ま、偶然とは思えねぇよな」
こんなの偶然でありっこない。ウルフもそう思っていることが横顔で分かった。頬にサンドイッチを詰め込んでいる分、いつもの鋭さは薄まっているけれど。
ごくん、と喉仏が上下して、情報ごとサンドイッチを飲み込んだウルフが口を開いた。
「ちなみに、東側の二階の窓は」
「俺らが現場に入ったときには鍵もきちんと閉まってたな」
「そこに水溜まりはありましたか」
「いや、見た限りはなかったね」
「第一発見者は」
「掃除を請け負ってる婆さんだよ。そいつが警察とタイナー准教授に連絡したらしい。現場の保存が終わった頃にタイナー准教授が来たな」
ウルフはサンドイッチに情報を挟みこみ、大口でかぶりついた。
「聞いたところじゃ、十三日の金曜日に教授が夜通し研究室にこもって思索にふけるのは有名な話だったらしいな。途中で必ず散歩に出ることも。ま、有名ったって誰彼構わず知ってるってわけじゃあないだろうし、物も盗られちゃいねぇから、身近な人間による怨恨由来の犯行だろう。もとよりそういうつもりで、関係者連中のことを調べてたんだが――」
サマーヘイズ刑事はぼさぼさの眉毛を情けなく歪めた。
「――だがね、困ったことに、全員にアリバイが
「ない?」
思わず聞き返してしまった僕に、刑事さんは深く頷く。
「そう。確証がない、って言うべきかね。つまり、タイナーもオブライエンも全員が全員、その時間は自宅にいた、証明してくれるのは家族か飼ってる猫だけ、ってな具合だったわけだ。まぁタイナーのほうはまだマシだな。アパートメントの防犯カメラにきっちり写ってたから。この後俺らも訪ねてみるが、ジュールもそうなんだろ? こうなると、はっきりしたアリバイがあるよりも厄介なんだよなぁ」
「悪魔の証明ですね」とウルフ。
「なんだいそいつは」
「“ある”ことより“ない”ことを証明するほうが難しい、というやつです」
「あー、そうそう、まさにそれだ」
と、彼は心底嫌そうに頷いた。
「動機となりそうなトラブルもこれといって見当たらねぇしな。誰に聞いても、ホール教授は気難しいお人だったが悪い人じゃなかった、殺されるなんて信じられない、ってそればっかりだ。不正を許さない人だったらしいから、何か悪いことをして殺されたって感じでもなさそうだし」
深い嘆息。本当に手がかりが乏しいらしい。
そのとき不意にカフェの扉が開いて、刺々しい足音が飛び込んできた。ルーサー刑事だ。それを見たサマーヘイズ刑事がさっと立ち上がる。
「ま、とりあえず、ミスター・オブライエンにかわいい恋人の話を聞いてみるのが先決かね。たいへん参考になったよ、坊ちゃん方」
「サマーヘイズさん、こんなところで何をしているんです?」
「いや何、上手な友達の作り方を聞いてただけさ。なぁ」
と、また下手なウインク。どうやら、僕が一時ウルフを見捨てようとしたことはお見通しらしい。僕はにっこりと笑い返した。
「もう行くんだろ、坊ちゃん方。引き止めて悪かったな」
「いえ。ありがとうございました。失礼します」
ウルフに続いて店を出る。扉を閉める直前、ようやくウルフのことに気が付いたらしいルーサー刑事が「今のはあの魔法使いのっ――」と喚きだしたのが聞こえた。それをガラス戸の向こうに閉じ込める瞬間の、なんて爽快なことだろう! いつの間にか降り出していた強めの雨だって気にならないくらいだ。
「さすがに今日のところは戻りますか」
ひどくなりそうだと察してそう言ったウルフも、どこか上機嫌な笑顔をしていた。
大粒の雨は横殴りに打ち付けてきて、寮までの短い道のりの間に僕らをびしょ濡れにさせた。交替でシャワーを浴びた後、特大のチョコレートバーを二本平らげたウルフが出し抜けに言う。
「サマーヘイズ刑事はタイナー准教授とオブライエン先生の名前を出しましたね」
「そうだったね。それじゃ、その二人が容疑者になってるってことかな」
