第3話

 深々と降り落ちる雪の中を、その人影は近づいてきた。一見して「北風ラーメン」の讃岐さんではないと思われた。シルエットが全く違ったからだ。讃岐さんは筋骨隆々で肩が丸い。その人影は、どちらかというと全体が丸々としていた。服装も違った。讃岐さんはいつも、下は厨房着の白いズボンだが、上は冬でも白のランニングシャツ一枚だ。頭にねじり鉢巻も巻いている。歩いてくるこの人は、ヨレヨレの茶色いロングコート姿だった。ねじり鉢巻きもしていなかったし、代わりに深緑色のハットを被っていた。動きも違った。たぶん讃岐さんなら走ってくるはずだ。オカモチを肩に乗せてホッホッという具合に。一方、この人は足元の雪を少し慎重に踏みしめながら、ゆっくりと歩いていた。書類を片手に、顎を上げ、周囲の店の二階の住居部分を見回しながら。


 俺はその男の方に歩いて行った。男と距離が縮まると、雪に反射した月光で、その顔が見えた。やはり讃岐さんではなかった。男は口髭を蓄えていた。讃岐さんは髭を生やしてはいない。ツルツルしている。ついでに頭もツルツルだ。「観音寺」の大内住職と同じツルピカ頭だ。さすがラーメン屋。毛がスープの上に落ちないよう気を使っているのだろう。では、大内住職は何に気を使っているのか。まあ、いい。とにかく、この男の髭は、赤毛というか、薄茶色の髭だった。その上の大きな鼻は赤かった。額や目尻には深い皺があった。じいさんだ。あるいは老け顔の壮年。いや、じいさんだろう。立ち止まっては、肩の上の雪を書類で払いながら、反対の手で腰を叩いている。ま、年配の人であることは間違いない。俺はそう思った。


 この「赤レンガ小道商店街」でも、横の「大通り」でも見かけない顔のそのじいさんは、俺の数歩先で立ち止まり、「フラワーショップ高瀬」の向かいの古いビジネスホテルを見上げた。手元の書類に目を落とし、また見上げて言う。


「ここは大丈夫だな……」


 そのじいさんは何かの確認をしているようだった。役所の人間かと思ったが、普通の公務員が実働する時間ではなかった。役人ではあるまい。では何者か。建設会社の営業マンか、不動産屋か。ま、まさか、泥棒の下見ではあるまいか。といぶかってみたが、数々の悪者と対峙してきた俺には、そのじいさんの目は汚れていないように見えた。


 俺はそのじいさんに話しかけてみた。


「こんばんは。寒い夜だな」


 じいさんはこちらに顔を向けると、一瞬間を開けてから、ハットを押さえながら軽く会釈して返した。


「こんばんは。やっと冬らしくなりましたな。落ち着きますなあ」


「そうかね。俺は、冬はきらいだが」


「おや、そうですか。冬はいいですぞ。雪もいい。今夜はちょうどいい具合の雪となりましたな。冬はこうでなきゃ」


 なんか変だと俺が首を傾げていると、じいさんは薄茶の口髭を傾けて見せた。変なじいさんだ。


 んー、それにしても、冬のどこがいいんだ。寒いし、暗いし、光熱費はかかるし、陽子さんは困るし、いいこと無いじゃないか。と、反論するのはやめて、俺はその怪しいじいさんに尋ねた。


「ここに泊まるのか。ここはビジネスホテルだが、あんたビジネスマンなのか」


「――いえいえ、違います。確かに仕事でこの街に参りましたが、ここに泊りに来たのではありません。これも仕事でしてね」


 じいさんは手に持った書類をこちらに向けて、俺に見せた。何も書かれていない真っ白な紙だった。


「何も書かれていないじゃないか」と俺が言うと、じいさんは首を横に振った。


「いえいえ、特殊なインクで記載されていましてな。月の光を受けると、私にははっきりと見えるという仕掛けです」


 じいさんは自分の目元を指さして、またニヤリと片笑んだ。


 何となく小馬鹿にされている気がして、俺が不機嫌そうな顔をしていると、じいさんは「これもコンプライアンスの一環ですよ」と言って、くるりと「フラワーショップ高瀬」の方を向いた。


