初勝利したって話。

 ——結構思いっきりぶち当たったと思ったのに、見た目と同じくらいにしぶといな。


 僕はそう思って冷や汗をかきつつ、怒りのオーラを噴出させる佐竹さたけを見つめた。


 近づくために踏み出す一歩一歩が、巨像のごとき重々しさを幻視させた。


 身長は僕より頭二つ分くらい高い。両腕両脚も丸太のように太く、胸板も厚い。岩から削り出したような凄みの強い顔貌。


 ざっ——


 いっちゃんが一歩、後ろへ退がった。


 さっきまで果敢に敵に殴りかかっていた彼の顔には、再び怯えが戻っていた。


 無理もない。


 確かに二人は殴り倒したが、この佐竹は見るからに二人とは別格だ。僕にだって分かる。


 あの太い手足が発する打撃の怖さを、いっちゃんは自分の身で味わったことがあるのだろう。


「いっちゃん。手短に教えて。あいつはどんな感じ?」


 僕はそう小声で尋ねた。


 怖いのは分かるが、今は少しでも情報が欲しい。五輪書の「風之巻」でも、情報の有無を重要視していた。


 いっちゃんは震えを解けずにいたが、それでも声は出してくれた。


「……あいつは、デカいだけじゃない。キックボクシングも使う」


 ……それは厄介だ。


 正直、あんな巨体で格闘技なんて使われたら、たまったものじゃない。


 しかも見るからに、ケンカ慣れしている様子。


 勝てる見込みは、薄いかもしれない。


 どうする。また僕が妨害役に回って、いっちゃんに殴り役をやってもらうか——


「死ねコラァァァっ!!」


 だが、それを頼もうとした瞬間、佐竹が勢いよくダッシュで突っこんできた。距離がさほど離れていなかったため、あっという間に距離を縮められた。


 しまった。敵に先手を許してしまった!!


「せいやぁ!!」


「がっ——」


 飛び込みながらの回し蹴り。僕はそれをどうにか両腕で防御したが、そのひと蹴りがもたらす衝撃は防御すら突き抜けた。


 体の芯までインパクトが駆け抜けたのを実感すると同時に、僕の軽い五体が真横へ吹っ飛んだ。


 どざーっと横滑りになり、しばらくしてようやく止まった。


「っ…………ぐぅぅっ……!!」


 同時に、思い出したように、鈍い激痛がじんわり全身に染み渡るのを実感した。


 ——痛すぎる……っ!!


 額に脂汗が浮かび上がりそうなほど強烈な痛みと、衝撃の余韻。


 これほどの衝撃を食らったことはなかった。自分が昏睡した時の事故さえ記憶から抜け落ちていたのだから。これがダントツだ。


 人生初体験の激痛に身悶えるのに忙しく、思考が上手く働かない。


「はーっ、はーっ……!」


 息がうまくできない。ぶるぶると両腕が震えて言うことをきかない。


 佐竹の足が、徐々に近づいてくる。


 やばい。早く、立って離れないと……


「こっ……の!」


 僕は苦し紛れに地面を上へ払い、砂を舞い散らせる。


 だが佐竹は素早く腕で目元をガードし、目潰しから逃れた。


 ダメだ。やっぱりこいつ、ケンカ慣れしてる——!


「ああああああっ!!」

 