「おそらくは」彼は長い黒髪をぞんざいに拭きながら、ベッドにどっかりと腰掛けた。「できることなら、これまでに名前が挙がった全員から話を聞きたいですね」
「全員って言うと――タイナー准教授とオブライエン先生、それにエイリーン・サリンジャー、この三人か」
「そうです」
「事件の可能性が高まったんだから、犯人が見つかれば呪いでないことを証明できるね」
ウルフは深く頷いた。
「見逃すわけにはいきません。決して」
その目を見た瞬間、僕は『もう警察に任せてもいいんじゃない?』という言葉を飲み込んだ。警察を信用できないわけではない。サマーヘイズ刑事は(ルーサー刑事も)全力を尽くしてくれるだろう。けれどそういう問題ではないのだ。彼はもう引けなくなっている――いや、最初から
で、それはここまで関わった僕も同じことだろう。
椅子に座り直す。
「明日さっそく行ってみようか。誰から行く?」
彼はベッドに引き上げた足を抱きかかえるようにした。
「サリンジャーですかね」
それは意外な言葉だった。てっきり先生たちから始めると思っていたから。
「どうして?」
「ある程度情報がある人からのほうが話は聞きやすいでしょう。タイナー准教授のことはよく分かりません。情報が少なすぎる。彼の父親は有名な哲学者なのですが」
「そうなんだ」
「ええ。何冊か読みましたが……読んだことがあります」
ウルフは微妙に言いよどんだ。
「難しかった?」
「いえ、語り口が好きになれなかっただけです。言っていることは立派だと思うのですが、なんとなく高圧的というか……まぁ、ただの主観的な意見です。内容はよいので、機会があれば読んでみてください」
僕は儀礼的に頷いた。
「それに対して、オブライエン先生のほうは、サリンジャーとの交際の件があります。とてもつつきやすい。ですが、この間話した感じからして、彼が一筋縄でいかない人間であることは明白です」
「ああ」
一週間前、マダム・バルコニーのところで会ったときのことを言っているのだろう。確かに、あの感じだと議論にすごく強そうだ。
「先に裏を取ってから先生のところへ行きたい、ってことだね」
「そういうことです」
頷くと、彼は大きなあくびをしてベッドに寝転がった。
「もう寝るの?」
「ええ。眠いので」
「おやすみ」
枕に押しつけられた口元から「おやすみなさい」とくぐもった声が聞こえて、それがすぐさま寝息に変わる。寝落ちスピード選手権があったらかなりの好成績をとれそうだな、なんてくだらないことを考えながら、僕はデスクに向き直って、返しそびれていた本を手に取った。まだ眠るには早すぎるし、彼と違って眠くもなかった。
中盤を過ぎた『ほんものの魔法使』は、ヒロインにアダムが魔法の説明をするシーンへ入っていく。本物の魔法使いに恐れおののき、彼を排除する計画を進める手品師たちを尻目にね。
魔法は僕らの周りにあふれている。自然の成すすべての不思議は魔法だし、我々の持つ無尽蔵の想像力もまた魔法だ。アダムですらほんとうの魔法使ではなくて、この世界こそがほんとうのほんとうの魔法使である。――この本が書かれたのは一九六六年、魔法使いの存在がとうに明かされていた時代である。けれどこれを読む限り、明かされていたのは存在だけで、内実は今以上に不透明なままだったらしい。あるいは何らかの意図があって、あえておとぎ話と同じ体を装ったのか。そんな深いことを読み取れるような読解力も知識も持ち合わせていない僕だけれど、分かることが三つある。
きちんと話さなければ誤解は解けない。
誤解されたままでは恐怖はつのる一方になる。
手遅れになってからでは遅い。
まぁ、これだけ分かっていれば充分だよね。
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