4 犬にはワルツを
今日も僕らは連れ立って北の食堂に向かっていた。すっきりとした秋晴れが広がる気持ちのよいお昼時。これだけ天気がよいとカレッジの気味の悪さも薄らいで、芝生を突っ切るのも爽快だ。お供は好きなミステリーの話。
「クリスティーは昔よく読んだよ。有名どころだけだけど。一時期ハマったことがあるんだ」
「私も昔、一通り読みました。けれどどうしてもポアロのことだけは好きになれませんでしたね」
「ああ、そんな感じする。ポアロと君は絶対に友達になれないだろうね」
「そう思います。どうにも波長が合わない感じがするので」
ポアロとウルフは、一目見た瞬間からお互いを敵視しそうだ。そう思って僕は内心でちょっと笑った。
「なぜでしょうね。ミス・マープルは好きなんですが。ホームズとかファイロ・ヴァンスとなら、それなりに話せそうな気もしますし」
「人には相性ってもんがあるからね」と言いながら、僕はふいに昔見た映画のことを思い出した。「僕はドルリー・レーンが一番好きだな。映画版の『Xの悲劇』が最高に面白くってさ。ほら、エイブラハム・ウルフがやった」
それを口に出したときに初めて、僕は彼の姓があの名俳優と同じであることに気が付いて、なんだかはっとしたような気分になっていた。別に姓がかぶることなんて珍しくもないのに。
僕が奇妙な感覚に心を揺らしているのを慮ったかのように、ウルフは奇妙な間を開けてから答えた。
「それ、私たちの世代からすると、少々古い作品では?」
「そうだね。でも名作だし。見たことある?」
「ええ、まぁ」
ずいぶんと前に、とウルフは小さな声で付け足した。それから急に僕のほうを振り向いて、
「古い名作も見るんですね。それなら『ローマの休日』とか『モダン・タイムス』も見ましたか?」
「いや、それはちょっと古すぎない? さすがに見てないよ」
「『ローマの休日』はいい映画ですよ。見るべきです」
「マジで?」
「ええ。後悔はしないと――おっと」
「うわっ」
僕らが驚きの声を上げて立ち止まったのは、ちょうどカレッジの北側に出た瞬間だった。原因は犬。どこからともなく、ものすごい勢いで走ってきたゴールデンレトリバーが、彼に思い切り飛びついたからだった。(それでもちょっとよろめいただけだったから、ウルフの体幹はすさまじい。)
その犬はひどく興奮していて、しきりにウルフの周りを跳びはねては吠え、うなり声を上げてはコートの裾に噛みつこうとした。おそらく真っ赤なコートに反応しているのだろう、なんて冷静に考えたのは後になってからのこと。そのときの僕といったら驚きと戸惑いに支配されて、マネキンの真似をすることしかできていなかった。
一方のウルフは慌てた様子もおびえた様子もなく、なめらかな動作でしゃがみ込んだ。
「落ち着いてください。何があったのか分かりませんが、落ち着いて。ここにあなたを脅かすものはありませんよ」
まるで人間に言い聞かせるみたいな真摯な口調だった。落ち着いて、と繰り返しながら、牙をむく犬に向かって下のほうからそうっと手を差し伸べる。
犬は強い警戒心をあらわに、近付いてくるウルフの手のひらを睨んでいた。息詰まる二秒――噛まれるんじゃないだろうか――犬が口を開いて――舌がぺろりと彼の手をなめた。縮こまっていた尻尾が機嫌良く左右に揺れ出す。
僕はほうと息を吐いた。
「よしよし、いい子ですね」
「驚いた。大丈夫?」
「ええ、見ての通り」
ウルフは犬の首筋を撫でながら、僕を見上げてにっこりとした。どうやら彼は犬が好きで、同時に好かれやすいタイプらしい。すっかり警戒を解いた犬が顔をなめようとしたので、彼はちょっと慌てた感じで立ち上がった。
「さて、この子はいったいどこから来たのでしょうね。放っておくのは気が引けます」
「どっちから来たのかちゃんと見ておけばよかったな」
かなり毛並みのいいゴールデンレトリバーだから、きっと金持ちの飼い犬だろう。おとなしく座ってウルフを見上げている物分かりの良さからしても、きちんとしつけられていることがよく分かる。
「あれ?」
よくよく見ていたら、綺麗な毛並みの一部分、腰の辺りがわずかに濡れて色を変えていた。
「なんかそこだけ濡れてるね」
「本当だ。最近、雨って降りましたっけ?」
「いや」
「この周辺に池や何かは?」
「あったとして、その一部分だけを濡らすのはずいぶんと器用が過ぎるんじゃない?」
「ですよね」
その辺りにちょいと触れたウルフの指先が、何かをつまむようにしながら戻ってきた。
「ガラスの破片だ。それに――」鼻先に指を近づけて「――
「エール?」