 その時。


 恐怖を振り切るような雄叫びを上げ、一つの人影が佐竹の横合いへタックルをしかけた。


 いっちゃん。


「うおっ……!?」


 佐竹は抱きつかれるようなタックルをモロに喰らい、勢いよく横転した。


 さらにそこでは終わらなかった。


「このっ、このっ、このぉぉぉっ!!」


 いっちゃんはぶっ倒れた佐竹のマウントポジションを取り、その状態で何度も佐竹を殴り出したのだ。


「くそ、このっ、テメェ!? 犬野郎がぁ! ぶっ!?」


「うるせぇぇぇぇ!! 俺は犬じゃねーんだよ!! 俺は俺だっ!! 加藤樹だぁっ!!」


 恐怖と怒りが半々混じった泣き顔でそう叫びながら、いっちゃんは佐竹を殴り続ける。


 ……戦っている。


 肉体的にだけじゃない。


 佐竹に対する「怖さ」と、戦っている。


 ずっと怖くて、逆らえなかった相手に、今、牙を剥いている。


 いっちゃんは今、変わろうとしているのだ。


 さっきまでの、ビビりで、逃げ腰で、奴隷根性にまみれた自分を過去のものにし、新しく生まれ変わろうとしている。しようと頑張っている。


「このっ……ガキャァァッ!!」


「ごっ!?」


 佐竹が苦し紛れに振り放った拳が、いっちゃんの頬に炸裂した。


 なんという腕力か。寝転がったまま放ったパンチなのに、いっちゃんが横へ吹っ飛んで転がった。


 いっちゃんが頬を押さえて苦痛で顔を歪めている。その間に、佐竹はすっと立ち上がった。


「よくも……よくもやってくれたなぁぁ……犬ごときがよぉ、俺をシコタマ殴ってくれやがってよぉ……! もういい、テメェ……マジ殺すからなぁ……!」


 そのまま、横たわったいっちゃんへ向かって、近づいていく。


 佐竹が近づくにつれて、いっちゃんの表情が再び恐怖に染まり始める。


 ——ダメだ。


 ようやく変わり始めた、変わろうとしているいっちゃんの気持ちを、死なせちゃダメだ。


 立て、月波幸人つきなみゆきと! お前がやるんだ!


 勝ち目がない、と決めつけるな。


 勝たなきゃダメなんだ。


 勝ち目が薄いなら、知恵や工夫を振り絞って「勝ち戦」に変えろ。


 その方法は、全て『五輪書』に書いてあったはずなのだ。


 考えろ。日和った気持ちを抱く暇があるのなら、そのリソースを、佐竹あいつをぶちのめすために費やせ。


 一人でもなんとかしてみせろ。役割分担にばっかり執着するな。型にとらわれるな。それは武蔵が最も嫌ったことの一つではないか。


 僕は、今の状況を確認する。


 ——佐竹は今、背中を向けていた。


 奴の意識は今、自分をさんざん殴ってくれた飼い犬いっちゃんへ怒りの矛先を向けている。僕への注意が、逸れている状態だ。


 佐竹は今、倒れたいっちゃんのすぐ前まで歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げるためにしゃがもうとしていた。


 ——今だ。


 僕は全力で大地を蹴った。


 この人生で一番、全力で瞬発力を発揮させたかもしれない。


 そのおかげか、佐竹へグンッと距離を縮められた。


 手足が届く距離。


 佐竹はまだ僕に気づいていない!


「シュ————ト!!」


 僕は渾身の脚力でシュートを決めた。


 佐竹の股間へ。


「ふぬごぉ——!?」


 背後からの予期せぬ金的蹴りに、佐竹の巨体がぴょいんと跳び上がった。


 どんなにガタイが良くて、鍛えていても、ここだけは鍛えようが無い。男にとっての「弁慶の泣き所」。


 ここを蹴られたら、その苦痛に悶絶するだろう。


 そして、冷静な判断などおぼつかなくなる。


 五輪書の「火之巻」でも書いていた。「」と。——正常な判断力を奪え、と。


 敵の判断力を削ぎ、こちらは冷静に、正確に、最強の一手を準備する。


 佐竹がこちらを向こうとするのを確認した瞬間、僕は真上へジャンプした。


 ——五輪書「風之巻」は、既存の流派に対する批判と、あらゆる武器の長所短所が書かれた章だった。


 宮本武蔵は「秘伝」として技を飾りつけることを否定した。武芸であれば、全てが必殺かつ有効なものであるべきだと。


 さらに、無駄に長い刀や槍を使ったり、一つの武器に固執することの愚かさも説いていた。


 どんな武器にも長所短所がある。その場その場で、ふさわしい武器に切り替えろと。


 僕は剣術をやる気はないが、この章は大変参考になった。


 あらゆる物を有効活用する、ということを覚えられたからだ。


 ——人間の頭は、だいたい四キロくらいあるらしい。


 それは、


 苦悶で青ざめた佐竹の顔が完全にこちらへ向いた瞬間。


 