 なるほど、例の個人情報保護法に応じた顧客情報か何かの漏洩対策かあ、特殊インクとは徹底しているが、科学の力とはすごいものだなあ、と俺が感心していると、じいさんがボソリと


「この花屋は、まだですな。最後は……」


 と言いながら、真っ白な書類を捲った。じいさんは書類に目を落としながら、コクコクと頷いている。


「十年前なら、次はもう少し先ですかな。あらら、次の予定はそう先でもないようですな。では一応、報告しておきますか」


「なにをブツブツと言っているんだ。高瀬さんところが、どうかしたのか?」


「いえいえ、何でもございません。――ええと、次の家はと……」


 じいさんは「フラワーショップ高瀬」と「モナミ美容室」の間の横道へと数歩だけ入っていき、大きな門の前で立ち止まった。


 まるで、閉じている門戸の向こうの景色が見えているかのように見回しながら、じいさんは言った。


「ここは広くて使いやすいはずなのですが、やっぱり今年も駄目ですかねえ」


 肩を落として短く息を吐いたじいさんは、こちらを向いてトボトボと戻ってきた。


「どうしたんだ。何を調べているんだよ。何か問題か?」


 と俺が尋ねると、


「いえいえ、上の方針でしてね。他人の畑は荒らしてはいかんそうなのですよ。私はそんなつもりはないですし、こちらにも喜んでもらえると思うのですがねえ。仕方ないですなあ」


 と残念そうに答える。


 確かに、「観音寺」の敷地には家庭菜園レベルの小さな畑がある。地域の人たちの非常食にと、大内住職と若いお坊さんたちがそこで葱や芋などを栽培しているのだ。畑とは、そのことか。そこを荒らすとは、どういうことだ。このじいさん、無農薬野菜のブローカーか何かだろうか?


「どういうことだよ、荒らすって。畑を荒らされて、大内住職たちが喜ぶわけがないだろ。いったい、何をするつもりだ、あんた」


「着地ですよ、着地」


「ちゃ、着地?」


「ええ。離陸にも。近頃、全体重量が増えましてね。その分、飛行前や着陸後の滑走に必要な距離が増えてしまって。まあ、重量が増えたのは、それだけではありませんがね。実はこの私の腹も、ほら、このとおり」


 と自分の腹をポンポンと軽く叩いてから、じいさんは顔の前で手をパタパタと横に振った。


「いえいえ、畑の上ではありませんよ。境内のイチョウの木の横から、その門の前あたりまで使わせてもらえれば、十分なのです。けれども、そうも参りません。こちらを使うとなれば、上の方で書類の審査やら、審議会での検討やらと、いろいろと面倒ですからね」


「そうか。会社勤めというのも大変だな……って納得するか! 離陸とか着陸ってなんだ! 飛行機でも飛んでくるのか、ここに」


 足元の赤レンガ、と言っても雪に隠れていたが、それを強く指さしている俺の前を素通りして、じいさんは「モナミ美容室」の前に行き、真新しいひさしを見上げながら言った。


「いえいえ、ソリですよ。ええと、ここは……居ないと……」


「ああ、なんだ、ソリか。――は? ソリ?」


「ええ、ソリです。先に申し上げればよかったですな。アイムソーリー、なんちゃって」


 古いダジャレを言いながら、じいさんは「ホッカリ弁当」の前に移動した。当然、俺は追いかけた。


「ちょ、ちょっと待て。ソリって、あのソリか。雪の上でスーと滑るやつ。ワン公なんかが氷上で引いている、あれか?」


「はい。もっと頑丈で大きくて、立派なものですけどね。例年、必要な場所に着地いたします。ここですと、この商店街の通りですな。一直線で見通しが良い。距離と言い、路面の固さといい、離着陸の滑走路としては申し分ないのですが、残念なのは、ほら、あれ。あの電柱とあの電柱の間に、電線が横に渡してある。だから使えるのは、そちらの高瀬さん御宅か、そのお隣の琴平さんの御宅の前辺りから、ちょうどこの辺りまでですかな」