「ええ、それもかなり上等な……」
ふいにウルフは考え込むように押し黙った。何か思うところがあったらしい。約五秒後に再起動したとき、彼はその黒い瞳を楽しげに輝かせていた。
「おそらく“フットライト”ではないでしょうか」
「坂の上のパブの?」
「ええ」
ウルフは頷くと、自分の太ももを叩いた。
「さ、ついておいで」
それが犬に対する合図であったことは百も承知で、僕はウルフの後についていった。
「ただの予想ですけどね」
と言いながら、ウルフは迷うことなく北東に進んでいく。
このキャンデラ・ストリートはふんわりとしたカーブを描いた閑静な通りだ。そんなに広くなくて、車より歩きや自転車の人のほうが多い。坂道だけど、目測でおおよそ二度にもならないくらいのごく緩い傾斜だしね。道に面してときどきカフェやパブがあって、そのうちのいくつかは僕らも入ったことがあった。価格帯がちょっと上過ぎるから、ごく稀なことだけれど。このまま五分ほど進んでいくと幹線道路に出て、そこを横切ると
幹線道路に出る角でウルフは立ち止まった。しつけの行き届いた犬が尻尾を振ったまま、その足下にきちんと座る。
ザ・フットライトはかなり古くからこの場所にあるパブだった。僕らが行くには敷居が高いから、前を通ったことしかないけれど。外の席にはいつも、裕福そうな人たちが犬を連れて座っている。今日は珍しく誰もいなかった。
「どうしてここだって?」
「毛皮についていたガラスの破片と、上等な
ウルフの視線を追ってよく見ると、なるほど確かに、レンガで舗装された地面と年代物のテーブルの脚との間にはわずかな隙間があった。
「そこに、最近の補修工事ブームです」
と、視線をすぐ脇の幹線道路のほうへ。ちょうどワゴン車が通り抜けていって、それだけでもかすかにカタカタと音が鳴るのが聞こえた。一般車両でもこれだけ揺れるのだ、大型トラックによる振動は相当のものだろう。
「大型車両が通ったときの振動で、テーブルの上に置かれていた瓶かグラスが――何かの都合で飼い主が傍を離れていたのでしょう。落ちて下にいた彼に当たったか、当たらなくてもすぐ近くで割れてしまった。で、パニックになって走り出したのではないか、と思ったので」
「なるほど」
僕はすっかり納得して頷いた。
「君とポアロの気が合わないわけだよ。灰色の脳細胞はこの世にひとつで充分だもんな」
「それは褒めすぎですよ。私の話は推理ではなく、無理のある“仮定”です。“仮にこうだったとしたら”を複数、証明しないまま積み重ねただけですから」
それを推理と呼ぶんじゃないのか、と思ったけれど黙っていた。彼の頑なさに挑んでまで反論する必要などない主張だったからね。
「たとえ間違っていたとしても、この毛並みの良さです。ここへ来るような方に尋ねればいずれ飼い主に行き着くだろうと思って、とりあえず来てみたのですが――」
「ティム!」
その呼び声に「ワン!」と一鳴きして、犬が急に走り出した。
「証明されたね」
「そのようですね」
幹線道路を西のほうから下ってきた女性は、ティムを抱きしめてひとしきり撫でてから、僕らに向けて微笑んだ。短くてふわふわとした白い髪と淡い緑の瞳が、濃紺のストールと驚くほどマッチしていた。五十代くらいかな、でももうちょっと若く見える。細身で上品な(そしてとびきり気の強そうな)奥様だ。
「よかったわ、この子ったら急にいなくなっちゃって。どっかで轢かれてやしないかと心配してたのよ」
そう言ったが早いか彼女はパブの中に顔を突っ込んで「ジミー! ジミー、このお若い紳士さん方に軽い食事と、それからご自慢のエールをあげてやって!」と一方的に告げると「ほら、おかけになって」とまるで自分の家のように僕らへ椅子を勧めた。
どんなに頑固な牡蠣でもカリスマシェフのナイフ捌きには口を開く。そういう感じ。ウルフはちらりと僕のほうを向いて、一瞬脱走を企てるような顔になったけれど、すぐに調理されるのを覚悟したらしい。礼儀正しく「ありがとうございます」と言いながら椅子にかけた。
彼女は自分のことをマダム・バルコニーと称した。バルコニーとかテラスとか、そういう屋内にある屋外が大好きで、それらがあると必ず隅々までチェックし、ギリギリまで居座ることからそう呼ばれるようになったという。
「でも気に入ってるのよ、マダム・バルコニー」と彼女は微笑んだ。「オペラなんかに出てきそうで素敵じゃない? ねぇ、そうでしょうジミー」
ちょうど食事を運んできたために唐突に同意を求められた店員は、慣れた様子で「ええ、まったくですマダム・バルコニー。ティムがご無事でよかった。さっき割れてしまった分はサービスにしておきますね。では、どうぞごゆっくり」と引っ込んでいった。
