19 僕は踊り場で泡を食う

 雨の中を走って、寮の玄関ロビーに入った途端、


「あっ、魔法使い!」

「ようやく来たか!」

「謝るから助けてくれ!」

「悪かったから勘弁してくれ!」


濡れネズミの僕らはむさ苦しい連中に囲まれたのだった。何これ、何事だ? さすがのウルフも動揺している。


「ちょっと待ってください、いったい何が?」


 当然の反問に、集まっていた八人全員が一斉に話し出したからもう何が何やら。ウルフが苛立ちをあらわに手を叩いた。


「いったん落ち着いてください。代表者ひとりが話してくれますか」


 八人は互いの顔を見合って、背中を押された坊主頭がおずおずと切り出した。


「あの……俺たち、エイト・ブリッジの三階に住んでて……その……」


 そこで言葉に詰まったと思ったら、彼は急に頭を下げた。


「悪かった! 許してくれ!」

「だから、さっきからいったい何に対して謝っているんです?」


 ウルフに睨まれて、坊主頭は肩を縮こまらせた。


「その……アンドリューズが呪われてたって噂を流したのは、俺たちで……」

「えっ」


 思わず声を上げていたのは僕だ。坊主頭はちらりとこちらを見たが、そのまま続けた。


「本当に悪かったと思ってる。反省してる。でも、どうしても……」


 ばれたくなくて、と彼は小声で言った。エイト・ブリッジの内情のことだろう。別のところからまた小さく「あいつは呪われたって仕方ない奴だった」と言う声が聞こえた。きっと彼らが魔法使いだったら本当に呪っていたことだろう。


「だからさ、その、許してほしいんだ。勘弁してほしい……何だってするからさ」

「どうにも話が見えませんね」


 ウルフは眉をひそめて首を傾げた。


「私はそもそも、アンドリューズが呪われていると噂したのがあなたたちであることを知りませんでした。許すも何も、怒る相手がいなかったんですよ? なのにどうして、わざわざ自白しに来たんですか?」

「えっ、だって……」


 坊主頭たちがざわめいて、ひそひそと話し合って、それから改めて向き直る。


「お前がやってるんじゃないのか?」

「何を?」

「……最近、寮の中で奇妙なことが起きるんだ」


 怪談の気配を察知して、僕の首筋の産毛が逆立った。


「最初は気のせいだと思ったんだけど……」

「奇妙なこと、というのは、具体的には?」


 ウルフの問いかけに、皆は口々に言いつのった。変な破裂音が聞こえる。コップがひとりでに落ちた。深夜に何かを引きずりながら廊下を歩き回る音がする。うめき声のようなものが耳元で聞こえた。背後に誰かがいるような気がする。電気が点滅しながら消えた。物を置いた場所が変わっている。窓の外を何かが横切った。云々かんぬん……。

 飛びそうになる意識をどうにかつなぎ止めながら聞き終えて、次の展開に備える。


「なるほど。それらはおそらく幽霊ゴーストの仕業だと思います」


 彼の断言を予期していた僕は、どうにか悲鳴を飲み込むのに成功した。顔色はひどかっただろうけど。


「幽霊の? でも、今までそんなこと一度も……」

「何かのきっかけで活性化したのでしょう。鎮めることはできると思いますが」

「本当か!?」

「ええ。さっそく行きましょうか。被害が増えると分かっていて放っておくのは気が引けるので」


 頼りがいのある藁を見つけたような顔で、八人は銘々に「頼む!」「ありがとう!」などと声を上げた。

 ウルフは手早く着替えると、八人の男の奇妙な行進に加わって寮を出ていった。僕は最後尾、ウルフの後ろにそっとついていった。目敏く僕に気が付いた彼が驚いたように眉を上げる。


「君も来るんですか?」

「い、行くよ。乗りかかった船だし……」

「そんなに無理しなくとも。大丈夫ですか?」

「だいじょうぶ……たぶん……」


 僕がついていったのはただの意地だ。野次馬根性ではなく。

 彼が傷口をえぐられながらも進んでいくのに、僕だけ安穏とはしていられない、ってね。ただそれだけのこと。

 ウルフはそれ以上止めなかった。

 夜のエイト・ブリッジは不気味な静けさに包まれていた。確かにそんなに人数がいる寮じゃないけれど、それにしたって静かすぎる……僕の気のせいかな。幽霊がいるって分かっているから、勝手に雰囲気をプラスしているだけかもしれない。いや、きっとそうに違いない。

 中に入ると、屋内とは思えないほどひんやりした空気にまとわりつかれ、腕に鳥肌が立った。ま、まぁもう十月も中旬だし、寒いのは当然のことだ。

 辺りをくるりと見回したウルフが「間違いありませんね」と呟く。

 僕は唾を飲み込んで尋ねた。


「ゆ、幽霊が?」

「ええ。はっきりとした気配があります。私はこの手の気配を読むのは苦手なんですが、それでも分かるくらいに濃い・・ですね。やはり結界が緩んだのが原因でしょう。しかし、そうすると……」


