弱肉強食の底辺校の闇を垣間見たって話。

 入学式の翌日は土日だったので、初授業まで二日間の猶予があった。


 その間に、学習道具の準備やら何やらをするのが普通の学生らしい行動といえるのだが、天下のヌマ高のヤンキーどもにそんな規範意識は期待できない。これから始まる授業も、きっと学級崩壊同然のひどいものだろう。そんな確信があった。


 そもそも、生徒手帳の中身を見るだけで、学力の程は推して知るべしだ。


 生徒手帳を読んだ僕の第一声は「これはひどい」だった。


 全ての漢字にふりがなが振ってあるのだ。高校生ならば当たり前に読めるような漢字にすら。


 さらに、言葉の意味の説明なんかがたびたび書かれていた。たとえば「昇降口:校舎の出入り口。ここで外履きと上履きに履き替える」など。……そんなのわざわざ説明されなくても知っている。


 特に度肝を抜かれたのは、禁止事項の欄であった。


銃器じゅうき使用しよう製造せいぞう所持しょじ取引とりひき禁止きんしする(校内外こうないがいわず)」

賭博行為とばくこうい禁止きんしする(校内外こうないがいわず)」

酒類しゅるい(既製品きせいひん密造酒みつぞうしゅわず)のみ・販売はんばい禁止きんしする(校内外こうないがいわず)」

拷問ごうもん禁止きんしする(校内外こうないがいわず)」

 etc……


 ……なんでこんな子供でもわかるようなことが、高校の生徒手帳に書いてあるんだ。もはやギャグだろう。しかも賭け事禁止のルール、入学早々破られてましたよ。


 いや。もうこの学校に突っ込むのはやめよう。疲れるだけだ。


 月曜日の早朝。電車を降りて駅から出た僕は、ヌマ高へ向かってまっすぐ登校していた。


 同じ方向へ向かうのは、みんなヌマ高の制服を着たヤンキーばかり。


 笑いを含んだ話し声が、どこからか聞こえてくる。

 前からムカついてた奴を闇討ちしたとか、あの学校の奴は弱っちいから良い集金カツアゲ対象だとか、この前パチ屋で大当たりしたとか……おおよそ高校生の会話とは思えない内容だった。


 そんなヤンキーの登校風景に混じって、僕も荒れた学び舎へ向けて歩みを進めていた。


 一冊の古い文庫本を読みながら。


有構無構うこうむこう……構えていないのも構え、かぁ……よく分かんないなぁ」


 その『五輪書』の章の一つ「水之巻」の一文を読みながら、僕は一人悩んでいた。


 僕は土日休みの間、この『五輪書』を読破するのに費やした。


 正直、高校生として他に費やすべき時間があったはずだろう。別に武蔵のファンってわけでもない僕に『五輪書』の価値や凄さなんてさっぱりだ。「これを読めば役に立つ」という桔梗さんの言葉は話半分にしておいてもよかった。


 そもそも、本一冊読んで強くなれるなら、誰だって苦労はしない。


 でも、僕はなぜか直感的に思ったのだ。


 この『五輪書』は、絶対に読んでおいた方がいいと。


 読めば、何かが大きく変わると。


 読めば、なんとかなると。


 そんな予感がしたのだ。


 直感に付き従う形でこの本を読み始めた僕であったが、その内容は意外にも面白かった。役に立つ立たないを抜きにしても、読み物として普通に面白さがあった。


 もともと、読書は好きな方だ。気づけばあっという間に読みきってしまっていた。現在は読んだ内容をもう一度おさらいしている最中である。


 ——最初の章である「地之巻」に曰く、宮本武蔵に「師匠」はいない。


 武蔵はとにかく「甘え」を切り捨てた。


 武術を教えてくれる師匠、戦い方を教えてくれる兵法書、生き方を教えてくれる儒教や道教……そういった「道標」となるものには、すべて「甘え」を生み出すリスクが含まれている。


