7 すかさず影が飛び出す

 アンドリューズの転落事件はあっという間に広まった。もちろん、その直前に彼が魔法使いのところへ乗り込んでいった、という話もセットで。いつの間にか、赤い服を着た人物が彼を突き落とすのを見た、なんていう目撃証言も付け加えられていて、それがますますウルフの立場を悪くさせた。

 事件に行き会ってから、僕はすぐに寮へ取って返していた。雨の中最短距離を突っ切ったから、たぶん五分も経っていないだろう。部屋の水たまりはすっかり片付けられていて、ウルフはデスクでいつものように本を読んでいた。彼に変わった様子は何もなかった。振り返って、びしょ濡れの僕を見て「水たまりのある部屋が気に入ったんですか?」なんて言ったくらいだ。彼の服は少しも濡れていなかったし、いつものコートも綺麗に乾いたままコート掛けにかかっていた。だから彼が突き落としに行ったはずがない。そんなことは分かっている。少なくとも僕は、彼の潔白を知っていなくちゃいけないのに。

 ――なのに疑念を拭いきれないのは、彼が魔法使いだからだろう。何か、何かしら手があるんじゃないかって思ってしまっている。雨に濡れない方法とか、遠隔で突き落とす方法とか。

 それは寮の連中も同じ、いや、彼の姿を見ていない分、僕よりももっと強くそう思ったらしい。誰もが犯人をウルフだと決めていた。直前の騒ぎのおかげで動機の説明も充分だった。本当に呪いを仕掛けていたんだ、あるいは難癖を付けられた恨みだ、って。

 僕が彼のルームメイトだと知っている奴は、僕ごと遠巻きにしたり、反対にずけずけと聞き込みに来たりした。


「なぁ、あいつ、誰だか呪い殺そうとしたんだって?」


って、半笑いでね。そこまであけすけに言ってくる奴は一人くらいだったけど、要約すれば誰もが同じことを聞きたがっていた。

 僕がなんて答えたか、って? 知らないよ。その一言。知らないよ、僕は何も。彼のことなんか名前と顔と趣味以外何も知らないんだ。知っているはずないだろう? ――そう機械的に答えるたび、僕の心に密度と不透明性の高い気体が充満していくようだった。

 僕らの会話は――主に僕のせいで――なんとなくぎこちなくなって、それきり食事にも行かなくなった。あえて避けたわけじゃないんだけど、なんて言うのも言い訳だって自覚している。わざと寮に戻るのを遅くして、誰かが誘ってくれるのを待ってたんだから。

 あまりにも重苦しい一週間は、ここまでの一ヶ月よりもずっとゆっくり過ぎていった。

 それでもウルフの様子は今までとまったく変わりなかった。誰もがあの赤いコートをちらちらと見る。今までよりもさらにもう一歩外側から。噂は指数関数的に広まっていった。彼がいる部屋で交わされるひそひそ話は、すべて彼にまつわることのように思えた。

 そんな厭味な注目の中心に座して、しかし彼の背筋は真っ直ぐ伸ばされたままだった。横顔は静謐だった。冷たくて近寄りがたくて、自信に満ちている。まるで鋼鉄の鎧を纏った騎士のようだった。一人で立って歩いていける。誰の助けもいらない。何も怖くない。そんな声が聞こえてくるような気がした。

 すべてを飲み込むブラックホール。その瞳を持つ彼にとっては善意も悪意も大差ないのだろう。


(こんな状況で、よく平然としていられるな……)


 その超然とした態度はもはや、非人間的にすら思えた。対話不能な、理解の外の存在のように――。


 十月十四日、アンドリューズ転落からちょうど一週間が経った日の朝。相変わらずウルフは寝て過ごしている。それを横目に、あれきり読む気をなくしていた『ほんものの魔法使』を図書館へ返しにいこうかな、なんて思いながら、課題を終えたときだ。

 丁寧なノック。


「はい」


 僕は返事をしてドアノブを握った。中が見えすぎないよう慎重にドアを開ける。そこにいたのは、スーツ姿の男性二人。片方は若くて背が高くて、短く刈り上げた髪や盛り上がった肩なんかがいかにもスポーツマンって感じの人だった。四角い顎に力を込めた厳めしい表情など、リーグ昇格を賭けた最後の試合直前のキャプテンって感じだ。もう一方は四十代くらいで、運動不足を喧伝しているような丸い腹をしていた。顔も丸い。髪の毛が薄くなっていくことについては自然の摂理として諦めたらしい。くたびれたスーツから煙草のにおいがした。むろん、どちらも僕の知り合いではない。


「ええと、どちら様でしょう?」

「警察です」


 若いほうが端的に言った。そして僕がそのシンプルで大きな塊を飲み込めないでいるうちに、立て続けに次を寄越す。


「ここに魔法使いがいると聞いて来たんだけど、君がそう?」


 喉が詰まった僕は一言も発せないまま、ただ首を横に振った。


「じゃあもう一人か。中に?」


 僕はようやく塊を飲み込んで頷いた。


「はい。……あ、でも、ちょっと待ってください。まだ寝てるんで――すぐ起こします」


 閉めようとした扉が外から押さえられた。若いほうの刑事が僕を見る。鋭い焦げ茶の瞳は獲物を探す猟犬のようだ。


「もう十時半になるのに、まだ寝てるのか?」

「ええ、彼はいつもそうです。朝が苦手らしくって、何もなければいつも昼まで起きてきません」

「その分、寝るのも遅いってわけか」

「いえ、そんなことはありません」

「昨日は?」

「昨日は」どうしてそんなことを聞いてくるんだろう? っていう疑問に邪魔をされて、記憶を掘り出すのに約二秒。「僕が十一時……ちょっと前くらいかな。それくらいに帰ってきて、そのときはまだ起きてましたけど、それからすぐに寝ました。たぶん、十一時十分くらいには」

