1.異世界で暮らす
第003話 朝ちゅん 「マスターはケダモノでした」
朝だった。
ちゅん。ちゅん。……と、スズメっぽい鳴き声が聞こえてくる。
異世界にもスズメはいるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は干し草のベッドの上で、もぞもぞと寝返りを打った。
まだ半分眠りながら――。何気なく、傍らに手を伸ばすと――。
隣にあるはずの女体はなく――。人の形のぬくもりだけが、シーツの上に残されていた。
一瞬――。脳髄が芯まで冷えて、俺は飛び起きていた。
「おはようございます。マスター。朝食には、いましばらく掛かります。まだ横になられていていいですよ」
一分の隙もなく、ぴしりと服を着こなしたモーリンが、やはり一分の隙もない無表情顔を浮かべていた。
昨日、あれだけ乱れたというのに……。その片鱗もうかがわせない。完璧なまでの偽装っぷりだ。
「その服は……?」
俺は、まずそこから訊ねてみた。
「これですか? メイド服です」
黒いロングスカートをぴらっ。
その場で、くるりん。
無表情でやるものだから、ギャップがむごい。
「……この、香ばしい、においは?」
小屋のなかに満ちる、この香りは――覚えのあるものだった。
「これはコーヒーですね」
彼女は、しれっと、そう言った。
「なんで異世界にメイド服とコーヒーがあるんだ?」
俺のこの世界に対する記憶は、夢で見た場面の寄せ集めでしかなく、あまりはっきりと覚えているわけではないが――。
たしか、コーヒーもメイドさんも、いなかったはずだ。
もっと異世界っぽい感じだった。
「ここ最近は転生者が多いようで。わりと文化が混じってきていますね」
お、おう……。
そんなことが……。
モーリンのメイド姿を鑑賞できるのも、朝からコーヒーが飲めることも、喜ぶべきなのかもしれないが……。
俺は一抹のわびしさも感じていた。
俺の愛する異世界が……。
喩えて言うなら――。
なんか観光客が押し寄せたら、秘境が文明化しちゃった感じ? 秘境に辿り着いたら、そこの原住民がTシャツ着てて、自販機でコーラが買えちゃう感じ?
「マスターの世界のものと思いましたので、用意してみたのですが……。不評のようでしたら、やめます」
「いや。やめなくていい」
「やめなくていいのですか?」
「うん。いい。……あと、さっきの、もういっぺんやって」
「さっきの、とは?」
「くるりん、って回るやつ」
「こうですね」
モーリンは回った。俺は幸せになった。
◇
「本日のご予定を、ご説明させていただきます」
上半身裸のまま食事をする俺に、モーリンが言う。
「おまえも食え」
俺は皿の上の料理を示した。
スクランブルエッグに、ベーコンみたいなものを焼いたやつ。
あと、向こうのものとちょっと違うが、パンみたいなもの。
そこにコーヒーが加わって、いかにも「朝食」的になっている。
向こうの世界から転生したばかりの俺の味覚に、モーリンが合わせてくれたのだろう。
それとも文化侵食が行きすぎて、こういうものが、この世界の一般的な朝食になってしまっているのだろうか?
食ってみたら――、これが、美味かった!
現代世界の食材とは、味がまったく違う!
すげえ! 卵ってこんなにうまかったのか! このベーコンの肉味はどうだ!
パンもちょっと変わった味だったが! うまい! うまい! うまい!
俺こんなうまいもの食ったこと! 生まれてはじめてだ!
いや。こちらの人生では生まれて一晩だけど。
はっ――と、気がつくと、モーリンが見ていた。
口許に手をあてて、くすくすと笑っている。
モーリンのレア笑顔げーっと。――じゃなくて。
「笑うな」
「もうしわけありません。ハナミズ垂らして一心不乱に食べているマスターを見ると、どうにも、いとおしくて――」
え? ハナミズ垂れてた?
