第2話

 俺は「ホッカリ弁当」の二階から一階の玄関前に続く階段を駆け下り、狭い玄関のドアノブを蹴って回して、その勢いで開いたドアから外へと飛び出した。


 な、なんじゃこりゃ。真っ白じゃないか。スノーホワイトじゃ。いや、マジで雪だ。雪が降っているぞ。


 ウチの玄関は、赤レンガ小道の方を向いている「ホッカリ弁当」の店舗の裏手にある。つまり、玄関を出ると裏庭だ。狭い小庭の向こうに低い塀があって、その向こうに「観音寺」の境内の玉砂利と、そこの大イチョウのがっしりとした根元が見える……はずなのに、今日は、いや今夜は白い平原から大イチョウが脛から上を突き出しているだけじゃないか。トンネルを出たわけでもないのに、玄関出たら、そこは雪国だったと来たもんだ。参ったね、こりゃ。


 さあて、どうしたものか。表へと続いている、お隣の「モナミ美容室」との境の塀とウチの建物の間の通路も雪で覆われている。目の前の塀を乗り越えて、観音寺の境内を通り、モナミ美容室とその隣の高瀬生花店……違った、「フラワーショップ高瀬」の間の道から赤レンガ通りに出るか。いや、待て。そうなると、この塀を飛び越える時に雪でツルッといきそうだな。特に今日はダウンだからな。動きにくい。ああ、俺は赤いベストがお気に入りで、トレードマークとしていつも着ているんだが、今は冬だから、冬仕様ということで、今夜は赤のダウン・ベストを着ている。暖かいぞ。しかも、ポケット付き。そのポケットの中には……おお、LED電光の小型懐中電灯。陽子さんが駅前の百円ショップで買ってくれたやつだ。ウチには、これより少し大きなもの、といっても美歩ちゃんの掌に入るサイズだが、それが何本も買い置きしてある。陽子さんには必需品だからだ。


 実は、陽子さんは目が少し不自由だ。暗いところがよく見えないらしい。だから、ライトは手放せない。この頃の安価なLEDライトは、くっきりはっきりと照らしてくれるので、陽子さんは重宝しているし、安いから何本も買って、すぐ手の届く範囲に、家のあちこちに置いているというわけだ。俺も小型のものを一つ貰った。赤いやつだ。こうして、夜の捜査では結構活躍してくれ……なんだよ、寝ぼけた点き方だなあ。ちょっと端を叩いて……よし、ちゃんと点いた、点いた。俺のライトだけ単五の乾電池使用だからな。ずくに電池切れする。単五だぞ、単五。蝶ネクタイをするかバラの花でも咥えていないと、やってられないぜ、まったく。


 などとブツクサ言いながら、俺は敷地の横の通路を、雪を踏みながら歩いて、ホッカリ弁当の表へと出た。寒い。暗い。そして、見上げてみる。二階の窓から暖かな光が漏れていた。人影が窓に映っている。美歩ちゃんだ。美歩ちゃんはカーテンを開け、窓から雪雲の間の月を探して、またカーテンを閉じた。だよなあ、気になるよなあ。美歩ちゃんは、まだ小一だもんなあ。そりゃあ、本気で信じていたとしても不思議ではないし、悪いことでもない。でも、陽子さんも大変だなあ……。


 さっき話した事情のために、陽子さんは夜、外に出られない。正確には、一人で出ようとしない。夜に出かける時は、俺か美歩ちゃん、時々お隣の「モナミ美容室」の阿南萌奈美さんが付き添う形になる。萌奈美さんは気立ての良い若い美容師さんで親切な人だが、今は年末で大忙し。店も一人で切り盛りしているから、とても手が離せないといった状況だ。美歩ちゃんは当事者だから、今回は候補にしない。というわけで俺の出番かと思いきや、俺は男だから落選。陽子さんは独り身だ。つまりシングルマザー。俺のような素性の知れない男を住まわしてくれているだけでも有難いのに、男の俺と夜道を一緒に歩いて、こんな小さな田舎町では有らぬ誤解や噂話を立てられてはいけない、という陽子さんの心配を気遣って、俺はどうしても必要な時以外は同伴しないことにしている。で、陽子さんとしてはちょっと困っているわけだ。何に困っているのかは、追い追い話すことにするが、まあ、俺も知らぬふりをしているわけではなく、何とかしてやろうと思っている。


