5 幸運にはお菓子を
まさかマダムにまで知られているとは、と動揺したのは僕だけだ。まったく動じた様子を見せなかったことから、ウルフは予期していたらしい。ティムを撫でるのをやめて平常通りに答えた。
「魔法使いであることは犬に好かれる必要条件ではありません。誰であれ、仲良くなる方法を知っていれば仲良くなれるものですし、そうでなければうっかり嫌われることもあるでしょう」
「そう。じゃ、犬と仲良くなる魔法があるってわけじゃないのね」
「犬に限らず、およそ生きているものの心を好き勝手に操作する魔法は存在しません」
はっきりと断言しておいて、ウルフはその言葉の響きがあまりに堅すぎたと気が付いたように、ふと肩の力を抜いた。
「動物に好かれるための香水、というものはありますが、その手の香水はすべて、人間にとっては悪臭です」と、ふいに僕のほうを見る。「臭いますか?」
僕はちょっと辺りのにおいを嗅ぐふりをしてから、神妙な態度で言った。
「エールのにおいの香水かな? 独特だけれど、悪臭とは言えないね」
「君、私とグラスを間違えていますよ」
「おっと失礼、昨夜の飲みっぷりを思い出したら、君からエールのにおいがしてもおかしくないなって思っちゃって」
マダム・バルコニーがくすくすと笑った。
「仲良しね。良いことだわ」
ウルフは彼女のほうに向き直った。疑問に思っている、探るような目つきを隠しもしない。ブラックホールは一度気づくと驚くほど雄弁だ。
マダムは面白がるように目を細めた。
「そりゃあ知っているわよ、噂になってるもの。一般の大学に初めて魔法使いが入学した、それもグランリッドに。そしてその子は、いつも真っ赤なコートを着ている、って。ねぇ」
彼女がタイナー准教授に目線を向けると、彼は曖昧に微笑んで頷いた。
そうか、噂になるのは当然か。まして大学の教授陣と交流があるなら、知らないほうが不自然だった。
魔法使いが一般の大学に入ったのは史上初のことである、とは僕も知っていた。別に禁止されているわけではないらしいんだけどね。ちょっと調べたら、魔法使いには魔法使いのための大学があって、ほとんどがそちらに進むらしい。ウルフはわざわざその王道を外れたようなのだ。
「どうしてグランリッドに?」
マダムのシンプルな問いかけに、ウルフはちょっと目線を落とした。そしてたっぷり二秒後に口を開き――すぐに閉じたのは、
「おーいタイナー准教授!」
野太い声が通りの下のほうから響いたからだった。
「おや、オブライエン先生」
とタイナー准教授。
どたどたと駆け寄ってきたのは、熊のようながたいの男性だった。タイナー准教授より一回りは若そう。角張った顔に短く刈り込まれた髪。半袖のポロシャツ一枚で、たくましい腕をさらしている。ぎょろりとした目が興味深そうに、あるいは値踏みするように僕らを眺めた。どうやらタイナー准教授の同僚、すなわち哲学部の先生らしいけれど、とてもじゃないがそうとは見えない体格をしている。柔道の選手だと紹介されたらまったく疑わずに受け入れるだろう。
彼は見た目と正反対の繊細な仕草で一礼した。
「これはマダム・バルコニー。こんにちは、ご機嫌麗しゅう」
「こんにちは、ミスター・オブライエン。なんだか今日は千客万来だわ」
「賑やかなのは良きことです。活発な議論が期待できる。よろしければお話に交ぜていただいても?」
「それは構わないけれど、あなた、タイナー准教授に用があっていらしたのではなくって?」
「おう、そうだった!」
オブライエン先生は手を叩いて、タイナー准教授に向き直った。
「ホール教授がえらい剣幕で探してましたぜ。大方、来週の学会のことだろうけど」