俺は慌てて、顔をまさぐった。
モーリンからタオルを出されて、それで顔を拭う。
そんなに感激して食ってたのか……。
はずかしい……。
「おまえも食べろよ」
俺はモーリンを食事に誘った。さっきからずっと俺一人で食べている。
「いえ。侍従が
「いつ侍従になった」
「秘書的な役割も兼ねております」
「秘書か」
そういえば、さっき――。
予定がどうとか。スケジュールがどうとか。言っていたっけ。
「もしも、わたくしにお求めの役割が〝恋人〟であれば、ご一緒に朝食を摂っても、差し支えないと思うのですけど」
俺はあさってのほうを向いた。
鳴らない口笛を、ぴゅーと、拭いた。
「では……。マスターの
責めるような響きを言外に漂わせて、モーリンが言う。
だって、ねえ?
……恥ずかしいじゃん?
「さっき予定とか言ったか?」
「はい。申しあげました」
「ゆっくりするわけには、いかんのか?」
なにしろ俺は、転生したばかり。
俺の主観的にいえば、「残業」が空けたのが数時間前――。
トラックに跳ねられたのは、ふらふらになって、終電をのがして、二つ前の駅から、徒歩でアパートの部屋に帰宅する最中のことだった。
毎月の残業が200時間を超えるのは日常的。
ノー休日は、たしか、連続70日目くらいだったはず。
せっかくトラック転生したんだし。
俺に優しい女のいる、俺に優しい世界に来れたんだから、すこしぐらい「休暇」がもらえてもいいんじゃなかろうか。
この世界には、もう〝魔王〟だっていないわけだし……。
俺にはなにも使命はないわけだし。
「なあ。せめて一日二日、ゆっくりしてちゃだめか?」
「ええ。もしどうしてもとおっしゃるのでしたら、隷従の紋をお使いください。そうすればわたくしは絶対服従ですので」
「ちぇっ……」
俺は舌打ちした。俺がそれをできないということを知っていて、言うのだ。
「はい。はい。食事が終わりましたら、お召し物を身に着けてくださいね」
俺は慌てて、残りを片付けた。
衣類をひとつひとつ身に着けてゆく。
俺が服を着るのを、モーリンは、甲斐甲斐しく、手伝ってきた。
服越しに感じる手の感触を好ましく思いながら、俺は聞いた。
「今日は? なにをするんだ?」
「まずマスターの身分を確保します」
「身分?」
「ええ。冒険者ギルドで登録をします」
「冒険者ギルド? ……そんなものまでできたのか。なんかゲームみたいだな」
「前回、召喚されたときにも、ありましたよ? ――マスターは加入していなかっただけで」
「え? そうなの?」
なにしろ勇者業で忙しかったからなー。
世界の常識について、知らないことが多かったかもしれない。
勇者にとって、〝街〟っていうのは、素通りするだけの場所でしかないのだ。
「なあ……、やっぱ、一日くらい、ゆっくりしてちゃだめか? な? な? 今日だけ。今日だけ。今日だけ。……なっ?」
「だめです」
彼女はきっぱりとそう言った。
隷従の紋を使って、服従させて、ヒイヒイ言わせたろうか、この女――とか、思ったが。自粛しておく。
自重はしないと決めているが、自粛はする。
俺と彼女との絆は、そういうものではないのだ。
そういえば、モーリンは、こういう女だった。
物心ついたばかり、ようやく二本の足で「たっち」したばかり――という、赤ん坊に毛が生えた程度の肉体で転生した俺を、その日から、容赦なく鍛え上げたのが、この女だったっけ……。
どんな鬼女だっつーの。
人智を超えた〝勇者の肉体〟を得るためには、人智を超えた〝
そのくらいの年齢から始める必要があるそうだ。〝魔王〟を倒すためには。
「マスターがお望みなのは、安逸な生活であるようですので……。必要なのは、この世界における身分の確保ですね」
「いまの俺の身分って?」
平民とか、そんなんになるのかな?
前は、生まれたときから死ぬときまで、ずっと〝勇者〟だったわけだけど。
「なにかの組織に属していないと、人権、ないですよ? ――ここは異世界ですので」
「うえっ……」
俺は呻いた。異世界。パネえ。
平民でさえなかった。人間とみなされてなかった。
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