 ふいに押し黙って、考え込むこと五秒。再起動したウルフは、不安そうにこちらを窺う八人へ目を向けた。


「アンドリューズの転落を目撃した人が二人いると聞いていますが、その二人を連れてくることはできますか?」

「え、ああ、えーと」と坊主頭。「一人はここにいるぜ。もう一人は――二階の奴だっけ?」


 一人が「呼んでくる」と走り出した。


「では、アンドリューズが落ちた現場に行きましょう」

「どうして?」


 ウルフはブラックホールの中央をらんらんと輝かせながら僕を見た。


「彼がに落とされたのか、はっきりさせられるかもしれません」


 それって――いったい、どういうことだろう? 僕らは(ウルフ以外誰も訳が分かっていないまま)ぞろぞろと列を成して現場に赴いた。

 東側の階段、二階と三階の間の踊り場で立ち止まる。


「目撃者のお二人は、何を見たのか正確に言ってもらえますか」

「ええと、赤色のひらひらした服の袖が一瞬だけ見えて、すぐに消えたんだ。たぶん男だったと思う」


と、即座に答えたのは、後から来た二階の奴だ。元々いた八分の一は気まずげに口をつぐんでいる。その彼をウルフは厳しく見据えた。


「エイト・ブリッジの内情はすべて知っています。現場にクームズがいたことも」


 彼はびくりと肩を揺らして、助けを求めるように周りを見た。周りの連中はそそくさと目をそらす。非情なものだね、可哀想に。

 ウルフは容赦なく牙を向ける。


「あなたは何を見たんですか?」


 彼は観念した。


「……クームズがいた。でも、突き落とせる位置にはいなかった。絶対に」

「赤い袖は見ましたか?」


 その問いには首を振る。見ていないらしい。

 ウルフは満足げに頷いた。ブラックホールの奥がきらきらと輝いている。本物のブラックホールは飲み込んだ物の情報を一切返さないことで有名だけれど、彼の場合はちょっと違う。


「目撃証言の食い違い。壊れた結界。幽霊騒ぎ。ここまでくれば、もうこれ以上の説明はできないでしょう」

「どういうこと?」

「すぐにお見せしますよ」

「おいおい、何の騒ぎかね?」


 そのとき、階下からひょいと声が差し込まれて、場の全員が一斉に振り返った。


「サマーヘイズ刑事」

「魔法使いの坊ちゃんじゃねぇか」


 彼は腹を重たげに揺らしながら上ってきた。


「何してるんだい、こんなところで」

「ちょうどよかった。今から、アンドリューズを突き落とした犯人をお見せしようと思っていたところなんです」

「何だって?」


 尖った声を上げたのはルーサー刑事だ。そのまま噛みつこうとしたらしい彼をサマーヘイズ刑事が手で制する。


「ジュールでもオブライエンでもない、ってことかね」

「はい」

「アンドリューズはジュールに突き落とされたって言っているが」

「でも、見ていないんでしょう? 仲が悪かったからそう言っているだけで」


 サマーヘイズ刑事はこめかみを搔く動作でウルフの言葉を肯定した。


「ロドニー」

「何?」

「そこにいてもらえますか」

「ここ?」

「そう、そこに」


 僕はウルフの指さした場所――踊り場の真ん中――に大人しく立った。

 それから彼は目撃者の二人を事件発生時にいた場所へ立たせて、階段を上っていく。真っ赤なコートの裾が翻り、


「では、いくつかの説明と実験をもって証明しましょう」


そう言い始めた瞬間、彼にスポットライトが当たったような気がした。


「エイト・ブリッジの由来は皆さんご存じのことと思います。住んでいる方々に向かって今更言う必要はないでしょう。八人の修道士は殉教し、その魂をもってこの地の安息を勝ち取りました」


 突然始まった講義なのに誰一人として口を挟まず、息をすることすら忘れたように彼に注目している。ルーサー刑事ですら同様だ。

 彼の発声と滑舌の良さは否応なしに人の目を惹く。顔立ちの端整さだけではなく指先や爪先までを含めた全身の気配に華がある。他の誰が何て言おうと――たとえ本人がどれだけ否定しようとも――僕はこう言うだろう。

 彼には天賦の才がある、と。


「そして、彼らは今もまだここにいるのです。幽霊ゴーストとなって」


 彼はそこでふと言葉を切った。猶予を与えられて、僕らは唾を飲み込む。


「さて、この宿舎は完璧な結界理論を用いて構築されていました。立地、部屋の配置、部屋番号からレンガの積み方に至るまで、すべてが完璧に統制されています。それはもちろん、屋外のガーゴイルもその一部です」


