アクアブルーとくらげの背中

ちょっとしたストレス解消のためだった。

ホテルの部屋にやってきた男を抱き、性欲の処理をする。

あとはシャワーを浴びて金を振り込み立ち去るだけだと思っていた。

「井川?」


本名など明かすはずもない。

驚いて男の顔を見る。

気づけば男の顔を意識して眺めたのはこの時が初めてだった。

「石田?」


男の顔といつかの記憶が重なる。

同じクラスではないが隣のクラスで、顔だけはよく見ていた石田だ。

女と違い化粧もされていないためスムーズに面影が重なった。


しかし胸を過るのは思い出話や再会を喜ぶ気持ちではない。

旧知の人間に知られたことやあまつさえそれと関係をもったなど気まずくて仕方がなかった。


しかし俺はおざなりな一言を呟いていた。

「まさかこんな形で再会するとはな」

ぼそりと告げたその言葉に石田は顔色一つ変えることなく、あぁと条件反射のように声を漏らした。


「ほんとだな。でも人生って何があるかわからないからな。良ければまた呼んでくれよ」

石田は淡々とそう告げた。


その時の俺はといえば何とも言えないモヤモヤした気持ちになり半ば逃げ出すようにその場をあとにしたのだった。


それなのにだ。

何故俺はまた彼を呼んでしまったのだろうか。


呼んだとはいえ抱くためではない、その日一日自分が行くところに付き合ってほしいという依頼を出した。

そういうのは断られるかと思ったが案外すんなり了承を得ることが出来たのだった。


待ち合わせしたのは都内の水族館の入り口付近だった。

待ち合わせ場所にたどり着くと彼はもうそこにいた。

黒いポロシャツに、クロップド丈のチノパンを穿いており全体的にラフな格好をしている。

俺も似たような格好で、ゆるっとしたTシャツに同じくクロップド丈のチノパンを穿いていた。


近づくと、彼は眺めていたスマートフォンから顔をあげ特に微笑んだりもせず

「おう、じゃ行こか」

とだけ言った。

そして二人並んで入り口に向かい、暗い館内を進んでいった。


水族館の水槽にはべたりと観客がひっつき、近寄ってくる魚たちを撮ったりしている。

それらを遠巻きに眺めながら、緩やかなスロープを下っていく。

石田は何も話さない。

時折、少しだけ足を止めるが長くは止めないし何か言葉を発することもない。

ただ、水槽をちょっと見てまた歩きだす。


「マンタの裏側って可愛いよな」

俺がなんとなく思ったことを呟く。

いくらデートでもないにしろ全くの無言というのも心地が悪い。

石田はつと巨大水槽のガラスにぺったりとくっついているマンタを見て

「そうだな」

とだけ言った。


もとより好きで来てないにしろ、全くといっていいほど楽しくないのだろうか。

自分がした依頼ではあるものの少しぐらいは楽しんでみせて欲しかった。

後悔がちらつきながら館内を歩いているとふいに石田が声をかけてきた。

「あっち見たい」


石田が指指したのはこの水族館のメイン水槽だった。

天井までが高く、海の底から眺めているようなアングルを楽しめる。

無論ここにも水槽の前には多くの客がひっついている。

石田と俺は少し下がったところから水槽を眺めた。


光がゆらめく水面をゆらりゆらりと大型魚が横断する。

大型魚は悠々と泳ぎ、小型魚の群れを割って入っていた。

小型魚がまたきらきらと鱗を輝かせていた。

それらにみいる客らはこちらからみれば逆光で影絵のように見える。


石田は腕を組みながら静かに眺めていたがつと口を開いた。

「水族館ていいよな。俺魚とか見るの好きだから誘ってくれて嬉しいよ」

その言葉に思わず喜びがせりあがる。

「良かった。つまらなかったらどうしようかと思ってたよ」


営業トークなのかもしれなかったが、そうとは感じさせない石田のリラックスした雰囲気に胸を撫で下ろす。

「俺、少し下がったところから見るの好きなんだ」

「なんで?」

「ん、なんていうか絵になる気がする」


確かに、少し下がったほうが水槽を広く見れるし泳ぐ魚の雄大さなんかも伝わる気がする。

「小さい頃はべったり水槽前陣取ってたけどな」

そう言って小さく笑う石田を見ると勝手ながら胸に棘が刺さるような気分になる。


「…そろそろ他行こう」


巨大水槽を過ぎ、ペンギンやアシカのコーナーをチラ見で済ませたならあとはクラゲコーナーだ。

この水族館はクラゲが有名であり、よく癒されスポットとしても紹介されている。


暗い室内で、ほんのりとライトに照らされて漂うクラゲたちを見ているのはほとんどがカップルや1人の客でファミリーはあまりおらず非常に静かな空間が広がっていた。

誰も彼もがぼんやりと、ふよふよとおぼつかなく水に身を任せるクラゲを眺めている。

石田も空いている水槽の前で、クラゲたちを眺めていた。


俺はその石田の姿を背後から、他の水槽を眺めるふりをして盗み見ていた。

表情は当然ながら見えない。

しかし俺はその表情を見るのが何故だかとても怖かったのだ。

表情の見えない石田は、ガラスを突き抜けてクラゲたちの中に混ざり、そしてそのまま消えていってしまいそうな気がした。


「井川」

石田が、振り向いた。


俺は思わず身を固くする。

「クラゲって綺麗だよな」


そう言う石田はどこかふわふわとしていた。

手を離したらあっという間に飛んでいってしまう風船のように。

石田の背後でクラゲがふわりと浮き上がっていった。


水族館を出た俺と石田はすぐに別れることになった。

今日の依頼はここまでだからだ。

石田は「じゃあまた」といって手をひらひらと振るとすぐにこちらに背を向けて歩きだした。


「また、か」

俺は水族館の上に広がる鮮やかな夕焼けを見上げた。

そしてポケットから銀色に光る指輪を薬指へとはめたのだった。







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儘ならずとも哭かずは蝉に似ず 佐楽 @sarasara554

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