超危険人物と同じクラスだったって話。

 なんとか、最初の一限目を乗り越えることができた。


 一限目は数学だった。


 やはりというべきか、ヌマ高の授業はひどいものであった。


 僕を除いて、誰一人として授業を聞いていなかったんじゃないだろうか。


 ある者はスマホゲーに熱中し、ある者は今週号の週刊少年ジャムプを読みふけり、ある者は音楽をイヤホンで聴きだし、ある者はスマホでエロ動画を視聴し、ある者はケンカを始めた。まさしく学級崩壊の絵面がそこにはあった。


 しかし、もっと凄かったのは教師だった。


 どれほど生徒ヤンキーたちが騒がしくなろうとも、授業を最後までやめない。聞いている人間がいなくとも二次関数だなんだと淡々と説明し続けるその姿は、まるで「万里一空ばんりいっくう」……快も不快も乗り越え、ただ「存在」のみを知覚した究極の平常心。二天一流にてんいちりゅうの極意を得ているがごとしであった。


 せめて僕だけは、その悟りを得た高僧のような数学教師の後ろ姿を、最後まで見続けた。


 そうしているうちにチャイムが鳴り、一限目授業が終了。


 入学後最初の授業が、終わったのだ。


 ぐでーっと、僕は机に突っ伏した。


 僕の机は、廊下側最後方の席であった。なかなかに目立ちにくい席。


 やっと、一限目が終わった。


 どうにかここまで、他のヤンキーに絡まれることなく、授業を乗り切ることができた。


 しかし、まだ授業は残っている。今週はまだ学校は昼までだが、それでもあと二限残っているのだ。


 それまでに、僕はこの地味さを駆使して、インビジブルなヌマ高ライフを送ることができるのだろうか。


 ……いや、正直、こんなコソコソした学校生活は送りたくない。悪者ではないのだから、もっと堂々としていたい。


 けれども、僕がここのヤンキーどもにとって格好のカモに見えるのもまた事実だ。


 であれば、なるべく戦い(になってもロクに反撃できないだろうけど)にならないよう、存在感を消し続けるしかあるまい。


 シノビダッシュがあればなぁ、と益体もないことを考えていた、その時だった。


 ばがっしゃあん!! 


 というけたたましい音とともに、僕のすぐ後ろにある教室後方の引き戸が、内側に勢いよく抜けた。


 倒れた引き戸の上に、さらに不良が三人派手に倒れ込んだ。


 ……どうやら彼らが外側から勢いよくぶつかって、こちら側に戸が抜けたようだ。


「テ、テメー、何しやがる!? 殺されてぇかぁ!!」


 倒れた三人のうち一人が、顔を真っ赤にして怒鳴りつける。


 彼らの視線の先……廊下側には、一人の男子が立っていた。


 背が高い。180センチ半ばくらいだろうか。

 細身に見えてどことなく詰まったような感じのする体格。ひ弱じゃない細さとでも表現すればいいだろうか。

 この学校の生徒には珍しく、詰襟制服のボタンを上から下まで残らずきちんと閉じている。 

 それだけ見れば優等生っぽいが、ややささくれ立った無造作の黒髪の下にある顔は、静かな殺気を封じ込めたような端正な容貌。


 僕の視線を感じ取ったのだろうか。……その男子が、ちらり、とこちらへ一瞥くれてきた。前髪の奥から覗く切れ長の瞳が、僕の視線とぶつかった。


「——っ」


 瞬間、体幹が凍りついたような、冷たい戦慄が駆け上った。


 なんだ、これは。


 この学校に、彼よりもヤンキーじみたヤンキーなんてごまんといる。


 ヤクザみたいな強面の男だって少なくない。


 しかし、彼だけは、明らかに「質が違う」と感じた。


 普通のヤンキーが「燃えている木」だとすれば、今目が合っている彼は「藪から覗いてくる獣」だ。


 一見おとなしいが、一回「やる」と決めたら徹底的に容赦無しに「やる」。そんな底知れなさを感じる。


 幸運にもその男子はすぐに僕への興味を失ったようで、倒れている三人へ視線を移した。


「——殺されてぇか、だと? だったら早く立てボケ。口で言うんじゃなくて、その体で実行してみろや。団子だんご野郎ども」


「んだとぉ!? 誰が団子だコラァ!!」


「状況見てテメェらしかいねぇだろがボケナス。誰かとつるんでねぇとケンカどころか自分テメェの主義主張を発することすらままならねぇカス共。それがテメェら「団子」だ。分かったか? 腐った団子三兄弟」


「こ、の…………!!」


 三人のうち一人が、赤を超えてドス黒く見えるくらい顔色を憤怒で変える。


 かと思えば、制服スラックスのポケットから何か取り出し、その「刃」を剥き出しにした。


 バタフライナイフ!!


