3 息を合わせて
恐れていた怪奇現象もなく一ヶ月が経って、僕はようやく大学での空気の吸い方を覚えた。たぶんウルフのおかげでね。面と向かって助けてくれたわけではないけれど。
彼はあらかじめ大学での呼吸法や話し方を身につけていたかのように、安定したリズムで日々を過ごしていた。そうしながら時々――僕が浅瀬に浮かんでのんびりしすぎているときや、息継ぎをすっかり忘れて酸欠状態になっているときに――僕のほうを向いて、
「さっきの授業のこの部分、少し話し合いませんか?」
とか、
「課題の提出方法を知っていますか?」
とか、ごく簡単な、それでいて重要なことを聞いてくるのだった。まるで計ったかのようなちょうどよいタイミングで。本当に計っていたわけではないだろう。彼は日頃から他人の呼吸を計るような気遣い屋ではなかったから――けなしているわけではない。ただ事実を言っているだけだ。
このちょっと特殊なルームメイト、アーチボルト・ウルフのことも、だんだんと分かってきた。
思っていたほど特殊じゃなさそう、ってことも。
ウルフは常に紳士的で、そして驚くほど頑固だった。パブや映画に誘っても、彼が「すみませんが」と言ったらその意見は絶対に覆らなかった。初対面のときの距離のある話し方は一ヶ月が経過した今でも一切崩れていない。けれど、嫌いな奴を相手にそうするときのような刺々しさは感じられないから、彼なりに僕を許容してくれているようだった。
アホみたいな会話にもけっこう楽しげに参加してくれるしね。女の子の好みとか、つまらなかったスタンダップコメディの話とか、昨日見た夢のこととか。
「昨日さ、理想のお姉さんに膝枕してもらう夢を見たんだ。もう一回見たいなぁ」
「同じ夢を見るのに賭けるより現実での再現を目指したほうが確実では?」
「そう言えるのは君だけだよ」
「ありがとうございます」
「性格は僕のほうがいいと思うけどね」
「その点は反論できませんが、性格を知ってもらうきっかけがないとどうしようもないのでは?」
「ちぇっ、その通りだよ!」
趣味は読書。部屋にいれば本を読んでいるし、部屋にいなければ図書館に入り浸っている。その集中力たるや恐ろしいまでで、寮の中で大喧嘩が発生していても、窓の外を大型の工事車両が何十台と通過しても、平気でページをめくり続けていた。時には自分の携帯電話が鳴っているのだって無視するぐらいだ。
彼の領域にある本棚はいつの間にやら満タンになっていて、収まりきらなかった、あるいは今まさに読んでいる最中の本が二、三冊、常にデスクの上か枕元に積まれていた。
どんな本を好むのかはよく分からない。一度、興味本位で彼の本棚を眺めてみたことがあるんだけれど――『世界毒草百科図鑑』『恋に落ちたら』『蓋然性の哲学的考察』『箒・伝染病・石』『ミセス・スコットの幸せレシピ』『レッド・バロン――撃墜王最後の日』『僧正殺人事件』『ハウィルおよびアンブローズの功績』『精神分析入門』『怪盗パンクの愉快な仕事~ピンクのミンクとパンクのピンチ~』『ピアノ音楽の巨匠たち』etc. etc.――と、こんな調子。どういう基準で読む本を決めているのか、とてもじゃないが理解できないラインナップだった。九割方は英語だったけれど、あとはフランス語とドイツ語、ラテン語、それと僕には読めない謎の文字の背表紙が一冊だけあった。
あるとき好奇心に負けて、
「君ってどんな本が好きなの?」
と聞いてみたら、
「面白ければどんなものでも」
と素っ気なく返された。筋金入りの活字中毒者、ってわけらしい。ちなみにそのときに読んでいたのは新聞で
「五月にパリ近代美術館に侵入した“クモ男”と呼ばれる絵画窃盗のプロ、まだ捕まっていないらしいですよ」
と楽しげに教えてくれた。三百六十度、全方位をカバーするすさまじい好奇心。
好きな食べ物はミートパイとチョコレートバー(たぶんね。食べているところをよく見るってだけだ)。胃袋に穴が空いてるんじゃないかって思うくらいの大食漢で、初めて一緒に食事をしたときはかなり驚いた。
酒はザルで、放っておいたらいつまでも飲んでいる。ただし後に響くタイプで、飲み過ぎると翌日の機嫌が最悪になるんだけどね。一度は寮にウイスキーのボトルを持ち込んで(寮則違反だから、口止め料に何杯かもらったけれど)、次の朝までに一人で空にしていたこともあった。
弱点と言えば朝だろうか。何かの都合で早起きしたときなんか、ひどい仏頂面で一言もしゃべらずに出ていったりする。
とはいえ、夜に強いってわけでもないらしくて、健康的な時間にさっさと就寝する。
噂ではボクシングクラブに入っていると聞いたけれど、詳しくは知らない。
そして――これが一番特徴的なんだけど――いつも欠かさずあの真っ赤なコートを着ていた。それ以外は紺とか黒とかの、トラッド系でおとなしい服装を好んでいるようなのに、コートだけはなぜか人目を惹く深紅のナポレオンコート。一年間着続けられるかどうかで誰かと賭けをしているのかもしれない。それなら意地になるのも理解できるけれど、それ以外の理由は思いつかなかった。
そういうわけだから、学内でもあっという間に彼の存在は認知された。もちろん『あいつが魔法使いらしい』という噂付きで。
でも彼はまったく気にしていなかった。遠くから奇異の目を向けられても、真正面から絡まれても、彼の体幹は一ミリだってぶれなかった。それはちょっぴり、非人間的に思えたくらい。
特にそう思ったのは一週間前のことだ。
九月の最後の金曜日だったから、二十九日かな。食堂で哲学部の教授たちと行き会ったのだ。六十代も後半くらいの教授は、あからさまに嫌がる素振りで僕らを大きく迂回しながら、ウルフを横目に睨んでいた。そして隣にいた男性に向かって吐き捨てるように言ったのが、かすかに僕らの耳に届いた。
「
聞こえた瞬間、僕の心がずんと重くなった。異端者。魔法使いをそう呼ぶことがあるとは、いくら歴史に疎い僕でも知っている。教授の世代なら特にね。それは理解していた。けれど。
僕は恐る恐る隣を窺った。ウルフがどんな顔をしているか、知りたいようで知りたくなかった。もし、あのブラックホールの瞳が教授を飲み込もうとしていたら、僕はいったいどうすればいいんだろう?
