6 運命が扉を叩いたら
翌日、十月の最初の土曜日は、朝から大雨だった。
十時をとっくに過ぎていたけれど、ウルフはまだ眠っていた。何もなければいつもこうだ。だいたい昼頃までは起きてこない。本当は平日だってそうしたいのだ、といつだったか言っていた。眠るのが好き、というよりは起きるのが嫌いらしい。
僕は彼を起こさないように出かけるのが通例なのだが、ここまでの土砂降りではその気も失せる。
(仕方ないな、課題――は行き詰まってるからやめておいて、と)
僕は図書館から借りてきた本を手に取った。
ポール・ギャリコの『
ギャリコといえば『トマシーナ』とか『ジェニィ』とかが有名だと思うけれど、これだって面白いのだ――たぶん。子どもの頃に一度読んで、それきりすっかり忘れていた物語なんだけど、この間ふとタイトルが目に入って、懐かしくなって借りてきたのだ。ウルフに「何かの皮肉ですか?」って言われそうだな、と思いながら(実際に言われた)。
物語は“本物の魔法使い”であるアダムが魔術師――正確には“手品師”たちの集まる大都市を訪ねるところから始まる。アダムは魔術師たちの
ベッドに寝転がって、ぺらぺらとページをめくっていく。雨の音も読書には素晴らしいBGMだ。
ヒロインをいじめる兄をアダムが魔法で容赦なく撃退して、僕が「よくやった!」と内心ガッツポーズをしていた、そのときだった。
ドンドンドンドンッ!
「おわっ」
突然思い切り扉を叩かれて、僕はびくりと飛び上がった。荒々しいノックは続いている。来訪者は扉をノックアウトしたいらしい。僕は慌てて起き上がって扉を開けた。
「なんだよ、人の部屋の扉をサンドバッグにしないで――」
「うるさい! 魔法使いを出せ!」
「は?」
扉の目の前にいたのは小柄な男だった。たぶんいくつか年上の学生だと思う。全身ずぶ濡れでひどく震えていた。丸っこい鼻の頭が真っ赤に腫れ上がっていて、その周りにそばかすが散っている。青い目はギンギンに血走っていた。
男は僕を睨み上げ、口の端から泡を飛ばしながら、アメリカ風の発音でまくし立てた。
「呪われたんだ! 魔法使いに呪われた! ここにいるだろ、分かってるんだからな! 今すぐそいつを出せ!」
「や、ちょ、ちょっと落ち着いて」
半ばパニック状態なのか、男は僕の話なんか一切聞かずに部屋へ押し入ってきた。そのままウルフの布団に手をかける。僕は咄嗟に彼を羽交い締めにした。
「ちょっと待って!」
「うるさい、放せ!」
「落ち着いて、話、を……っ!」
駄目だ、彼、すごい力だ。僕より頭半分――いや半分は言い過ぎだな。二インチくらい小さいのに。
「放せっ!」
「うわっ!」
僕はあっけなく振り払われ突き飛ばされ、尻餅をついた。その拍子にベッドの足に後頭部をぶつけ、床に転がる。目の前がじわりとにじんだ。
「おい、お前が魔法使いだろ! 起きろよ馬鹿!」
「んー……」ウルフの片手が布団から出てきて、ひらひらと揺れた(もう一方の手は布団をがっちりと掴んでいる)。「魔法使いならいくらでもいるだろ……他を当たってくれ……」
「寝ぼけてんなよくそっ! 俺を、俺を呪いやがって! お前のせいで死にかけたんだ、許さないからな! おいっ!」
男がついに布団を剥ぎ取って、それでようやくウルフは目を開けた(すごい胆力というか睡眠力というか)。状況を理解できていないらしい。寝ぼけてぼやけたブラックホールをぱちぱちさせながら、ゆっくりと起き上がる。
「……何事ですか?」
「よくも俺を呪ったな!」
「はぁ?」
首を傾げたウルフの胸ぐらを男が掴んだ。
「俺が何をやったって言うんだよ! それとも誰かに頼まれたのか、クソッ! お前のせいで不幸続きだ! 今すぐ呪いを解け!」
がくんがくんと揺さぶられるうちに、徐々に意識がはっきりしてきたらしい。ウルフはあからさまに眉をひそめ、男の腕を掴んだ。
「少し落ち着いて――」
「触るな!」
男は荒々しくウルフの手を振り払った(自分から掴みかかってたくせに)。がたがた、わざとらしいくらい震える足で、ずるずると後退り、ウルフに指を突きつける。
「とにかく! すぐに呪いを解かなかったら承知しないからな! これ以上何かあったら殺してやる! 覚えてろよ!」
と、それだけ一方的に吠え立てると、彼はどたどたと走り去ってしまった。
残されたのは沈黙と水たまり。それから、この騒動を覗いていたのだろう、他の部屋の扉の閉じる音がいくつか。
しばらくして、ウルフが大きな溜め息をつきながら立ち上がり、部屋の扉を閉めて振り返った。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。平気」