「ふぅん」

「どうしてそんなことを?」

「いや、たいしたことじゃないんだ。彼と話をしたいから、起こしてきてもらえるかな」

「分かりました。少し待っていてください」


 今度こそ僕は扉を閉めて、ウルフに――本当に久しぶりに――声をかけた。

 一分ほどねばって、ウルフはようやく目を開けた。睡眠量が規定に達していない上に他人から無理矢理起こされたせいで、かなり不機嫌そうだ。けれど僕が事情を話すと、彼はうなりを上げるブラックホールをなだめるようにまぶたをこすりながら、ゆっくりと起き上がった。女の子のような長い黒髪を無造作に掻き撫でる。あくび混じりの声音。


「警察? どうして警察が?」

「いや、分かんないけど……君に用があるんだって」


 魔法使いに、とは言えなかった。

 彼は首を傾げながらパジャマを脱いだ。十月の薄ら寒い空気のせいか、背中がかすかに震えた。そして、まるで警察に会うのを拒むかのように、いつもよりずっと遅く着替えをした――ように見えた。これは僕の主観が多分に入っているから正確じゃないと思う。

 最後に革紐で器用に髪をくくって、それから彼はドアを開けた。


「はい。何のご用で――」


 言いかけて、ぴたりと動きが止まる。驚きにややうわずった声。


「サマーヘイズ刑事」

「よお、魔法使いの坊ちゃん。やっぱりお前さんだったか」


 若いほうの刑事さんが「お知り合いだったんですか?」と尖った声を上げた。年嵩のほう――サマーヘイズ刑事って言うらしい。彼は何とも言えない間の抜けた調子で笑った。


「いやぁ、真っ赤なコートの魔法使い、って聞いた時点でそうじゃねぇかなぁと思ってはいたんだけどよ。よかったなぁ、これで呪いだ何だって線は消えたぜ」

「どうしてそんなことが――」

「ともあれ入れてくれるかい、坊ちゃん?」


 若い刑事さんの言葉を遮って、サマーヘイズ刑事はにっこりとした。その拍子に金歯がちらりと覗いて、僕は小さい頃によく見たクリスマスの定番映画を思い出す。途中から泥棒が可哀想になってしまって、とてもじゃないが見ていられなくなるアレだ。


「坊ちゃんはやめていただけますか」


と言いながら、ウルフは彼らを招き入れるために扉を大きく開いた。

 僕らは刑事さんたちのために椅子を明け渡して、それぞれのベッドに腰掛けた。


「それで、どのようなご用件ですか」

「質問をするのはこちらだ、魔法使い」


 冷たい声音でウルフから主導権を奪い取った若い刑事さんは、無愛想にジャスパー・ルーサーだと名乗った。もう一人はレイフ・サマーヘイズだと、初対面の僕に向けてにこやかに言った。


「まずは魔法使いの資格を提出して」


 ルーサー刑事は居丈高にそう命令した。ウルフは素直に従った。彼から手帳を受け取るときも、彼にそれを返すときも、ルーサー刑事は鷹揚に足を組んで、ウルフを睨み見ている。どうしてこんなにもウルフを敵視しているんだろう?


「昨日の夜、君はどこで何をしていた?」

「八時頃外で夕食をとって、それ以降は部屋で読書を。十時頃にシャワーを浴びて、ロドニーが帰ってきてから寝ました。十一時過ぎ――十分か十五分くらいだったと思います」

「夕食は誰とどこで?」

「一人で、カレッジの北側にある食堂に行きました」

「本は何を?」

「ファラデーの『ロウソクの科学』を。デスクの上にあるでしょう」

「確かにあるね。それじゃ、君がここにいたことを証明してくれるのはファラデーだけってことだな」

「そういうことになりますね」


 これじゃあまるで尋問だ。物々しい空気に喉が渇いてくる。何か不吉なことがあったのだ、と予感するには充分すぎた。どんな顔をして聞いていたらいいのか分からない――というか、僕はここにいていいのだろうか。今更出ていくことなんてできないけれど。


「先週の土曜日、セント・ジェローム・カレッジの学生が階段から落ちたことは知っているね」

「噂程度には」

「その日の午前十一時二十分頃、君はどこで何を?」

「ここで本を読んでいました」

「同じ日の十時四十五分頃、転落した生徒がここへ来て、君に呪われたと主張していたそうだが、それについては」

「名前すら知らない相手ですよ。技術的にも呪うことは不可能ですし、動機もありません」

「それじゃあ、難癖を付けられた腹いせに?」

「あの程度のことで報復に赴く人間だったら、今頃私は牢獄の中にいるでしょうね」


 落ち着いた様子で受け答えをしていたウルフも、さすがに気になったらしい。


「それで、昨日の夜にいったい何が起きたのですか? 先週の件とは何の関係が? そろそろ教えていただいてもよろしいのではないかと思うのですが」


 ルーサー刑事は足を組み替えて、目線をさらに尖らせた。それがあんまり怖かったから僕は、人間の目つきはどこまで鋭くなれるのだろう、なんて余計なことを考えてしまう。


「モーリス・ホール教授のことは知っているな」

「ええ、知っていますが」


 なぜここで彼の名前が出てくるんだ? って問いたげな感じで眉をひそめたウルフの、その眉間に突き刺すようにルーサー刑事は続けた。


「彼が亡くなったんだ。階段から転落して・・・・・・・・


 ひゅ、と喉が鳴った。


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