 そして、じいさんは「モナミ美容室」の入口の前を指さしながら、


「しかし、これだと短すぎましてね。結構、苦労するのですよ」


 と続けた後、書類を顔に近づけて


「おや――ほお、一人おった。よかった、よかった」


 とも言った。


「ぜんっぜんよくないぞ。まったく意味が解らん。勝手によそ様の商店街に着陸すんな! いやいや、そういう問題ではない。あのな、ソリだろうが、ソリ。離陸とか着陸ってなんだ。あんた、ふざけているのか。自分がサンタクロースだとでも言いたいのかよ」


「いいえ。まさか。――うーん。またですか。この家も煙突は無しと……。ま、いつものことですから、何とかなるでしょう。よかったですな、探偵さん」


 俺は声色を変えた。


「なぜ俺が探偵だと知っている」


「情報では、そうなっていますが、違いますかな。『ホッカリ弁当』の外村さん宅に住み込んでいる居候で探偵の『桃太郎』さん。あなたのことでしょう?」


 じいさんは軽く俺を指差した。俺はその指を払い、じいさんの目を見据えて答えた。


「いかにも。それは俺のことだが、あんた、なんで他人の家の住人構成まで調べているんだ。やっぱり怪しいぞ。怪しい臭いがプンプンしてきた。何者なんだ、あんた!」


 そう俺が強く問い詰めると、じいさんは自分のコートの袖を鼻元に運んで言った。


「臭いますかな。香水はちゃんとしてきたのですがね。これは失礼しました」


「ちっがーう! 悪の臭いだ。俺は、あんたの正体を尋ねているんだ。あんた誰だ」


「トナカイです」


「となか……よーし。そう来たか。分かった。この不審者め。こうなったら力づくに無理やりにでも押さえつけて、大通りの向こうの警察に引き渡してやる。覚悟しろ!」 


 と構えをとった俺を横目で見て、そのじいさんは鼻で笑った。


「それは無理でしょう。仮にあなたが私を押さえつけることができたとしても、です。たしか、あなた、あの大通りを渡れないのですよね。車の往来が苦手で上手く横断できない。そうですよね。それなのに、どうやって私を大通りの向こうの警察署に連れていくというのです。無理はおやめなさい」


 うっ。


 そうだ。そのとおりだ。俺は「往来恐怖症」だ。自動車が右に左に行き交う大通りは、怖くて怖くて、とても渡れない。だから警察署に行く用事があるときは、いつも車の少ない真夜中か早朝に行くようにしている。大げさに「大通り」などと言っても、小さな田舎町の片側一車線の対面道路。真夜中から早朝にかけては、ほとんど車など走っちゃいない。信号も消灯するくらいだ。その時間帯なら何とか俺も渡れるが、この夕飯時では結構に車も走っている。俺はあの大通りを渡れない。つまり、このじいさんを警察署に連行できないわけだ。


 俺が歯ぎしりしていると、じいさんは書類をコートの中に仕舞いながら、ゆっくりとした口調で言った。


「まあ、喧嘩はよしましょう。せっかくの雪の夜です。もっと穏やかにいきましょう。あなたが優秀な探偵さんでいらっしゃることは、よく存じ上げています。ですから、隠しても無駄だと思って、私も正直にお話したのです」


「正直にだと。ふざけるな。誰がそんなホラ話を信じるか。どうしても自分がトナカイだと言い張るのなら、何か証拠でも見せてみろ、証拠を」


 じいさんは小さく溜め息を漏らすと、首を縦に振った。


「よろしい。では、お見せしましょう」


 じいさんは深緑色のハットをひょいと持ち上げた。そして俺にウインクして見せてから、こう言った。


「ほらね、このとおり。私はトナカイです」


 俺は驚愕した。そのじいさんの頭の薄い白髪の間からは、小さな角が左右に突き出していた。


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