第002話 異世界への帰還 「お久しぶりです。マスター」
気がついたときには、どこか建物の中に立っていた。
古びた倉庫? なにかの納屋?
朽ちかけて放棄された木造の建物の中に、俺は立っていた。
そこは、だいたい薄暗かったが、屋根が破れているのか、あちこちから陽光が洩れだしてきていて、ちいさく、まるい光を投げ落としている。
藁の上にシーツが敷かれ、簡易なベッドもある。若干の家具もある。ほんのすこしの生活感が、そこには漂っていた。
地面には魔方陣がある。わずかに残った魔力の残り火で、きらきらと瞬いている。
両の足が、地面を踏んでいることに気づいた。
さっきまで意識だけの存在だったので、足があることが、その感触が、とても新鮮だ。
手を見ると――、しゅわしゅわと、粒子が寄り集まって、肘ができて腕ができて、手の指ができた。
びっくりして、しばらく見つめていたが――。手の輪郭は、もう揺らがない。
なるほど。こうやって肉体が生じるのか。
「お久しぶりです。マスター」
背後から聞こえた女の声に――俺は、ぎくりとした。
ゆっくり。ゆっくりと――振り返る。
そこに立っていたのは――。
「モーリン……、か?」
俺は思わず、そう、つぶやいてしまっていた。
そこにいたのは、かつての俺のパーティメンバーの一人――。
賢者にして、占い師にして、予言者にして、神託者――。
〝勇者〟であった俺を、召喚し、育てて戦わせた、その人――。
前の前の〝勇者〟の人生において、師であり姉であり仲間であり従者であった、美女モーリン――と、そっくりの女性が、そこにいた。
「……な、わけはないわな」
転生女神の話では、あの時代から、数十年は経っているはずだ。
たしかに彼女は、年齢を感じさせない女性ではあったが……。いくらなんでも、そのまま変化なし、なんてことはないはずだ。
目の前の女性は、二十代半ばくらいだろうか。
深紫のゆったりとしたローブを着込んでいるが、女性らしい起伏に富んだプロポーションはその上からでもうかがえる。
髪の色はこの世界では珍しい黒髪だ。向こうの世界であればショートボブという、その髪型は、表情を滅多に見せない彼女のクールな雰囲気に、よく似合っている。
体つきも雰囲気も髪型までも、昔と同じなのだが……。
やはり別人のはずだ。
「本人ですよ」
「うえっ?」
俺は驚いた。
「いや。まさかそんな? だって何十年も経ってるって……」
「では別人ということで。あちらは母で、いまのこの私は、その娘です」
「〝ということで〟って、なんだよ? どっちなんだよ? ――だいたい〝娘〟にしたって、計算合わなくねえか?」
「なら孫で」
俺は、ぷっと吹きだした。
「もういいよ。どうでもいいよ。どっちでもいいよ。とにかく――。モーリンなんだろ?」
「ええ。マスター」
彼女は服の襟首を手で下げた。首筋を俺に示す。白い肌に、切手くらいの小さな印が刻まれている。
隷従の紋様だ。
彼女が細い指先で黒い印に触れると、それは魔力を帯びて輝いて――。
俺の服の胸元あたりでも、同じ形が現れていた。服を越して光が見える。
「二度の転生を経ても有効でしたね。隷従の紋は、魂に刻まれるものですから」
「破棄してなかったのか」
俺は言った。
この服従を強制する魔法は、契約者の片方が死ねば、残った者の意思で、破棄することもできる。
前世で彼女にこの契約魔法をかけた。
師であり姉であり友人であり仲間であり、恋人――であったかどうかは定かではなかった相手に、必要と理由があり――かけた契約だ。
まだ有効だったとは。破棄してなかったとは。
「その必要もありませんでしたので」
彼女はしれっと、そう言った。
これまでずっと表情がなかったその顔に、ほんのわずかに、微笑みが浮かべる。
しかしその笑顔も、すぐにキツめのいつもの無表情に、とってかわられた。
「管理神から、転生者がくると告げられました。それで待っていましたら……。なぜ、マスターがやってくるのです?」
「来ちゃいけなかったか? 俺の行った世界じゃ、トラックに跳ねられて異世界に転生するのが、すごく流行ってんだよ」
「マスターがなにか間抜けな死にかたをなさって、転生されたのは理解しました。でもなぜ、わざわざこの世界に?」
「なんだか迷惑そうな言い分だな。昔はそっちから呼び寄せたくせに」
「ええ。世界のバランスが壊れていましたから。〝魔王〟という特異存在に対抗しうる、〝勇者〟という、もう一つの特異点を注文しました」
「注文するなよ。俺は品物か」
「管理神には少々〝貸し〟がありますので、当日にすぐ届きます」
「Amazonかよ」
モーリンはしばらく無言で――。ちょっとだけ、中空を見上げるような仕草をした。
そしてすぐに――。
「ええ。〝プライム会員〟ってところですね。……でもマスター? 別世界の常識を必要とするジョークに、突っこみを期待するのは、いささか無理があると思われますが」
