12 初対面との再会を果たしに行こう

 翌日、彼は十時前にナメクジのような動きで起き上がった。


「あれ、早いね。おはよう」

「……おはようございます」


 大きなあくびを一つして、のろのろとベッドを下りる。


「調べ物は多い……ので、早いほうが……よいと思って……」

「そりゃそうだけどさ、大丈夫?」

「……朝飯を食べれば……」


 睡眠不足は食事で補えるってことか。便利な体だ。さすがの彼の胃袋も、朝一はそこまで活発ではないらしい。ビスケット一袋を(それでも充分に多いけど)牛乳で流し込むように食べて、「よし」と目をぱっちりさせた。


「もう出発する?」

「ええ」


 彼はいつもより数段ラフな、チェックのシャツにジーンズに安っぽい流行のブーツ、という格好に、いつも通り赤いコートを羽織った。

 それから別のダッフルコートを取り出した。


「そんなに寒い?」


 思わず聞くと、彼は神妙な顔つきでこちらを向いた。


「今からちょっとした魔法を使いますが、驚かないでくださいね」

「え」


 言ったが先か、彼はダッフルコートをくるりと丸めると、それを赤いコートの内側にひょいと放り込んだ・・・・・

 ウルフが赤いコートの端を掴んで、ばたばたと振ってみせる。ダッフルコートは落ちてこない。妙に膨らんでいるということもない。赤いコートの内側には何もない――。


「『収納』という基礎的な魔法です」


 僕は唾を飲み込んで、神秘的な黒さを持つ瞳から目をそらした。


「……ど、どういう原理なの……?」

「気になりますよね。私もそれを六年前からずっと考えているのですが、まだ分からないままなんです」

「え、分からないんだ……」

「『収納』するには必ず一度視界を遮る必要があるので、おそらく“見えない物は存在しない物である”という定義を無理矢理現実にしているのだろうと解釈していますが……一度、考えすぎたせいで使えなくなってしまった時期があるので、考察はいったん保留にしています」

「へぇ……」

「まぁ、ただの手品マジックのようなものだと思っていただければ」

「いや、君のは本物の魔法マジックじゃないか」


 僕は『ほんものの魔法使』の住人になった気分だった。なるほどこういう感じか、そりゃあ疑うし探るし怖がるし、必死に身を守ろうとするだろうよ、ってさ。

 でも。

 もう一度唾を飲んで、ブラックホールに向き直る。

 そんなのは科学者の態度じゃない。上辺だけを見て、無知蒙昧に怖がるなんて。測れないものを測れるようにせよ。受け入れるには違いを明確にしなくては。


「あのさ、もしよかったら、今度魔法について教えてくれない?」


 ブラックホールは意外そうに膨らんで、それから柔らかく微笑んだ。


「いいですよ。教えるのは下手ですが」

「そうなの? 上手そうなのに」

「人に合わせるのが苦手なもので」

「ああ、確かに」


 思わず納得してしまったら、ウルフに軽く睨まれた。“事実ではありますが、少しくらいフォローしてくれてもよいのでは”ってところかな? 僕は慌てて扉を開けた。


「ほら、行こう行こう。せっかく早起きしたんだからさ」


 ウルフは――そもそも曲げていなかったくせに――機嫌を直したようなふりをして、「そうですね」と頷いた。


 うっすらと曇った外に出て、しばらく歩いてから、ウルフはダッフルコートと赤いコートを取り替えた。それからポケットに詰め込んでいたニット帽を取り出して、高めに結び直した髪の毛をしまい込みながらかぶる。さらに眼鏡まで外してにっこり。


「初対面のふりをしようと思います。向こうは私に呪われたと思い込んでいるでしょうから」


 僕は膝を打った。そのためにわざわざ魔法まで使って、ダッフルコートを持ってきたのか。


「彼が私の顔を覚えていなければいいのですが……最悪、少々手荒な真似をすることも視野に入れておかなくてはなりませんね」


 そう言った彼はなんだか“手荒な真似”に慣れているように見えた。気のせいかな。首を傾げつつまじまじと彼を見て、


「それにしても、すごいね」

「何がです?」

「印象がまったく違うよ。まるで別人だ」

「よかった、狙い通りです。印象の操作は重要ですから」


 本当にまったく違う。これまでは赤いコートにすべての注意を集めさせられていたのだ、と初めて気が付いた。黒縁の眼鏡も顔立ちを隠すのに役立っていたらしい。こうやって見ると本当に端整な顔だ――エイブラハム・ウルフにそっくりの。