被害といえば後頭部にちょっとしたたんこぶができたことと、外に出てもいないのに服が濡れたことくらいだ。
「騒々しい人でしたね。誰だか知りませんが」
「呪われたって言ってたね」
「不幸な偶然が続いたんでしょう。それを何かのせいにしたくなる気持ちは分からなくもありません」
と言いながら、彼の目は壁から天井、天井から壁へとぐるりとめぐった。ちょっと苛立っているような感じだ。こんな言いがかりをつけられたら当然だけれど。
「まして身近に都合良く“魔法使い”なんて存在がいたら、はけ口にしたくなるのも理解できます」
たいへん迷惑ですが、と冷たく吐き捨てて、ウルフはクローゼットを開けた。さすがに、もう寝る気は失ったらしい。
「ひどい水たまりですね」
「ああ、モップでも借りてくるよ」
「よろしくお願いします」
着替え始めた彼を横目に、僕は部屋を出た。扉を閉める直前、彼が僕のほうをじっと見ていた。
廊下にも大きな水たまりができていた。それを大きく迂回して、
(ん? 何だろう、あれ)
水たまりに浮かぶ薄っぺらい長方形。拾って裏返してみると、今しがた見たばかりの男の顔が載っていた。
(IDカード、さっきの奴が落として行ったのか)
名前はマックス・アンドリューズ。
僕はちょっとだけ迷ったけど、結局それをポケットにしまい込んだ。せめてセント・ジェロームの先生に届けてやろう、と思ったのだ。嫌だけど、きっと困るだろうからね。なんなら自分で落としていったくせに「やっぱり呪いだ!」とかって言い出しかねないから。
一階の物置からモップとバケツを持ち出し、来た道を引き返す。
と、
「おい、ロドニー!」
「うわ、何?」
あっという間に同じ寮の連中に囲まれていた。
一番のお調子者のリトル――無遠慮なニキビ面、柳の枝みたいにひょろ長い体、締まりのない口元に似合わない流行の髪型――が、馴れ馴れしく肩を組んできて、ニヤニヤしながら言った。
「なぁ、さっきの奴、魔法使いに呪われたってマジ?」
「え?」
「まぁいつかやるとは思ってたけどさ。昨日だって犬としゃべってなかったか?」
リトルの言葉を皮切りに、周りからも次々に声が上がった。図書館の隅で一人でぶつぶつ話していた、中庭の木の陰でぼーっと突っ立ってた、深夜に寮を抜け出していくところを見た、云々……。どれもこれもが他愛もない、他愛ないだけに否定もしにくい、根も葉もあるんだかないんだか分からないうえにあってもなくてもさして問題にならなそうな話ばかりだった。普段は静かにしているけれど、やっぱりみんなウルフのことが気になっていたらしい。それもそうか。魔法使いなんてめったにお目にかかれる存在じゃないし、その実態は霧に包まれていて見通せない。向こうは隠したがるし、こちらは関わりたくない。実態なんて分からないのが当然だ。
リトルが訳知り顔で頷く。
「本当あいつって不気味だし、何考えてんのかさっぱり分かんない奴だよな。よく同室でいられるな、お前」
「人の考えが全部分かる奴がいたら、僕はそいつのほうが怖いね」
僕は無愛想になりすぎないよう細心の注意を払って、不快な輪の中から脱けだした。
そのときだった。階上から泡を食ったように駆け下りてきた一人が、僕の肩をひっつかんだ。
「おい、魔法使いが部屋の中でなんか騒いでるぞ!」
「えっ」
「行けよ、ほら、同室だろ?!」
ぐいぐいと背中を押されて仕方なく階段を上る。他の連中もぞろぞろと――隠しきれない好奇心を目にギラつかせながら、そのくせ足音は完璧に忍ばせて――僕の後をついてくる。なんだか連行されるような気分だ。なんだっけ、こんなシーンが『ほんものの魔法使』のどっかにあった気がする。否応なしに連れて行かれるのだ……怖い連中に囲まれて……。
まだ濡れたままの廊下が蛍光灯の光を反射している。そのすぐ横、扉がわずかに開いていて、そこからウルフの声が漏れ出てきていた。おかしいな、僕、扉はきちんと閉めてきたはずだったのに。
彼の声は小さく絞られていたけれど、滑舌と発声が良いから明瞭に聞き取れた。ひどく焦っている声色で、誰かを叱りつけているようだった。
「いい加減にしてください。あなた方にいられては困ります。すぐに帰ってください。――何を矛盾したことを。彼にひっついて雨の中わざわざここまで来たのでしょう。だったら帰ることだってできるはずです。今更
びくり。覚えず肩が震える。彼の言葉は、それは、僕がいたら都合が悪いような
急に僕は彼が
無責任な連中が僕の背を押す。Go, Go, Go! って。その拍子に水の上で足が滑って、モップとバケツが触れ合った。ガチャンと金属質の大きな音が鳴って、ウルフの声がぷつりと途切れる。瞬間、周りの連中が蜘蛛の子を散らすように自室へ引っ込んでいった。くそっ、他人事だと思って!