 時間は今や彼の手の中で踊っていた。彼のひとり舞台。あるいはプラネタリウム。僕らはただ次の台詞を待ち望むだけの聴衆。椅子に座って眺めているだけの観客。


「幽霊が活性化する直接の原因となったのは、ガーゴイルが落下し、結界が崩れたことでしょう。そのせいで、妖精や悪霊が入り込めるようになってしまいました。それによって、普段は眠っている幽霊たちが目覚め――女人禁制の場所に女性を連れ込む修道士のひとりを目撃した。その結果があの事故でしょう。あるいは彼自身が侮辱的なジェスチャーでもして、怒りを買ったのかもしれません」


 そう言いながら、ウルフは“侮辱的なジェスチャー”の具体例を示しながら舌を出し、僕らに背を向けた。


「まぁ幽霊たちにとっては学生も修道士も同じです。彼らのような脳なし・・・にはその程度のことも見分けられないので。殉教者の魂といえども、魔法使いからしてみればそこらの凡人・・・・・・の魂と大差ありません。殉教者と自殺者って何が違うんです? ああまったく、馬鹿馬鹿しいっ――」


 再びこちらに向き直った彼が言葉を切ったのは、突然誰かに突き飛ばされた・・・・・・・・・・からだった。

 僕はその瞬間になってここへ立っていろと言われた理由を悟ったのだが、できれば事前に教えておいてほしかった! あとは体格差とか運動能力とかそういうのも考慮してくれるとたいへんありがたかったのだけれど、なんて思う暇もなく、そのときの僕はただ無我夢中で動いたのだった。

 思い切り突き飛ばされたウルフの体は、階段を大きく踏み外し、ほとんど宙に浮かんだ状態で落ちてきた。僕は咄嗟に前に出て、半ばタックルするような格好でそれを受け止めた。無論受け止めきれるわけがなく、彼もろともひっくり返る。僕は衝撃を覚悟して目を瞑っていたのだけれど、衝撃は予想よりもずっとずっと軽くて柔らかかった。


「ありがとうございます」


 先にショックから脱したウルフが姿勢を整えたらしかった。僕はその場にずるりとへたり込みながら目を開けた。坊主頭が「大丈夫か?」と覗き込んできたことから察するに、彼がさらに受け止めてくれたらしい。大丈夫、ありがとう、と答えた僕の声は情けなく掠れていた。


「さて、見えましたか?」


 何事もなかったかのようにウルフが言った。

 目撃者の片方、それと他の八人の内六人がガクガクと頷いた。口々に「確かに見えた」「赤い袖の奴……」「あれが幽霊か?」なんて言い出す。

 ウルフが試すようにルーサー刑事を見た。彼は何も言わずにそっぽを向いたが、頬が色を失って、唇がわずかに震えている。どうやら見た・・らしい。

 ぽかんとしているのはクームズを見た奴と坊主頭、それから僕の三人だけだ。


「幽霊の見える見えないには個人差があります。いわゆる“霊感”というやつの有無ですね。あとは角度です。真正面から突き落とされたなら、同じ直線上にいれば見えないでしょう」


と、ウルフ。もう彼にスポットライトは当たっていなかった。

 もしかしてこの人員配置は半分配慮を含んでいたのだろうか。僕が幽霊を見ないで済むように。代わりにひどく慌てる目を見たけれど。


「これで証明になりましたよね。アンドリューズがどうして落ちたのか」


 答えはなかったけれど、その沈黙はウルフの正しさを雄弁に語っていた。

 すべては彼が言ったとおりだった。誰も嘘はついていなかった。ただ黙っていただけ。エイト・ブリッジの秘密を知られたくなかった目撃者は口をつぐんでいて、霊感のないクームズには赤い袖が本当に見えなかったのだ。これで矛盾なく説明がつく。

 そしてこの結果はもう一つ大きな意味を持っている。――これらは同一人物による連続の事件ではなかった。アンドリューズの転落とホール教授の転落との間には、何の関係もなかったのだ!

 サマーヘイズ刑事がわざとらしく嘆息した。


「ふぅむ、報告書をどう始末したもんかな」

「幽霊の仕業なら事故でしょう」

「そういうことになるがね。いろいろと面倒なんだよ、役所の中ってのは。だが、まぁ、はっきりしたのは何よりだ。この目で見ちまったら、信じるほかねぇもんな。なぁ」


と、最後はルーサー刑事に向けた言葉だ。


「ありがとよ、坊ちゃん。おかげさまでちぃっとばかし見通しが良くなった」

「お役に立てたなら何よりです」


 サマーヘイズ刑事は金歯を見せて笑うと、「ほれ、行くぞ」とルーサー刑事の背を叩いて階段を下りていった。


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