ところが彼は、僕の予想を華麗に裏切って、
「今日の食堂は空いていますね。ラッキーでした」
と、平然と微笑んでいたのだった。教授の声はけっこう大きかったし、ウルフはパブの喧噪の中で僕が知らぬ間に落としていたコインの音すら聞き取るような奴だ。あの言葉が聞こえていないはずはないのに。
「え、あの……ウルフ?」
「何ですか」
「聞こえてなかったの? あの、今の、教授の……」
彼はきょとんとした様子でまぶたを二、三度開閉してから、
「ああ、ホール教授のことですか」
「今の人、ホール教授っていうんだ」
「ストア哲学研究の権威ですよ。グランリッドの学生なら知っておくべきです」
「……今度、教授の著書の中で一番読みやすいやつを教えてくれる?」
「分かりました。お安いご用です」
ウルフは気さくに請け負って、それからちょっとだけ目線を下げて、ようやく最初の問いに答えた。
「聞こえていましたよ、はっきりと。ですがあの程度のことはすべて承知の上でここにいますから」
ほんのわずかだけど寂しそうに見えた。目の錯覚かと思うくらいごくわずかに。
僕はちょっとだけ迷って、結局尋ねた。
「聞いていいかどうか分からないんだけど……どうしてあんな風に呼ばれるの?」
「“異端者”ですか」
僕が避けた言葉を彼はあっさりと言ってのけた。
「十九世紀末に一部の魔法使いによる騒乱――今で言うテロ行為に近い事件があったことは知っていますか」
曖昧に頷く。あったことは知っているよ、詳細は知らないけれど。って心の中で言っていたのを見透かしたように、ウルフは「詳しいことは知らなくて構いません」と続けた。
「その事件では一般人も何名か犠牲になったのですが、犯人の魔法使いたちは魔法法によって裁かれました。これがきっかけで、今もまだ残っている大きな問題が表面化したんです」
「大きな問題?」
「はい。英国法と魔法法、魔法使いにはどちらが優先されるのか、という問題です」
話の合間にウルフはミートパイとバゲットとマッシュポテトとオムレツを注文した。相変わらずすごい量だ。僕はハムサンドを頼んでから、話の端っこを拾い上げた。
「さっき、犯人の魔法使いたちは魔法法によって裁かれた、って言わなかった?」
「言いましたよ。魔法使いは伝統的に、魔法法によって規制されています。もちろん、魔法法にも犯罪を禁じ、罪に応じた罰を与える条項はきちんと定められていますが、魔法法はその当時公開されていませんでしたし、改正できるのも魔法使いだけでした。一般人から見たときに、それが不公平に見えるのは当然のことでしょう」
「なるほど、確かに」
理屈は分かった。それはつまり、国内で治外法権を認めている、というようなことだろう。魔法使いを裁けるのが魔法使いだけ、となったら、被害を受けた一般人が納得できないのは無理もない。
「その後も、いろいろと諍いがありました。そういう歴史的な背景があるわけですから、別になんと呼ばれようと気にはなりません。呼びたくなる気持ちは理解できます」
そう言った彼は本当に何も気にしていないように見えた。ブラックホールは何色も返さない。だから僕はつい確認してしまう。
「でもさ、それでも、嫌なものは嫌じゃない?」
「……理解しているだけで、納得はしていません」
それが不平不満を嫌う彼の出せるギリギリの愚痴だった。
その間、あえて言わずにいたけれど、僕らには絶え間なく視線が注がれていた。ぼそぼそと囁き交わす声も聞こえてきて、僕はいたたまれなくなりそうなのを必死にこらえていたのである。ウルフには場所を変えようって言ったって、納得はおろか理解すらしてもらえそうになかったからね。
彼にはそういう、他人の視線の一切を無視するような傾向――というより、それはもはや“主義”とでも呼ぶべき頑なな態度――があって、それはそのまま彼と彼以外を区切る分厚い壁になっていた。
だからだろう、構内で彼を見かけたときで、彼が一人でなかったときはない。けれどそのことを彼は苦痛に思っていないようだった。むしろ一人のほうが気楽そうに見えたから、僕もあえて声を掛けることはほとんどしないでいた。
そういう付かず離れずの距離感が僕にとって、そしてウルフにとってもちょうどよかったらしく、寮での生活は実に順調だった。食事なんか別々にとった日を数えたほうが早いくらい。たいがい――ウルフに何か用があるときか、僕が誰か別の連中に誘われたとき以外は――一緒にパブや食堂に繰り出すのが習慣化しつつあった。
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