 僕は、反らした上体を思いっきり元へ戻し、その鼻っ面に額を衝突させた。




「ふご——」


 額に痛みが広がり、視界に星が散るのと同時に、佐竹のくぐもった呻きが鼓膜を打った。


 頭突きである。


 チカチカする視界の中には、鼻血を散らせながら大きく仰反った佐竹の姿が。


 刹那の時間が感覚的に何倍にも引き延ばされ、世界がスローに知覚される。


 やがて、僕が着地する音と、




 佐竹が派手にぶっ倒れる音が、重なった。




「いっててて……」


 僕はジンジン痛むおでこを押さえながら、佐竹と、他の二人の様子をうかがっていた。


 佐竹は小さく呻き声こそ漏らしているが、もう顔から完全に戦意が抜け落ちている様子。鼻血もダラダラ垂らしていた。


 他の二人も、もう立ちたくない、といった表情でぐったりしていた。


 ——勝利。


 それを確信した途端、僕の下半身から急激に力が抜け落ちた。


 どさっと尻餅をついた。


 まるで、大地の縛りから解放され、一段上の世界に飛び立ったような高揚感……ああ、これが勝利の余韻ってやつか。


 だけど、それ以上に……めちゃくちゃ疲れた。

 

 初めてのケンカ。しかも二対三。


 時間としては五分か、それにも満たないくらいだ。けれどその五分のうちに、気力体力知力を全て絞り出した。そして、


 だが、心身には想像以上に負担だったようだ。


 しばらく立てないし、立ちたくない。


「いっちゃーん…………生きてるー……?」 


 僕は疲れた声音でそう呼びかける。


「当たり前だろー……」


 同様に疲れ切った声が返ってきた。


 僕は地を這いながら、いっちゃんへ近づいていく。


「あのさー……僕、腰が抜けて歩けないんだよね。悪いんだけど、担いでくれないかな……」


「……俺も、腰が抜けてるから無理」


「そんなー」


 僕は乾いた笑いを返しつつ、さらにいっちゃんへ近づく。


 腕の力で這いずって、ようやく間近へ達することができた。


 だが、いっちゃんはうつむいたまま、一言も発さない。


 沈黙が一定時間、場を支配した。


 やがて、


「……なんで、俺を助けたんだよ」


 いっちゃんが、そのように沈黙を破る。


「お前……隠れて俺のこと見てたんだろ? だったらあのまま知らん顔して立ち去ればよかったじゃねーかよ。それから何食わぬ顔して、俺とまた接し続けることだってできたはずだろ? そうすれば……見て見ぬフリした事を俺にどうこう言われずに済む。たとえ表面上でも、今まで通りの付き合いができたはずだろうが」


「いっちゃん……」


「俺さ、お前のこと——心の中で見下してたんだ」


 それから、いっちゃんは止まらなくなる。


 がばっと顔を上げ、いきどおったような、悲嘆に暮れたような表情で言いつのった。


「俺より弱そうって! こんな弱そうなやつなら、安心して偉ぶれるって! 先輩風吹かせられるって! …………そうやってお前のこと、見下してたんだよ。お前に馴れ馴れしくしたのだって、お前が「下」だって思ったからなんだよ。こいつらにいびられた分だけお前に偉ぶって心のバランス取ろうとか、そんなこと考えてたんだぞ?」


 せきを切ったように、とはこういう感じを言うのだろう。


「なぁ、分かるだろ? 俺、こういう奴なんだよ。自分より強い奴にはヘラヘラ従って、自分より弱い奴には親分みたいに振る舞う。そんな典型的なクソ野郎なんだよ」


 いっちゃんは再び、がっくりとうなだれる。


「でも……お前に出会っても、やっぱり俺は、クソ雑魚のまんまだったよ。……お前は強い。腕力は無いけど、それでもお前は日和ひよらなかった。頭を使って、あいつらをやっつけて、俺にも華を持たせてくれた。…………ははっ、ふざけんなよ。何が「ケンカしたことない」だよ? 全然強いじゃんよ。俺なんかより、ずっと。お前がいなかったら、俺は……卒業まであいつらの奴隷やってたよ。賭けてもいい」


「いっちゃん、僕は……」


「うるせぇっ!!」


 そう、強く遮られた。


「…………こんな俺なんて、ほっとけよ。お前は強いんだから、こんな雑魚キャラに構うなよ。ちくしょう…………失せろよ。早くどっか消えてくれよ。二度と話しかけないでくれよ。これ以上お前に優しくされたら……もっと惨めになるじゃねーかよ、俺さぁ」