「律儀に突っこんでいるおまえもおまえだな」
俺たちはほんの一瞬だけ微笑みを浮かべあった。
昔、毎日繰り返していたやりとりが――戻ってきた。
「まだこの世界に転生されたお答えを頂いておりませんが」
「やはり困るのか?」
「ええ。正直に言うと。少々。先ほど申しあげました通り、勇者級の魂は、この世界において特異的な存在です。もしマスターにその気がありますと、簡単に、バランス・ブレイカーとなることができます」
「ならないがな」
「なれますよ?」
「ならないって」
「なれるんです。その力があれば、神――になるのは、いささか足りませんが、悪魔にはなれます。そして魔王にも……」
モーリンは、じいっと、うかがうような視線。
「勇者が、魔王になって、どーするよ」
「そうならないように願います。そして願うだけでは足りませんので。ずっと監視していなくてはなりませんね」
「具体的には?」
俺は、聞いた。
「マスターのお傍に付き添う必要があるでしょうね」
「ずっと?」
「ええ。マスターがこの世界にいるあいだは。ずっとになりますね」
「じゃあ一生ってことだな」
「そうなりますね。マスターが〝おいた〟をなさらないように、ずっと、見張っていないとなりませんね」
モーリンと俺との間にあった距離が、すこしだけ詰まった。
どちらから近づいたのか。それは定かではない。
「今回は倒すべき魔王もいませんし。前の時のように、マスターを育てる必要もないことですし……。どういう役割で接すればよろしいですか? 母? それとも姉?」
まいったな。〝母〟もあったのか。俺の認識にあったのは〝姉〟どまりだったが。
たしかに前回は幼少期からモーリンに育てられたわけであるが――。
「姉もご不満であるご様子ですね。ではなにがいいのでしょう? 師? 友人? 仲間?」
もう一歩。
その、もう一つ先を言ってくれないか。
俺とモーリンとの距離は、さっきよりも、もっと縮まっていた。
体と体とが、触れあうほどに……。
「マスターは何度生まれ変わっても、意気地なしのへたれであるところは、お変わりがないようですね。前世のときにも、わたくしのカラダに興味はあったご様子ですけど。チラ見するだけ。そして視線が重なれば、そっぽを向いて、素知らぬふり。鳴ってもいない口笛は、あれは、痛すぎでした」
モーリンのその声には、責めるような響きがあった。
白い指先が、俺の胸のあたりにあたっていた。「の」の字をいくつも描いている。
「しかたがないだろう。あのときは」
毎日が戦いだった。そんなことをしている余裕はなかった。
世界を背負う勇者として自重していた。
勇者として二十年の生をまっとうした。戦って、戦って、戦って――そして世界を救ったそのかわりに、俺は死んだ。
「隷従の紋を使われれば、私に拒否権なんてありませんでしたけど?」
ああ。そうだろう。
正直に言おう。余裕がなかったことが、本当の理由ではない。
怖かったのだ。
拒絶されたらどうしようと、そればかりを考えていた。
隷従の紋がある以上、彼女は俺の命令を拒むことはできない。だが心までは自由にならない。
俺は彼女に嫌われることが、怖かったのだ。
「生まれ変わった世界で、
「さあ。どうだろうな」
俺はのらりくらりと、そう答えた。
は? ブラックバイトとブラック企業にすり潰される日々ですよ?
いったいどんな功夫を期待しろと?
だが――。
この世界に戻るときに、たった一つだけ、俺が決めていたことがあった。
それは――。
「あっ」
モーリンが短く声をあげる。俺が彼女を抱き寄せたからだ。
「功夫を積んできたかどうか。試してみるってのは?」
「どういう役割で接すれば良いのか。まだ先ほどの質問のお答えを頂いておりません」
ずっしりと重たい女体が俺の腕の中にある。
脳髄まで泡立つような歓喜を覚えつつ、俺は努めて冷静でいようとした。
「わたくし。これは。拒絶すればいいのでしょうか。どうすれば良いのでしょうか」
彼女が目を背けて、あさっての方向を見つめている。
「好きにしろよ」
俺はそう言った。本当のことだった。
拒まれることは怖くない。もう怖くはない。
拒まれて傷つくことのできた時代は、もはや懐かしいほど、遠い昔だった。
それよりも彼女がほしい。
彼女がもし拒むというのなら、拒めばいい。
俺は彼女を欲するだけだった。
「隷従の紋は使いませんか?」
「必要か?」
あいかわらず彼女は、目線を合わせようとしない。
なぜだろう、と、思って――すぐにその理由が判明した。
彼女の目がずっと見ているのは――小屋の端にある、干し草のベッドだった。
この世界に戻れることになったとき、俺が決めたことが、一つだけある。
俺はもう、自重しない。
俺は彼女をベッドに押し倒した。
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