 再び病院に向かって歩き出して、三分くらい経ってから、ようやく僕は決意を固めた。


「ねぇ、ウルフ」

「何ですか」

「あのさ、二年前に殺された、俳優の――」

「ええ、そうです」


 その冷たい相槌に、僕の決意はあっさり砕け散った。ちらりと窺った横顔には色がない。真っ直ぐ前を向いているけれど、その目は何も見ていない。


「殺されたエイブラハム・ウルフは、私の父です。君の予想通りですよ。二〇〇八年の一月二十日から二十一日の間に、彼は魔法使いによって殺されました。当時の捜査では」

「ウルフ」


 壊れたような早口で話し出した彼を、僕は遮った。彼がパッと口を閉じて、それからこちらを一瞥する。気まずそうな目。


「教えてくれてありがとう。もういいよ」

「……言ったでしょう。教えるのは下手だと」


 そういう話とは違うような気がしたけれど、僕は「うん。よく分かった」と頷いた。彼にとって二年前のことが大きな、僕の貧困な想像など容易く絶するほど本当に大きな、ひどい傷になっていると分かったのだから、これ以上傷口に塩を塗るようなことはしたくなかった。まだ新鮮な傷口だ。あふれ出た血が生々しくにおい立つほどに。

 僕はわざと明るい声を出した。


「そういえば、眼鏡ってかけてなくて平気なの?」

「ええ、あれは伊達なので」

「そうだったんだ。なら平気だね」


 何で伊達眼鏡をかけているのかは、なんとなく予想がついたので聞かなかった。かけていないほうが似ているなと思ったのだから、その理由は明白だろう。

 赤くない彼はひどく寒そうに、けれどいつもよりずっと軽々しく歩いた。その理由を予想するには、ちょっと情報が足りなかった。


 病院に着くと、彼は適当な看護師さんを掴まえて、あっさりアンドリューズの病室を聞き出した。そりゃ、こんな美形に丁寧に尋ねられたら、病院の内情だって休日の過ごし方だって連絡先だって簡単に明かすだろうよ。聞かれたのがアンドリューズの病室の場所だけで、ちょっと残念そうに見えたくらいだ。

 アンドリューズは天井から足を吊った状態で、つまらなそうに窓の外を眺めていた。落ち着いた状態で顔を合わせるのが初めてだからか、初対面のような感覚がした。明るい茶髪に青い目、頬には薄くそばかすが散っている。写真よりずっとモテそうな顔だ。ちょうど手が届くところにいて、しかも調子よく気分よく誘ってくれそうな感じ。でも、あまりよい印象は持てなかった――第一印象を正確に述べるなら、株で一発当てて図に乗っている成金崩れみたいだな、ってところ。

 そんな彼を改めて見た瞬間の、僕が覚えた違和感をなんて言い表したらいいんだろう? どうしてかは分からないんだけど、何か、どこかに違和感を抱いたのだ。これはいったい?

 首を傾げる僕を無視して、ウルフはひょいと近付くと親しげに声をかけた。


「やあ、アンドリューズ」


 アンドリューズは驚いたようだった。初対面の奴が見舞いに来たと思ったんだろう。ちなみに僕も驚いていた。ウルフからいつもの堅苦しい話し方がすっかり消え去って、軽薄な女たらしの声音になっていたから。


「僕ら、お使いを頼まれて来たんだけど」

「お使い? 誰から、何の」


 不審げな反問。やっぱり怒鳴り声と普通の声では印象が違うね。友達にはなれなそうだな、って印象に変わりはないけれど。

 ウルフは丸椅子に勝手に座ると、軽薄な人間が最大限の努力をして出したような神妙な声で言った。


「ホール教授が亡くなった、って、もう聞いたか?」

「はぁ?!」


 アンドリューズは目を剥いた。彼は心底動揺しきっていて、足が折れているのも忘れたらしい。勢いよく身を乗り出して、痛みを思い出したのか、すぐにベッドにもたれかかる。


「おい、それ、マジで……マジで言ってんのか?」

「こんなことジョークで言う奴がいるかよ」

「嘘だろ……いつ、どうして?」

「昨日。いや、亡くなったのは一昨日かな。昨日の朝に遺体が見つかったらしいんだけど……なんでも、階段から落ちて亡くなったんだって」

「事故か?」


 その問いを奇妙だと思ったのは僕だけじゃなかったらしい。ウルフも戸惑ったような間を置いて「警察は、事故の可能性が高いって言ってたけど……」と歯切れ悪く言う。


「そうか……」


 アンドリューズのほうは気にした様子もない。それを見て、ウルフは一歩踏み込んだ。


「噂じゃ、魔法使いが呪ったんじゃないかって言われてるぜ。ほら、君に続いてさ」

「呪い? はっ、馬っ鹿だなー、そんなもん信じてんのかよお前」

「えっ」


 僕は思わず声を上げていた。それで初めて僕の存在に気が付いたみたいに、アンドリューズは眉を上げてこちらを向いた。


「だ、だって、君、先週僕らの寮に――」

「ああ、こいつヒューバート・カレッジの奴なんだけどさ」


 ウルフがさっとフォローを入れてくれた。はたと冷静になったのはそのおかげ。落ち着け、落ち着いて話すんだ。


「先週の土曜に僕の寮に来て『魔法使いに呪われた!』って騒いでたの、君だろう?」

「はぁ?」


 彼は思いっきり眉を歪めた。


「悪いのはお前の目か、それとも頭か? 幸いここは病院だ、早めに見てもらえよ。両方だったら救いようがないからな」

「えーと、それじゃあ……」

「先週の土曜、俺はどこにも行ってないぜ」


 僕とウルフは顔を見合わせた。信じられない。でも嘘をついているようには見えなかった。でも、それじゃあ、寮に来たあいつは、いったい全体誰だっていうんだろう?

