1-2 東洋からの留学生

 少年は目をぱちくりさせた。


「新聞なら、自分で買いに行かなくても、使いの人が届けてくれるんでしょ? なのに、どうして……」


 エドワードはお金を少年の手に持たせ、彼の持つ新聞を手にした。


「貴族といっても冷や飯食いの次男坊なので。それに、こうやって自分で街の中を歩いたり、人々の生活を見ている方が楽しい。観察することが好きなんです」

「変わっているんだな……」

 少年がそう呟いた時、

「よく言われます。では、大学に急がないといけないので」


 エドワードは少年に別れを告げ、今度は近くにいた辻馬車の馭者ぎょしゃに向かって声をかけた。


「ウェストフォード大学までお願いします」


 馭者は仏頂面を浮かべ、エドワードから視線をそらした。


「アンタ、貴族だろう? ご自分のところの馬車を使えばいいものを」

「兄が使いますから。それに、僕としては、こちらの方が落ち着きますので。三日前にもお世話になりましたね」


 馭者は目を見開いてから鼻で笑った。


「こりゃ驚いた。俺は一日に何人も客を乗せているから、客の顔なんざいちいち覚えちゃいねぇが、アンタみたいな変わりもんはそういねぇからな。貴族のくせにわざわざ辻馬車を使う輩なんざ、否が応でも覚えている。だが、それは客のアンタも同じことだろう? その様子じゃ、毎朝この辺で馬車拾って、大学までかよってんだろうよ」


 なおも皮肉めいた物言いを続ける馭者に対し、エドワードは愛想笑いを浮かべる。


「記憶力には自信がありますので。講義の時間もありますから、お願いできますか?」

「ふん、乗りな」


 馭者はエドワードを車内に通し、馬を走らせた。エドワードの通うウェストフォード大学は、ロンドンの中心部からはやや西側に位置するが、国会議事堂やバッキンガム宮殿からは馬車で行ける距離にある。

 エドワードにとっての日課は、街を行きかう人々を車内から観察することだ。彼の動体視力や記憶力はめざましく、人々の服装や表情を瞬時に捉え、記憶することができる。

 いつものように、人々の様子を窓から観察していたエドワードの目に、ある男の後ろ姿が映りこむ。男はこうもり傘をさし、悠然と人々の間を通り抜けていた。


「おや? 大雨でもないのに傘をさして歩いているとは、珍しい」


 彼がそう考えているうち、馬車は男を追い抜こうとしていた。その瞬間、彼の青い目が男の横顔をとらえる。


「中国人? それとも……」


 切れ長の目に黒髪――顔つきから東洋人に違いないだろう。エドワードはそう断定する。

 だが、その男は英国紳士たちの間に入っても劣らないだけの身長で、それどころか人々を見下ろしさえもしていた。通り過ぎたのはほんの一瞬の出来事であったが、その光景はエドワードの脳裏にしっかりと焼き付いていた。

 大学に到着し、エドワードが金を差し出すと、馭者はふんぞり返った様子で受け取った。


「別にアンタに恨みがあるわけじゃねぇが、俺は貴族がどうも好きになれねぇ。俺の行きつけにしている酒場が、貴族たちのせいでどえらいことになったって話だ。庶民の憩いの場を何だと思っていやがるんだろうな」

「酒場ですか? いったいどこの?」

「パブ・コンスタンスさ。繁華街の。それとも、アンタみてぇな、いかにも利口そうなボンボンには無縁な場所だったか?」


 店名を聞くや否や、エドワードは言葉を詰まらせた。ややあって、首を横に振る。


「……むしろ、その逆ですよ」


 怪訝な表情を浮かべる馭者に構うことなく、エドワードは法学部棟へと向かった。

 その後彼は、いつもどおりに淡々と補講をこなした。夏休み中ということもあり、学生の数はまばらだが、追試の対象となった者や、真剣に勉学に取り組む者たちを相手に、エドワードが独自に行っているものである。無論、学長の許可は得ている。

 正午。街の象徴ともいえるビッグベンが十二回の鐘の音を刻む。

 エドワードは黒板に書く手を止め、学生たちの方へ振り返った。


「本日の講義はここまで」


 と、講義の終了を宣言したところで、彼の視線は教室の後方へと向く。

 彼は瞬時瞠目するが、まもなく学長から言われた言葉を思い出し、我に返った。


「追試の対象になっている者は、今日の内容から一問は試験に出すので、しっかり見直しをするように!」


 追試の対象者と思われる学生数名からはどよめきの声が上がったが、まもなく彼らは教室を後にする。学生たちが続々と退出し、がらんどうとなった教室の中で、「さて……」と一言口にしたエドワードは、再び後方へと視線を向け、歩みを進めた。

 エドワードの向かう先には、一人の男の姿があった。黒い背広に身を包み、こうもり傘を持ったその男は、先程の講義の内容を綴った自身のノートを懸命に見返している。


「新学期には、まだ少し早いかな」


 エドワードの放つ優しげなその声に、男は驚いた様子でノートを机の上に置き、背筋をピンと伸ばして席を立った。東洋人を思わせるような顔立ちで、目はきりっとしている。背は一七二センチメートルあるエドワードよりも十センチメートルぐらい高く、肩幅も広い。


「思った通り……かなりの大柄だね。日本からの留学生かな?」


 男は、自身を見上げるエドワードに向かって、静かにお辞儀をした。


「はい。私は、日本政府からの要請でこちらへ学びに来ました。夏目総十郎なつめそうじゅうろうと言います」

「丁寧なあいさつをありがとう。やっぱりそうだったんだね。君のことは学長から聞いているよ。自己紹介が遅れたね。僕はエドワード・マイヤー。この大学で主に法律学を教えている。君のことは夏目って呼ばせてもらおうかな。早速だけど、夏目。政府からの依頼でここへ来たと言っていたね。ということは――君は日本の学生ではない、ってことかな?」


 夏目は首肯した。


「日本の官僚ですが、大学を卒業してまだ三年ほどの若輩者です。イギリスの議会制度や法について学ぶよう、政府から指示があったもので。これからの日本のため、二年ほどこちらでお世話になることになりました」

「大学を卒業して三年? 夏目、年齢は?」

「二十五歳です」


 エドワードは瞠目した。


「僕と同い年だよ。これは驚いたな……学生の中に混じっていても、全く違和感がない」

「そ、そうですか?」


 戸惑う夏目に対し、エドワードはくすっと笑ってみせた。


「そんなに固くなることはないよ。新学期にはまだ一週間近くある。それまではロンドンの街並みを見物したりして、ゆっくり緊張を解きほぐすといいよ」


 そう言い残し、エドワードは講堂を後にした。

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