 確かに、いっちゃんは立ち向かった。そして勝った。


 けど、手前味噌が入るけど……それは、僕が手伝ったからなのだ。


 それがなかったら、ずっと佐竹たちに服従し続けていた。


 つまるところ、いっちゃんは、自分一人の力では状況を変えられなかった。


 僕に頼って、初めて状況を変えることができた。


 それが悔しいのだろう。


 でも——それは大いなる勘違いだ。




「僕だって、だよ。君と同じ弱い奴さ」




 いっちゃんは顔を上げる。


 信じがたい、という眼差し。


 強者が何をそんな情けないことを、とでも言いたいような眼差し。


 そんな眼差しを向けられる資格も力も、僕には無い。


 僕は、それを語って聞かせた。


「いっちゃんが今言ってたこと、僕も実行しようとしてたんだ。……最初はいっちゃんの事、見捨てようとしてた。どうせ勝てないって。勝てない勝負なんかしたって仕方ないって。そうやって、自分を正当化して、見ないフリしようとしてた。事実、勝ち目が無かったのは本当だし、そうやって言い訳して逃げたとしても誰も責めないと思ってた。……こんな学校じゃ、助けを頼ることすら期待できないしね」


「だったら……どうして、逃げなかったんだ?」


「僕にとって「戦うべき時」だと思ったから」


 いっちゃんが息を呑む声。


「人間さ、どんなに逃げまくったとしても、必ず「戦うべき時」が来るんだと思う。僕は今がその時だって、直感で思ったんだ。……そして、その「戦うべき時」を作ってくれたのは、君だよ」


「俺……?」


「そうさ。君がだったから、僕は立ち向かえた。立ち向かうための「キッカケ」を、君がくれたんだよ、いっちゃん」


 下半身に力が戻ってきた。


「いっちゃんだってさ、僕があいつらを邪魔して「殴れ」って言ったから、あいつらを殴れたんだろ? ……ほらね、僕達は「同じ」だ。お互いが、お互いに「キッカケ」を与えてるんだから」


 僕は、四肢に力を込め、徐々に立ち上がっていく。


「このケンカ、僕だけじゃ無理だったよ。僕達が二人だったから、「二刀流」だったから、できたことだよ」


 膝を少しずつ伸ばし、腰を持ち上げていく。


「僕の勝ちでも、君の勝ちでもないんだ。——「僕達」の勝ちなんだ」


 やがて、直立した。


 いっちゃんはなおも、泣き言のように言った。


「で……でも、結局俺一人じゃ、何もできなかったし……」


「ケンカは一人でやんなきゃダメだって、誰が決めたのさ? 宮本武蔵なら、そんなのナンセンスだって多分言うよ」


「み、宮本?」


「僕の師匠さ。四百年前に死んだけど」


 僕は、戸惑ういっちゃんに手を差し出した。




「それに——僕達、?」




 優しいような、呆れたような僕の言葉に、いっちゃんは目を見開いた。

 

 その両目に水分が増したと思った瞬間、それを見られまいと慌ててうつむく。


 けれど、顔の真下にひたひた落ちる雫でバレバレだ。


 鼻を何度もすすり、目元を何度も腕でこする。それを繰り返す。


 しばらくそっとしておくと、ようやくいっちゃんは口を開いた。涙が混じった声で、


「…………あのさ、一つ聞きたいんだけどよ」


「うん?」


「その……さっきから言ってる「いっちゃん」って何だ?」


 やっべ。


 と思いつつも、もう遅いと感じ、僕は言った。


「実は君に、心の中でそうアダ名をつけてたから。それが思わずポロリと。……ごめん、聞かなかったことにして」


 いっちゃんは泣き腫らした顔をポカンとした表情にして、僕を見つめた。


 しばらくして、吹き出し、大笑いした。


 ひとしきり笑った後、


「いいよ、んくらい。特別に許可してやるよ。——ダチだったら、変な名前でくらい呼ぶだろ」


 ようやく、僕の知っている、調子の良さそうな笑みを見せてくれた。


「んじゃ、俺もお前のこと「ユキちゃん」って呼ぶからな」


「うえっ。それは勘弁して。見てほら、僕の腕。サブイボ立ってるよ」


「仕方ねーな。んじゃ、「ユキ」で我慢してやるよ」


「仕方ねーな。んじゃ、それで譲歩してやるよ」


 僕達は顔を見合わせ、盛大に爆笑した。








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 少し書き溜めてから、また連投します。

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