 それはともかく、今夜のラーメンだ。夕方、いつもどおり陽が落ちる前に「ホッカリ弁当」のシャッターを下ろした陽子さんは、厨房で片づけと明日の仕込みを終えた後、二階の居間へと上がってきて、美歩ちゃんに「今夜はラーメンにしましょうか」と言った。一階の厨房でも、二階の台所でも陽子さんなら美味しいラーメンの一杯や二杯、簡単に作れるはずなのに、今日は珍しく出前を頼むというのだ。陽子さんもたまには疲れることもあるだろうと俺は了承したが、美歩ちゃんは少し不満そうだった。彼女にしてみれば、今夜はラーメンというイメージではなかったのだろう。出前を頼むなんて、決して裕福ではない外村家としては珍しいパターンなのだが、タイミングが悪かったようで、美歩ちゃんは少しご機嫌斜めだった。そんな状況で、陽子さんが讃岐さんところの「北風ラーメン」に出前の注文をしてから、もう二時間近くが経過していた。それなのに、以来その時まで、ラーメンその他ラーメンらしきものは我が家に届いていなかった。陽子さんも美歩ちゃんも、お腹を空かせた様子で、ただ讃岐さんを待っていた。二人の様子、特に子供の美歩ちゃんが空腹に耐えながら待っている顔が不憫で仕方なかった。讃岐さんが来ないのも不自然だ。それで俺は捜査を開始したというわけだ。


 俺は「ホッカリ弁当」の前に立ち、赤レンガ小道商店街の奥へと目を凝らした。人影は……ない。讃岐さんが駆けてくる姿も見えない。雪の夜だ、今夜は商店街の人たちも早めに店仕舞いしたようだな。どの店も疾うにシャッターを下ろしていた。ちなみに、吾が「ホッカリ弁当」はいつも夕方前にはシャッターを下ろす。早めに店を閉めて、明るいうちに厨房を片づけないといけないからだ。その他にもやるべきことは多くある。その日の夕飯や明日の弁当の材料の買い出し、下校してきた美歩ちゃんの連絡帳の記入、体操着の洗濯などなど、働きながら一人で幼子を育てるシングルマザーの陽子さんは忙しい。使い古した自分のエプロンを買い替える暇もない。スーパーの買い物だって特売を狙って行かなければならない。経済的にも苦しい陽子さんとしては、どうしてもそうしないといけないはずだ。スーパーの特売は大抵が夕方からだ。だけど、暮れなずんでくると陽子さんの目は足元を判別できなくなってしまうので、特売が始まる時間より前に着くよう出かけて、他の買い物をしながら特売が始まるのを待ち、始まったらすぐに買って、帰る。もちろん徒歩で。重い荷物を提げながら明るいうちに帰宅できるよう、陽子さんなりに精いっぱいの努力をしているのだ。それなのに、スーパーは何も協力してくれない。冬になると暗くなるのが早くなるというのに、特売の始まる時間はいつも同じだ。この頃は、特売時間にはとっくに外が暗くなっているから、陽子さんは特売をあきらめて帰ってくる。そうすると少し割高の買い物になってしまうので、この季節は、外村家の家計は当然のごとく苦しくなる。ああ、冬はきらいだ。


 まあ、ともかく、そういう状況でもウチが経営を維持できているのは、大口の固定客が売上に協力してくれているからだろう。もちろん、陽子さんの作る弁当は美味いから、地域の人たちにもそれなりに売れているというのも事実だ。だが、お向かいの信用金庫の人たちや、大通りの向こうの警察署の署員さんたちがまとめて毎日買ってくれる、やはりこれが大きい。しかも、わざわざまとめて受け取りに来てくれるのだから、とにかくありがたい限りだ。これもきっと、陽子さんの人格のなせることだろう。というわけで、陽子さんは毎日売れ残りの弁当を値下げして売れるまで待つなんてことはしなくても、早めの定時に店を閉めることができるんだ。ここの商店街では一番早い時間に。でも、今日は雪だから、他の店も客足の減少を見込んでか、いつもより早く店仕舞いをしたようだ。普段はこの時間ならまだ開いているいくつかの店の明かりに照らされて、この赤レンガ小道も多少は明るさを保っているのだが、今夜は真っ暗……ん?


 あれ? 誰かいるぞ。商店街の奥の方に人影が見える。一人だ。こっちに歩いてくる。周囲の家の明かりを見回しながら。何だろう、怪しい奴だな。

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