タイナー准教授は一瞬だけ眉間にしわを寄せて、テーブルの上で指を組み合わせた。「なんでしょう。何か問題でもあったんですかね」と呟くように言いながら席を立つ。立ち上がったときに初めて気が付いたけれど、タイナー准教授のほうが熊よりも背が高かった。意外だ。それでも横幅が倍近く違う分、タイナー准教授のほうがやや小さく見えてしまうから人間の目は不思議である。
「そういうことなら、私は失礼させてもらいます。それではマダム、またいずれ」
「ええ、今日はありがとう」
彼は(やっぱり何かを失敗したようなぎこちない笑顔で)マダムにゆっくり会釈を返すと、くるりと背を向けた。
入れ違いに席に座ったオブライエン先生が、
「やぁやぁ魔法使いくん。俺は一度腰を据えて君と話してみたかったんだ」
と快活に言った。どうやら歓迎されているらしいけれど、この距離感の詰め方はなんとも独特だ。少なくとも僕の好むところではない。ウルフもたぶんそうだったのだろう。やや警戒したような表情でグラスを持ち上げながら、神妙な声音になった。
「意見をお許しいただけるなら、先生、腰を据えるにはやや不向きな場だと思いますが」
「おや、ふむ、そうかもしれないな。それじゃあ俺の話したいことはまた今度にしよう」
驚くほど切り替えが早い人だ。急カーブをトップスピードで曲がられた気分になって、僕は持ち上げたグラスをそのまま下ろした。
「マダム、何かいい話題はありますかね」
「あなたってばいつもそうね。話すことっていうのは作り出すものじゃなくて、自然と出てくるものよ」
「こいつは失礼。俺はいつも逸ってしまうな」
太い眉をぎゅっと曲げて、オブライエン先生は頭を搔いた。
それを軽く笑ってから、マダム・バルコニーが透明な視線をウルフに向ける。
「さっきの話の続きをしてもいいかしら。あなたがどうしてグランリッドに来たのか」
ウルフはうやむやにならなかったことを残念がるように、グラスについた水滴を指でなぞってから、ようやく答えた。
「魔法のことは
僕は彼の言葉になんとなく違和感を覚える。嘘ではないけれど本当でもないんだろうな、と直感するには充分すぎるくらい、彼の口調は歯切れが悪かった。
マダム・バルコニーですらそうと感じ取ったらしい。苦笑気味に頷いて、けれどそれ以上の追及はしなかった。
「へぇ、物理と魔法には関連があるのか」とオブライエン先生。「なんだか正反対のもののように思えるけどな。無論一般的なイメージではという意味だけれど」
「魔法も地球上に起きる現象の一つです。雷や雨や、モーターやコンロや、そういうものと同じですから」
「物理法則を超えることはできないってことかね?」
「できないとは言いませんが、超えるならばなおさら、物理のことを知らなくてはならないでしょう?」
「つまり君は魔法を極めるために物理を学びに来たということなのか」
合点がいったとばかりの態度を見せるオブライエン先生と対照的に、ウルフは喉に何かを詰まらせたような間を開けた。
「いえ、そういうわけではないのですが……」
「そういうわけじゃない? おかしな話だな、関連があるから来たんだろう?」
ウルフが黙り込んだのと反比例して、先生の口は動き回った。熊のような先生は熊のように、強きが弱きを捕食するのは当たり前だといった調子で続ける。
「関連性を重視して来たのならその学びは関連させなくてはいけない、つまり魔法に還元するべくして来たということにならないのか? それを否定するなら矛盾が発生するな。これはいったいどういうことなんだろう?」
「それは……」
言葉を飲み込んだ拍子に、ウルフの顎にぐっと力が入ったのが見て取れた。ブラックホールはテーブル上のある一点を凝視している。まずい、これは良くない。
「あっ!
