儘ならずとも哭かずは蝉に似ず
佐楽
人生
「ままならないことなどよくあることさ」
と、俺を初めて暴いた男は言った。
どういう因果か、俺は体を売ることになった。
力仕事や文字通り体のパーツを売るわけではない。
金を受け取った相手と寝る仕事だ。
とりわけ眉目の優れているわけでもない俺だが、俺を雇ったオーナーである男は初めて対面したとき俺を上から下まで横目でちらりと見ただけで
「よし」
と採用を決めた。
女ならば処女はプレミアになるからそのままでいいが男の場合は体の作りが受け入れるものではないために下準備が必要だ。
というわけで俺はオーナーにまず下拵えを施されることになった。
下拵えをされている間、何とも形容しがたい感覚を紛らわすために頭は勝手に今までの人生を振り返っていた。
俺は専業主婦の母と会社勤めの父の間に産まれた。
貧乏でもなく、金持ちというわけでもなく社会の中でささやかに暮らす平凡な家庭で育ち、生涯の友とまではいかない友人たちに囲まれ、思い出すのが困難なほど平坦な青春を送ってきた。
大学に入り、初体験を私もなのといいながらやけに手慣れたふうな女と済ませ気づけば卒業していた。
特別難航することもなく有名でもない中堅の企業に入社し家と会社を往復する日々を送っていたのが急にこれだ。
詳細は省くがある日、何もかもを失った。
そして呆然としていたところを、かけられた声に流れ流されてきてみればベッドの上で中年の男に開発をされている。
「なんでこうなったんだ」
穴の襞をいじくっていた男がそこから目を離さず言った。
「まぁ力抜いていけや」
ようやく受け入れる体になったらしい俺はオーナーに抱かれる日がやってきた。
「ヘタに喘ぎとか声出すな。考えるな感じろ」
こんなところで使われるはずではなかったであろう有名なセリフを吐きオーナーの体がのし掛かる。
俺は目を閉じた。
すると何故だかまぶたの裏に幼い頃見た光景が浮かび上がってきた。
小学四年生の夏の日のことだ。
神社の裏手にそれほど高くはない木があり、以前から登れるのではないかと機を伺っていた。
その日、木のうえのほうでは蝉が鳴いていて俺はその必死さに誘われるかのように木を登り始めた。
まだまだ…もう少し…あとちょっと…
そろそろ、いいかもしれない
その時だった。
急に葉の隙間から射し込んだ日光に目がくらんだのだ。
ジジッ
同時に蝉が飛び立ち、何か液体を俺の顔に撒き散らしていった。
あ
俺はその日初めて男にいかされたのだった。
今日も金を握った手が俺の体の上を滑る。
客との行為に耽る間、俺はいつもぼんやりととりとめのないことを考えている。
今日は今まで思い出したこともなかった中学時代の運動会の記憶を思い出していたりする。
50メートル走だが、妙に長く感じられるわりに達成感が無かった。
実際客との行為もそんな感じだったが相手は俺の穴に入れられればいいわけで問題はない。
行為が終わり、はたと気づく。
「あれ、井川?」
俺が呼び掛けると男はぽかんとした顔になった。
「石田?」
中学の運動会のとき、50メートル走で隣のレーンを走っていた井川ではないか。
井川は頬を綻ばせかけてすぐに顔をこねくりまわすように眉間に皺をよせたりなんなりとしたが口はつぐんだままだった。
しかしぽつりと溢す。
「まさかこんな風に再会するだなんてな」
「ほんとだな。でも人生って何があるかわからないからな。良ければまた呼んでくれよ」
そう返すと井川は驚いたようだったがすぐに何かを振りきるように部屋を出ていった。
一人になった部屋で、俺はまだ気だるい雰囲気の残るベッドに倒れこんだ。
そして夢を見るのだ。
謎の液体を撒き散らして飛んでいく蝉の夢を。
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