2話 血に飢えた魔剣はもういない

 最近、山の気配がないことに気付いた。


 俺は数日追いかけていたドラゴンの首を落とし、その肉を焼いて食べながら、そんな事を考えていた。


 もちろん、普通の動物は居る。そういうのは、熊など襲ってくるものでなければ殺していない。


 だが、魔獣、モンスター、そういった類の生き物の気配が、山からしなくなったと感じていた。


「……このドラゴンで最後だったか」


 俺は肉を食い終え、しばらくぼーっとしていた。この山に入りたての頃は、こんな隙を見せようものなら魔獣が襲い掛かってきたものだ。


 もっとも、今の隙は『隙に見せかけた振り』だ。五年前くらいに、こう言う真似を覚えた。


 俺は寝床にしている洞窟に戻り、山ごもりしていた日数を刻んだ壁を見上げる。いくつもの、いくつもの日数の傷は、壁一面に広がっている。


「この山にこもってから、もう十年経ったんだったか」


 俺は何だか感慨深くなる。しかし、同時にこの山にはもう用事がないのだ、とも思った。ならば仕方がない。仕方がないのだ。


 俺は背負っていた魔剣ティルヴィングを撫でつけ、告げる。


「この山に入ってから、随分魔獣を斬ってきた。昔は飢えたような気配がお前からはあったが、最近は何か満ち足りたような雰囲気がある」


 答えるものはない。魔剣が答えるはずもない。


 だが俺は続ける。


「もう、十分か? もうたくさんか。それなら、それでいい。だが、俺には何もなくてな」


 俺は苦笑する。


「お前の『敵を斬りたい』という欲求以外、俺には何もなかったんだ、ティルヴィング」


 俺が言うと、魔剣の雰囲気が変わる。だが掴みかねて、俺は続けた。


「お前の満足いくようにしてやりたかった。俺の手を離れ、倉庫に隠されていたお前の鬱憤を晴らしてやりたかった。だが、それも叶ってしまった」


 魔剣の雰囲気が変わる。お前自身の欲求はないのか、と問われている気分になる。


「俺の、欲求か? しいて言うなら、強くなりたかった。だが、なってしまった。この山の魔獣全てを、本当に狩り尽くしてしまった」


 俺は失笑して続ける。


「先ほど倒したドラゴン、あれは神になり損ねた古龍だというぞ。それを狩ってしまったんだ。さして苦労もせず。これ以上、どう強くなる?」


 俺は頭を抱える。やりたいことはあった。やれない環境に、かつていた。その抑圧を振り切ってこの場にたどり着いた。やりたいこと全てを叶えられるようになった。


 その途端、俺は何もかもつまらなくなった。俺はため息を吐く。魔剣の願いを叶えたかった。強くなりたかった。その二つしかなかった。そしてその二つは叶ってしまった。


 俺は頭を抱えたまま、俯いて続ける。


「なぁ、俺はどうすればいい。ティルヴィング。教えてくれ。俺にはもう何もない。強いだけの、欲求を持たぬ肉の塊だ」


 俺は何故だか、泣き出しそうな気持で言う。


「お前が何かを欲しがってくれれば、俺はそのために動ける。お前は、何が欲しい。何でも叶えてやる。何でもしてやる。何か、何か欲しがってくれ。お前の欲求が、俺は欲しい」


「なら、山の外の世界を見に行きたい」


「……は?」


 俺は顔を上げる。すると真っ黒な髪を、全身を覆いかねないほど長く伸ばした、裸の少女がそこに座り込んでいた。


 真っ白い肌。漆黒の髪。深い色の瞳。それは美貌も相まって、幻想的な雰囲気を醸し出している。


「……な、何だ? 幻覚、か? 俺は、何を見ている」


「幻覚じゃない。私。あなたの相棒、ティルヴィング」


「……だが、ティルヴィングは剣だ」


「剣に戻れる」


 少女は俺に手を差し出した。おれが握り返すと、気付けば俺の手にはティルヴィングが収められていた。


 少女の姿はない。忽然と消えている。


「……俺はとうとう、人寂しさに幻覚を見たか」


 剣を置く。すると、また声が聞こえてきた。


「だから、幻覚じゃない。一緒に山の外に出よう? ブレイズ」


 横を見る。剣を置いた場所。だが剣は消えていて、そこには先ほどの少女が座っていた。


「……本当に、ティルヴィングなのか」


「初めからそう言ってる」


「だが、何故だ。俺とお前の二人きりになって、何故十年も剣のままでいた」


「満足してなかったから」


「は?」


「血が飲みたかった。敵に飢えてた。けど、古龍を斬って、満腹になった。そうしたら、人間の姿になれることが分かった」


「……なるほど」


 俺はとりあえず頷いておく。よく分からないが、そういう事らしい。


「で、さっきの話」


 ティルヴィングが、深い色をした瞳をキラキラさせて俺を見る。


「外の世界、見たい。山の外。人間の姿になったんだから、色んなものを見たい。目。感動的。ブレイズの顔を見れたのも嬉しい。髭もじゃ」


「まぁ、十二歳で放逐されて、十年だからな。今は二十二歳か」


 髭なんて生涯一度も切ったことがない。山で暮らしている内は切る必要もないと思ったが。


「山を出るなら、切った方がいいかもしれないな」


「任せて」


「ん?」


 ティルヴィングが、指先を刃に変えて、俺の顔に触れた。しょりしょりと俺の髭をそり落としていく。


「んふ、ふふ、楽しい。魔獣の体毛は切ったことがあったけど、ブレイズの髭は初めて切る」


「俺も、初めて髭を剃った」


「人間、楽しい。せっかく口があるから、血以外も飲みたい。いつもブレイズが食べてるお肉、私も食べたい」


「……はは、そうか。なら、そうしようか」


 俺は目を瞑る。ティルヴィングが髭を剃っていくのに身をゆだねる。ならば、そうしよう。


「久しぶりに、人里に降りようか。そして、お前のしたいことをしよう、ティルヴィング」


「うん。まずは、ブレイズと恋人になる」


「ん?」


 俺は顔を上げ、ティルヴィングを見た。キラキラとした瞳は俺に向いている。


「人間にできること、全部したい。せっかく女の子になったから、子供も産みたい。産むならブレイズの子がいい。でもまずは恋人から」


「……なるほど」


 純粋無垢な目で、ティルヴィングは俺を見つめている。俺はどう返したものかまったく思いつかなくて、目を閉じ、静かにどうしようかと動揺していた。

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