入れ違いにウルフが部屋から飛び出してきた。後ろ手に素早く扉を閉める動作は、まるで部屋にいる怪物を閉じ込めるかのように。
彼は伏し目がちになっていた。黒い瞳のほとんどがまぶたの向こう側に隠れて、すっかりしょげかえった顔になる。
「申し訳ありません。少しだけ、本当に少しだけで良いので外にいてもらえますか。本当に申し訳ないんですが」
「ああ、あぁうん、大丈夫だよ」
彼はいつもよりもだいぶ早口になっていた。僕は必死にいつも通りを心がける。――うまくいってなかったと思うけれど。
「先に、あのー……ええと、そう、廊下を拭いておくから」
「ありがとうございます。……こちらも、片付いたら声をかけますので」
「うん……」
彼は一瞬だけこちらを窺い見て、それからパッと、間違っても怪物が外に放たれないようにと気遣ったような素早さで、部屋に飛び込んでいった。一瞬だけ見えた室内に変なものは何もなかった。完全に閉まったドア越しには、もうわずかな声も聞こえてこない。
無表情なドアを見つめていたら、なんだか気持ち悪くなってきた。慌ててモップを握り、力任せに床をこする。
僕はさっき彼のことを『不気味だ』と言われて腹を立てた。そしてそれと同じ腹の中で、彼のことを『不気味だ』と思った。なんて矛盾だろう。割ってかき混ぜた卵が元の姿に戻るのを目の当たりにしたような気分だ。意味が分からない。理解できない。理解できないことが多すぎる。呪いのこと。魔法のこと。魔法使いのこと。それに世界のこと。
頭の裏が痺れてきた。腹の中がぐるぐると渦巻いている。びりびり、ぐるぐる。難しいことや恐ろしいことを考えるといつもこうなる。何億年後に地球が太陽に飲み込まれるとか。何百年後に海水面が数メートル上昇していくつかの島が沈むとか。何十年後に僕が死ぬこととか。
今この瞬間にも宇宙が拡大を続けていることとか。
モップでこするたび、水たまりに反射していた文明の光が消え去っていく。僕の大好きな文明の光が。そして訪れるのは底知れない暗闇だ。
彼の目によく似た、宇宙の漆黒。
僕はモップを放り出して寮を出た。
冷静さを取り戻したのは、土砂降りの中をしばらく走った後だった。頭の先から爪先まですっかり濡れネズミ。これ風邪引きそうだな、なんて後悔も後の祭り。けれど帰る気にはならなかった。ここまで濡れてしまえばもはやどうでも良い。肌に当たる強い雨粒だってかえって気持ちいいくらいだ。
とはいえ、せめて財布ぐらいは持ってきたかった。小銭とか入ってないかな、とダメ元でポケットをまさぐって、触り慣れていない感触にはたと思い出す。
(そうだ、エイト・ブリッジに行くか)
闖入者の落とし物。ああそうだ、彼はまさしく闖入者だった。僕らの平穏な領域に断りなく入り込んできた――僕ら? ちょっと待て、本当に僕
思い出してしまった。誰もいない部屋の中で、はっきりと話す彼の声を。そのときに感じた凍えるような感覚を。
(……僕はこれを、どういうつもりで届けに行くんだろう)
拾ったそのときは確かに、これ以上彼が汚名を着せられないように、と思ったのだ。けれど。
針のような雨が頬に突き刺さる。
僕は狂った犬のようにぶんぶんと頭を振った。
(いや、いったん考えるのはよそう)
今のところはただの善人として、落とし物を届けに行こう。そう決めて僕は踵を返した。
エイト・ブリッジはグランリッドの中で最も古い寮だ。大学創設以前からあるらしい。元々は修道士のための宿舎だったとかなんとか、そんな話を聞いたことがある。だから今でも男子寮で、女子は立ち入り禁止だって規則があるらしい。高い塀に囲まれた美しい長方形の三階建ては、雨に煙って荘厳さを増幅させている。ガーゴイルが守る雨樋から大量の雨水があふれ出ていた。
(あれ、片方壊れちゃってるんだ)
向かって左手側の雨樋にはガーゴイルがいなかった。台座だけが残っているから、落ちたか何かしたんだろう。可哀想に。
正面から中へ入る。と、外観の落ち着きに反して内部はやけにあわてふためいていた。これだけ人がいて、びしょ濡れで入ってきた僕を誰も見とがめないくらいに。救急車、救急車、という声が聞こえてくる。何があったんだ?
気になった僕は、興味深そうに(と同時に無関心に)事態を眺めていた学生に声をかけた。
「何かあったの?」
「階段から誰か落ちたらしい。けっこう重傷だって」
「へぇ」
そうこうしている内に救急車が到着して、あっという間に怪我人が搬送されていく。オブライエン先生がやや取り乱した様子で付き添っている。なんとなく成り行きを見守っていた僕は、思わず叫びそうになったのを咄嗟に押さえ込んだ。
救急隊員の隙間から一瞬だけ見えた怪我人、苦しげにまぶたを閉じているその顔は、つい数十分前に見たあの顔だった。
(マックス・アンドリューズ……?!)
呆然とする僕の脳裏に彼の声がよみがえる。
『呪われたんだ! 魔法使いに呪われた!』
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