 なぜなら「既存の考え方を参考にする」という行為は、得てして人をその「既存の考え方」に寄りかからせてしまう性質を持つ。そういったものを武蔵は「甘え」と断じ、まっさらな己自身のみを頼りに戦いの道を突き進んだ。


 武蔵の生涯には今なおはっきりしない点が多いが、少なくとも武蔵は生涯で六十余人もの武芸者と試合を行い、その全てを勝利したという。試合というのは無論、互いの命を賭けた「決闘」だ。その決闘を六十回以上繰り返して生き延びているという点に、武蔵という人物の凄さがうかがえる。


 関ヶ原の戦い、大坂の陣、島原の乱といった戦も経験している。


 五十六歳の頃、細川忠利ほそかわただとしの招きに応じて熊本に移住し、邸宅を賜わった。


 それからもあらゆる芸術などに取り組みながら、己の兵法を磨き続ける。


 だがやがて六十一歳の頃に病気となり、己の死期を悟る。


 晩年の武蔵は霊巌洞れいがんどうという洞窟にこもった。そこで、今まで頼りにしなかった神仏を拝しながら、己の編み出した兵法を記した書『五輪書』を遺し、息を引き取った。武蔵の享年は六十二とも三とも言われていて、いまだにハッキリしていない。


 そういった経緯で書かれた『五輪書』だが、その内容を一言だけで言い表すなら——


 剣豪として有名であるため、もっと正々堂々な決闘スタイルかと思っていたけど、良くも悪くもそんなステレオタイプなイメージを裏切られた。


 とにかく使える手段は全部使え。

 刀にこだわるな。

 必要なら槍も銃も使え。

 地形も利用しろ。

 騙し討ちも不意打ちもハッタリも上等。

 とにかく何でも使って絶対勝て——そんな考え方と戦術がとにかくふんだんに一冊に詰め込まれていた。

 なるほど、船のオールで小次郎の脳天をかち割った男らしい書物だ。


 五輪書は、「之巻のまき」「すい之巻のまき」「之巻のまき」「ふう之巻のまき」「くう之巻のまき」の全五章に区別されている。


 武蔵の兵法「二天にてん一流いちりゅう」の概要と基本理論が書かれた「地之巻」、

 二天一流の構えや太刀筋、体捌きが書かれた「水之巻」、

 実戦における立ち回り方が書かれた「火之巻」、

 あらゆる武器の特性や、既存流派の性質に対する批判を記した「風之巻」、

 二天一流の究極の境地である「万里一空ばんりいっくう」について書かれた「空之巻」。


 正直、僕は剣士になるつもりはまったく無い。


 でも、それを抜きにしても、この『五輪書』には、参考になるであろう箇所がたくさんあった。


 「空之巻」は浮世離れしすぎて参考にならなかったが、「水之巻」「火之巻」からは得るものが多かった。


 そう……喧嘩になった時、すぐに使えそうな技が。


 ハッキリ言おう。これに書いてあることを全て使いこなせたとしたら……僕は喧嘩で勝つどころか、ヌマ高で一番になることすら可能かもしれない。


 一方で武蔵は、技術を一つ書くたびに、最後に「く能く鍛錬あるべし」という言葉でしめくくっている。ちゃんと練習しろよ、という意味だ。


「あ、ちょっと、校門は……」


 つまり、どんな技でも、練習無しではモノにはならない。


「おい……校門過ぎたぞ?」


 その言葉が、僕が思い上がるのにストップをかけてくれている。


「おーい、お前、聞こえてっかー?」


 そうだ。本を読んだだけで最強になれるなら、苦労はしない。


「っておいおい、どこまで行く気だよ? バックレる気か?」


 この『五輪書』の内容は、きっと頼りになる。けれど、それだけで万事解決はきっと無理だ。


「ちょっと待て……おい、止まれって! 信号赤だぞ!?」


 得た技を生かすも殺すも、結局は僕という人間の心の強さ次第なのだ。

 