「さ、お食べになって」
ウルフは遠慮がちにサンドイッチをつまんだ。大食漢の彼には明らかに足りない量、それをゆっくり食べることで紛らわすことにしたらしい。
「あなたがたグランリッドの学生さんでしょう。違う?」
「そうです」
「
「ええ、
「そう、残念だわ。セント・ジェロームだったら何人か親しくしてくださる先生方がいらっしゃったのに。ホール教授とか、ご存じ?」
ご存じだとも。いつかすれ違った反魔法使い派の教授だ。僕はちょっと気まずくなったのを隠すようにサンドイッチをかじった。
何も感じていないような様子でウルフが頷く。
「ストア哲学をご専門にされている方ですね。論文を拝見したことがあります」
「ああ、そうね、そんな感じ。私にはよく分からないのだけどね、専門的なことは。彼とは絵画の趣味が合うのよ」
「マネですか」
「あら、よく分かったわね」
「『バルコニー』が有名なので、もしかしたらと思いまして」
「そう! あれ大好きなの。カイユボットも素敵よ」
「ああ、そういえば、同じバルコニーを何度も描いていましたね」
「彼の作品なら、紳士が犬と散歩しているものも好きなんだけれど。やっぱりバルコニーが素晴らしいわ」
ウルフがにこやかに頷く。僕はできるだけ存在感を薄めてじっとしていた。マネはさすがに分かるけれど、カイユボットって誰だ?(あとから聞いたら、近代フランスの画家だってことだった。)
「今もちょうどそちらの准教授さんとお会いしたのだけれどね、戻ってくるかしら。ティムを探しに行ってくださったんだけど――ああ、いらしたわ」
マダムが軽く手を振った。
小走りでやってきたのは、眼鏡をかけたやや面長の男性だった。四十代くらいかな。穏やかで優しそう。白目の部分のほうが広くて、その中で薄茶色の瞳が小刻みに揺れているように見えた。なんていうか、勉強に漬けられた白いアスパラガスのピクルス、っていう感じ。ジャケットにもワイシャツにもしわ一つ無く、髪はぴしりとなでつけられていて、広い額をさらしている。
僕は彼に見覚えがあった。この間、食堂でホール教授の隣にいた人だ。
彼は分厚い眼鏡の向こうの細い目をさらに細めて、不器用に微笑んだ。
「ああ、見つかったんですね。良かった」
「ありがとう、ミスター・タイナー。あなたもおかけになって。手を煩わせて悪かったわね」
「どうかお気になさらず。ティムがご無事で何よりでした」
「ずいぶんと走らせてしまったのではなくって?」
「軽いジョギング程度でしたよ」
「それなら良かったわ」とマダムは軽く笑って、僕らのほうを目で示した。「カレッジは違うけれど、あなたのところの学生さんたちよ。彼らがティムを連れてきてくれたの。ご存じかしら」
「ええ」
タイナー准教授は控えめに笑って僕らに会釈した。
「話すのは初めてですがね。グランリッドの学生であることは知っていますよ」
知っているのはウルフのことだけだろう。彼はウルフに向けて、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「この間はすまなかったね。聞こえていただろう?」
その話を蒸し返すのか、と僕は内心で目を剥いた。ウルフにとって愉快な話でないことは明白だし、マダムからすれば何のことか分からないだろうに。
「ホール教授は決して悪い方ではないんだが、とても保守的でね。私は君のことを歓迎しているよ。新しい風が入ってくるのはいつだって良いことだ」
「ありがとうございます」
ウルフは形式的に微笑んで、話を断ち切るようにひょいとかがんだ。その足下にいつの間にか寄ってきていたティムが、何かを訴えかけるようにウルフを見上げていた。ウルフが彼の頭を軽く撫でてやると、彼は満足げに目を細める。マダム・バルコニーが薄いまぶたをぱちぱちさせた。
「あら、珍しいこともあるのね、ティムがそんなに懐くなんて。かなり人見知りする子なのよ。今日がこんなにいいお天気なのはそのせいかしら」
「まったく無関係とは言えなさそうですね」
丸く縮まっていたティムの尻尾が、まるで賛同するかのようにパタパタと石畳を叩き始める。
ウルフがティムの顎下を撫でるのを微笑ましそうに眺めながら、マダム・バルコニーはゆったりと頬杖をついた。
「あなたがティムに好かれているのは、あなたが魔法使いだから?」
僕はぱっと顔を上げた。
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