「へぇ? それでどうすんだよ団子野郎。俺を刺すのか? いいよ、やってみろや。ほら、来いよ」


 驚きを呈する僕だが、刃を向けられた本人は全く怯えを見せない。それどころか挑発すらしている。


「————死ねやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 爆発した。


 床を蹴り、手に持ったナイフを勢いよく突き出した。迷いを殺意で塗りつぶしたような、よどみの無い勢い。


 切っ先が、挑発した張本人へ急激に迫り、


「ごぼぉぉ——!?」


 


 僕の目の前で、今、信じられないことが起こった。


 ——まず、突き出されたナイフを頭の動きだけで避け、右耳のすぐ隣を素通りさせた。

 ——それと同時に、外側に弧を描いて振り出した右拳を、突っ込んできたナイフ男の顔面に叩き込んだのだ。

 

 雛形ひながたじみた、理想的なクロスカウンター。


 ナイフ男は鼻血を散らしながら空中でトンボを切った。


 床に落ちてもなお転がり続け、教室の窓下の壁に当たってようやく止まった。それからピクリとも動かなくなった。


「え……あ…………?」


 残された二人の仲間は唖然とした顔で、殴った男子と、殴られたナイフ男を交互に見ていた。


 しかし殴った側からすれば、今の理想的なカウンターは当然のことだったようだ。別段気にする様子もなく、残った二人に歩み寄り、そのうち一人の顔面を蹴っ飛ばした。


「おごぉ……!?」


 蹴られた不良も転がり、それから動かなくなる。


 残りは一人。


「ま、待ってくれって! 許してくれよぉ! 空き缶ぶつけたのなんて単なるガキの悪戯じゃねぇかよぉ! そんなんで怒んないでくれよぉっ!」


 泣きが入るが、男子は全く止まらない。


 二人目と同じように、蹴りを入れて教室内に転がした。


 のびたのか、戦意を失ったのか、動かなくなった。


 あっという間に勝敗が決した。


 その男子は勝ち誇るでも、敗者をなじるでもなく、ただただ無感情な顔で教室へと入り、席の一つにドスンと座った。


 その席を中心に、周囲の生徒が輪を作った。


 ——な、なんだあいつは……?


 ていうか、あんなのが僕のクラスにいたのか。存在を消すのに夢中で全然気づかなかった。


 周囲の生徒が、ひそひそと話しだす。


「すげぇなオイ……三人を瞬殺だぞ」


「あれが樺山孝治かばやまこうじか……噂以上だな」


「中学ん頃俺も聞いたわ…………なんでも、ちょっと因縁つけられたってだけの理由で、一人で半グレグループに乗り込んで潰したらしいぜ」


「俺は酔って絡んできた米兵三人を半殺しにしたって聞いたぜ。やべーやつだよ」


「次のヌマ高の『アタマ』は、あいつになるかもなぁ……現『アタマ』の関戸せきどさんよか、強えかもしんねぇ」


「しっ、バカ! デカい声で言うんじゃねぇ! 殺されっぞっ?」


 口々に話される言葉を耳にして、やはり「やべーやつ」であるという事実を確認した。


 ——樺山孝治。


 よし、顔と名前はちゃんと覚えたぞ。

 僕じゃ絶対あんなのに敵わない。目をつけられたら終わりだ。

 これからは目を合わせないように気をつけよう。武蔵だって許してくれるはずだ。


 僕は早速、この教室からそそくさと出ていった。次の授業までまだ十分以上はある。今のうちにジュースでも買ってこよう。











 一年教室が最上階の五階にあるっていうのは、学校ぐるみの後輩いびりじゃあるまいか。


 そんなヒネクレた考察を頭の中に描きつつ、僕は階段を降りて一階にたどり着き、昇降口の自販機へとやってきた。


 横に広い昇降口の中に等間隔に並んだ下駄箱群(スプレー落書き付き)。外側から見て一番左端に、いくつかの自販機とゴミ箱が並んでいる。しかしお行儀が良くないようで、ゴミ箱に入ることなくその辺を転がっている空き缶がちらほら散見される。


 僕も自販機へ近づく途中、かららん、と爪先が空き缶を蹴った。その空き缶はカシスオレンジ。……こんなもん学校で飲むなよ。


 カシスの空き缶をゴミ箱へ思いっきり蹴っ飛ばし、ホールインワンを確認して小さくガッツポーズしてから、僕は自販機にたどり着く。


 お金を入れようとした時、僕はあるものを見た。


「……いっちゃん?」

 

 昇降口の外へ出ていくいっちゃん……加藤かとういつきの後ろ姿が一瞬見えた。


 どうしたんだろう。もう授業が始まるまで十分も無い。外へ出ている時間なんて……いや、ヌマ高生なら授業バックレるなんて当たり前か。規範意識ほど彼らに求めてはいけないものは無い。


 僕はあらためてお金を入れて、クリームソーダを購入した。昨日、桔梗さんが飲んでいたのを思い出したからだ。特に深い意味は無い。


 そのまま教室へ立ち去ろうと思ったが、


「……なんか、気になるなぁ」


 僕はもう一度、いっちゃんが見えた昇降口へと目を向ける。


 「来ちまった組」とはいえ、いっちゃんもヌマ高生だ。「授業が近いのに外出すること」への異質さを問うことは間違いなのかもしれない(いや、普通の学生としてはその考え自体間違っているんだけども)。


 けど、それでもいっちゃんはおそらく、この学校で一番僕に「近い」タイプの人だ。


 だからこそ、彼の身に起きている出来事が、どうにも他人事として無視しきれない感じがするのだ。


「……見に行くだけ。それだけね」


 僕はそう言い訳みたいにひとりごちながら、上履きのまま昇降口から外へ出ていった。










 そして。


 それが僕の生き方を大きく変えるキッカケになるとは、この時には思いもしなかった。

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