「——ああもう、止まれってば!」


「うおぁ!?」


 突然、後ろから何者かに羽交い締めにされ、動きを止められる。


 やばい、とうとう因縁つけられたか——僕はそう思って手足をバタバタ暴れさせようとしたが、目の前の光景を見て、それどころではないことを悟った。


 目の前には横断歩道。歩行者信号は赤。

 今まさに右折してきた車が僕のすぐ目の前を通り過ぎようとしていた。


 後ろから僕を羽交い締めにしている何者かは、ケンカを売ってきたのではなく、読書と考察にふけって前を見ていなかった僕を助けようとしているのだと今ようやく気がついた。

 

 ぶろろろろ……と車が目の前を通過した途端、羽交い締めにしてくる腕の力が弱まった。


「危なかったぁ……ったく、お前さぁ! ながら歩きはマジやめろよな! 死ぬぞ?」


 そんな非難の言葉に、僕はゆっくりと後ろを振り返る。


 僕と同じ制服——つまりヌマ高の制服を着た男子だった。しかし僕と違って学ランの前を開けており、その下に着ている洒落たデザインのTシャツをあらわにしていた。


 体型は中肉中背。背丈は僕より少し高い程度と、男子高校生の平均値。


 何かのファッションであろう赤い革首輪をした首をたどって顔を見上げる。逆立った朱色のツンツン頭というヤンキー感あふれるヘアスタイルだが、その下にある顔つきは、僕よりも精悍せいかんではあるが中学生感が抜けきっていないものだった。