突然声を張り上げた僕に、ウルフはびくりと肩を揺らした。
「あっ、あー……すみません、お話を遮ってしまって……」自ら注目を集めておきながら耐えきれず、僕の声は想定していた演技内容よりずっと尻すぼみになっていった。「……レポートの締め切りが、昨日だったような気がして……昨日だったっけ?」
尋ねながら恐る恐る窺うと、ウルフは呆れを滲ませた目でこちらを見ていた。
「君しか取っていない授業のものだったら分かりませんが、共通の授業で課されているレポートの内、直近の締め切りは来週の金曜日ですよ」
「え、そうだった?」
これは演技でなく本気だ。
「間違いありませんよ。十三日の金曜日だなと思ったので」
「十三日の金曜日」とマダム・バルコニーが呟いた。「ホール教授の
「いや、そいつは無理でしょう。長年の習慣として染みついちまってるでしょうからね。しかしそうか、来週がそうだったか……」
オブライエン先生は何やら考え込むように空を仰いで、それからふと僕を見るとにやりとした。
「上手い
「美味しいファッジを食べたんですか? いいなぁ、どこのやつです?」
正直なところ、あの練乳と砂糖を固めただけのお菓子、僕はあんまり好んでいなかったんだけれど。義母お手製のやつがとてつもなくまずくてね、そのせいだ。
先生は肩をすくめて「ファッジ・キッチンに行くといい。とりあえず外れはないからな」と面白がるように言った。
「ねぇ、アンブローズ・カレッジってどんなところなの?」
と、マダムは興味津々だ。
「普通のパブリック・スクールに“魔法”の教科を追加していただければ、それでおおよそのところは合いますね」ウルフは話題がそれたことに安心したような、拍子抜けしたような、そんな調子で答えた。「名目上は一流のパブリック・スクールと同等の教育をする、ということになっています」
「実際は違ったの?」
「もしかすると違ったかもしれません。私はイーラウ校にもハイドン校にも行ったことがないので」
「ハイドン校といえば、ミスター・タイナーはそこの卒業生だったわね」
「ああ、そうですね」オブライエン先生がにっかりと頷いた。「彼は生まれたときからエリート街道をひた走ってきたお人だから。ああ見えてアウトドア派ですし。俺なんぞとはいろいろ正反対」
「あら、クライツ・ホスピタルだって名門校でしょ」
「いえいえ、マダムはご存じでしょうが、俺は成り上がった人間なんでね。上等なもんじゃあないんですよ。ところで、君は言葉が北のほうのものだな」
「はい。ダーリントンのクイーンエリザベス
「へぇ、優秀じゃないか」
「お情けでいただいた及第点が山ほどありますけどね」
と、話は卒業した学校のことになり、出身地のことになり、天気のことになった。
グラスの中身がなくなったタイミングで、ウルフが上手に辞去の礼をとった。
「気が付かないうちにずいぶん長居をしてしまいました。上等なエールとサンドイッチをありがとうございました、マダム」
「いいのよ、ティムを連れてきてくれたお礼だもの。またお話ししましょうね、お若い紳士さん方」
「はい、ぜひ」
「喜んで」
僕らはそろって席を立った。ウルフの足下に寝そべっていたティムが機敏に起き上がって、一度ウルフを見上げてから、自分の主人にぴったりと寄り添った。
「良い友達に会えて良かったわね、本物の魔法使いさん」
「ええ、幸運でした」
そう即答したときの彼の微笑を、僕は誇らしい気持ちで受け止めた。別に何か特別なことをしたわけではないけれど、人に好かれて悪い気はしない。
おやつの時間になったキャンデラ・ストリートを下っていく。うっすらと曇り始めた空模様に合わせてか、ウルフは口数を少なくしていた。原因はなんとなく予想がついている。
「食堂、行くだろ?」
そう言うと、彼はちょっとだけ恥ずかしげに僕を一瞥した。
「君は来なくてもいいんですよ」
「いや、付き合うよ。どうせ暇だし、それに僕も、チープな
「腹を満たすにはあまりにも
「ははっ、違いない」
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