 アンドリューズが深く溜め息をついて、吊り下げられた足を見た。


「ちぇ、最悪だ。本当に最悪だ。これじゃあ葬式にも行けるか分かんねぇじゃん……」


 どうやら彼はホール教授と親しかったらしい。そうすると、二つの事件に関連があってもおかしくないって感じがしてきた。


「君が落ちたときの話を聞いても?」

「何でだよ」


 反抗的なその態度をウルフはあっさり無視した。


「朝起きてから何してた?」

「何って……十一時ごろまで部屋ん中でごろごろしてて、なんか食いに行こうと思って寮を出ようとしたら、突然後ろから押されたんだよ。絶対にあれはジュールの仕業だ!」

「見えたの?」

「いや、見えはしなかったけど……」


と、彼は一瞬言いよどんだ。何か不利なことを思い出したかのように目線が宙を彷徨って、しかしすぐに戻ってくる。


「でも絶対にジュールだ。間違いない! あの野郎、レポートの紙を破ったとかパソコンを壊したとか、あれこれ難癖付けてきた挙げ句にこれかよ! クソッ!」


 大声を出して布団を殴ったアンドリューズに、落ち着け、とウルフが手のひらを下に向ける。そして入ってこようとした看護師さんに笑いかけた。

 彼女が去ったのを確認するや否や、アンドリューズは声を潜めて話を再開させた。


「なぁ、ホール教授のことも、事故の可能性が高い、って言ったよな。ってことは、低いけど事件の可能性もあるってことだろ?」

「まぁ、そう言えるのかもね。よく知らないけど」

「だったらそれもジュールがやったんだ。連続殺人事件だ! いや、俺は死んでないけど……殺すつもりだったかもしれないし、予行練習のつもりだったかも。あいつならやりかねない!」

「どうしてジュールが教授を殺すんだ?」

「あいつ、前の学期にホール教授の授業を落としかけて、危うく退学になるところだったんだ。それをずっとうじうじうじうじ恨みがましく言っててさ。自分が悪いくせに教授のせいにして。だから間違いない。あいつが教授を――」


 ふいにアンドリューズは言葉を切った。


「――なぁ、本当に亡くなったのか?」


 信じられない、という気持ちが目一杯詰め込まれた問いに、ウルフはふらっと目線を泳がせてからこくりと頷いた。あえて何も言わなかった、というより、本当に何も言えなかったように見えた。


「そっか……」

「君との関連があるなら、警察がここに来るかもな」

「絶対にジュールだ。あのチビ、絶対に許さねぇ」

「カッカすんのは怪我が治ってからにしたほうがいいぜ。治りが遅くなる」


 そう言いながら、ウルフは席を立った。


「じゃ、お大事に」

「おう」


 アンドリューズはどういうわけかすっかり気を許したような感じで、片手を上げてウルフを見送った。僕は病室を出た直後に、扉を閉めようと振り返って彼を見て、


「あっ!」

「どうしたんですか?」


 違和感の正体! 僕は慌てて駆け戻った。


「ねぇ、アンドリューズ。君って身長いくつ?」

「は? なんだよ急に」

「いいから」

五フィートと八インチ一七五センチくらいだけど……」

「ありがとう!」


 有無を言わさず部屋を飛び出る。廊下を走りたくなるのをぐっとこらえて、ウルフの顔を見上げた。


「ウルフ、証拠をもう一つ」

「何の証拠です?」

「僕らのところに来た奴がアンドリューズじゃないって証拠。もうだいたい確定してると思うけどさ」


 それはアンドリューズの態度からして明白だ。嘘をついているようには見えなかったし、何より彼は呪いを恐れていなかった。ホール教授とも結びつけなかった。

 そういう主観的な印象に加えて、客観的な事実を。


「僕の身長が五フィートと七インチ一七二センチ。で、僕、寮に怒鳴り込んできた奴とちょっと取っ組み合ったんだけど、そいつは僕よりも二インチくらい小さかったんだ。今確認してきたら、アンドリューズは僕よりも一インチ背が高かった。だからありえないんだ。僕らの寮に来たのは彼じゃない!」


 別の人間だったのだ。姿の印象は簡単に変えられる――目の前のこの男が証明して見せたように。髪の毛は染められるし、防水仕様の化粧品やカラーコンタクトだってあるのだから。アメリカ風の発音は練習次第でどうとでもなる。初対面の人をちょっと騙すぐらいなら、粗さは度胸で補えるだろう。


「……なるほど」


 新たな情報を飲み込んで、ブラックホールがきらりと輝いた。


「そういえば、彼はジュールのことを“チビ”と呼んでいましたね」


 次の行き先は決まった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る