「え、ええっと……ありがとう」


 ファッションはともかく、雰囲気的に、話しかけやすい男子だと思った。なので僕はすんなりお礼が言えた。


 するとその少年はニカッと気のいい笑みを浮かべ、頷いた。


「いいってことよ! もう本読みながら歩くなよ。下手すっと死ぬぜ」


「あ、うん……」


 僕はそう言って戻ろうとするが、


「あ、ちょっと待てよ」


 朱色ツンツン頭の少年に呼び止められた。


 彼は何かためらうような顔をしている。呼び止めたはいいが、何を言うのかはまだ考えていない……そんな顔だ。


 やがて思いついたのか、少年は言った。


「お前さ……ほんとにヌマ高生? ガッコ間違えてねーよな?」


「……残念ながら、僕はヌマ高の生徒だよ」


 本当に残念ながら。


 おそらく、ヌマ高の生徒にしては出立ちがパンピー臭い僕が珍しかったのだろう。


 少年はもう数秒何か考える仕草をしてから、再び口を開いた。


「俺、加藤かとういつきってんだ。お前、なんていうの?」


 いきなりの自己紹介に、僕は何度か目をしばたたかせたが、どうにか返答できた。


「僕は……月波幸人つきなみゆきと


「お、幸人か。んじゃ、これから俺らはダチってことで!」


 ばしっと背中を叩かれる。ものすごいスピード感で友達になった。


 ——『五輪書』の効果その1。読みながら校門を素通りしたら、友達が一人できました。










 校門から学校に入り、昇降口で上履きに履き替え、同じ一年教室のある五階へ向かう途中。


「——マジかよっ? それなかなかにヤバくねーか。五年間昏睡状態とかよ。起きた時、浦島太郎の気分だったろ?」


 隣を歩くツンツン頭の少年が、驚きを現しながらそう言った。


 お前みたいなフツーって感じの奴がどうしてヌマ高なんかに入ったのか——そんな質問に答えたらこの反応だ。まぁ、隠すような話でもないしね。


「まぁ、勉強が大幅に遅れてたのは痛かったかな。あと、情緒が周りより子供のまんまだったのも個人的にキツかったなぁ」


「うへぇ。そりゃキツいだろうよ。周りが掛け算九九できるのに、自分は出来ねーんだ。えっと、しちしち7×7=……四十五だったか?」


「四十九ね」


「う、うははは。そうだった。やっべ、俺の方がお前よかバカじゃん」


 空笑いを響かせる「いっちゃん」。……僕がこの加藤樹くんに、心の中で勝手に命名したあだ名だ。


「でもま、俺だけじゃねーけどな。多分このガッコの奴、みんな掛け算九九がちゃんと言えるか怪しーと思うぜ。むしろここで一番賢いの、お前かもしれんし」


「大袈裟じゃない?」


「じゃない、と思う。……そんくれーバカな奴が集まる場所なんだよ、このガッコはさ」


「ええぇ……」


 いっちゃんの言葉に、僕はしおれた顔をする。


「このガッコにはさ、二種類の奴がいるんだよ。「来ちまった奴」と「来た奴」…………前者は、勉強ができな過ぎて「来ちまった奴」。後者は、ケンカと腕力だけを取り柄にしていたがゆえに「来た奴」。……俺らが「どっち側」なのかは、言わなくても分かるよな?」


 ——来ちまった奴。


 それが、僕と、このいっちゃんなのだろう。


「俺にはさ、一つ下の弟がいんだよ。そいつ昔っからめっちゃ頭良くってさ、セー学への合格も確実って言われてんだよ」


 セー学、というのは「清泉学院せいせんがくいん」の略称だ。神奈川県で一番偏差値の高い進学校で、国立大学や海外の有名大への合格者も多いとのこと。


「一方、俺はどうだ。運動は人並み程度。勉強に関しちゃ弟とは月とスッポンだ。中学あたりから親も俺に見切りをつけて、弟にばっか構うようになったよ。……それが悔しくてさ。でも、見返すだけの能力も無くて。できることと言ったらこんな風に見た目変えたり、悪い仲間とつるんだりすることくらいしか無かった。んで……気がついたらこのガッコに来てた、って話だ」


 いっちゃんは饒舌だった。卑屈に饒舌だった。


 疲れたような表情を浮かべるその顔の下には、赤い革の首輪がツヤで光っていた。


「一度は俺だって夢を見たよ。このヌマ高で拳一つで勝ち抜いて、ゆくゆくは『アタマ』になって、周囲から尊敬されまくって、女にもモテて、って…………でも、俺はやっぱり「来ちまった奴」だった。俺は入学初日、因縁つけてきた奴とケンカして、ボロ負けして……そいつらの……」


 僕は犬を飼ったことがない。けれど分かる。


 ——これは、だ。


 しかし、それを見られまいと学ランの襟下に隠すと、ことさら明るい声を上げた。


「お、もう五階だぜ。ところで幸人、お前クラスはよ?」


「僕? C組だけど……」


「俺Eだわ。んじゃ、ここでいったんお別れだな!」


 五階に達した途端、いっちゃんは強引に会話を打ち切り、別れに誘導した。


 逃げるように遠ざかっていくいっちゃんの後ろ姿を呆然と見つめながら、僕は考えた。


 ——あの首輪。


 あれはいっちゃん自身の意思でつけてるんじゃない。付けることを強要されたのだ。


 「首輪」というアイテムが示す意味……それが「服従」とか「飼い犬」とかであることは容易に想像がつく。


 いっちゃんは、おそらく、誰かから下僕みたいな扱いをされている。


 でも。


「それを知ったところで……僕に何ができるんだ」


 僕もまた同じ「来ちまった奴」だ。


 こんな僕では、誰かを腕力で華麗に救い出すなんていう展開は望むべくもない。


 被害者が増えるだけだ。


 自分すら守れるかどうかも怪しい僕が、いったい彼に何をしてやれるというのだろう?


 こんな……ちっぽけな文庫本に学校生活を委ねている、僕なんかが。


「……気にしたら、きっとダメだ」


 暴力で虐げられ、何かを奪われる。


 これは、この神奈川一の底辺高では「日常的風景」なのだ。であれば、それに慣れる他無い。抗ってどうにかなる問題ではないのだ。そういう「風土」なのだから。


 誰かの心配をする暇があるのなら、まず、今の自分の状況を心配しろ。


 我ながら酷い自己弁護の言葉を、自分の胸中に重ねる。


 遠くには、自分の教室に入ろうとするいっちゃんの後ろ姿。


 その後ろ姿は——誰かの助けを求めているように見えた。

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