エドワード・マイヤーの事件録

櫻井 理人

第1部 ロンドンの切り裂き魔

第1幕 エドワード・マイヤーという男

1-1 悪魔の囁き

 夜の静寂しじまを切り裂く女性の悲鳴が通りに響き渡る。

 直後、息を切らした警官たちの足音が暗闇の中を駆け巡った。

 そのうちの一人が、地面に向かってゆっくりとカンテラを傾ける。カンテラの中でたゆたう炎が照らし出した先には、仰向けに横たわる一人の女性の姿があった。女性は胸から血を流しており、目は見開いたまま――そして、一筋の涙を浮かべていた。


「どうだ?」


 声をかけられたもう一人の警官が恐る恐る女性の手首に触れ、脈を確かめる。しばしの沈黙の後、彼は首を横に振った。


「前回同様、凶器は持ち去られたか。どのみち、これだけ出血してりゃ、助からねーだろうよ」

「やはり、前の二人と同一犯でしょうか」

「ああ、恐らくな。毎度のことながら、逃げ足が速くてかなわねぇ。ホームズがいりゃ、こんな事件なんざ朝飯前だろうによ」

「ホームズって……コナン・ドイルの小説に出て来る、あの?」

「ああ、そうだ」


 そう言うと、彼はポケットからタバコを取り出し、吸い始めた。


「警部、こんな時に冗談はよしてくださいよ。あれは架空の人物なんですから」

「冗談? いや、俺はいつでも本気だぜ。あれぐらいの頭脳の持ち主がいりゃ、どんな難事件もあっさり解決だろ?」


 彼の吐き出す白煙を目の当たりにし、先程まで遺体に向き合っていた警官がわざとらしく咳払いをする。


「まったく、こんな時にタバコだなんて……不謹慎にもほどがありますよ」


 警官たちの様子を、通りの向こうから一人の人物がうかがっていた。うっすらと緩んだ口元で、悪魔のように囁く。


Catch me if you can捕まえられるものなら、捕まえてごらんよ’.


 その声は、煙のように闇夜へと静かに消えていった。






 一八八八年八月二十三日木曜日。大英帝国、首都ロンドン。

 空はどんよりとした厚い雲に覆われ、雨がしとしとと降っていた。辺りは霧に包まれ、夏の終わりを感じさせるような肌寒さである。

 平日の朝だということもあり、人々の往来は絶えることなく、鉄道や乗合馬車は通勤客であふれかえっていた。


「号外、号外! また出たよ!」


 辺りを包み込む霧を払わんばかりに、新聞売りの少年の甲高い声が響く。周辺を歩いていた大人たちは我先にと、金を手に少年のもとに歩み寄った。その群衆の後ろに控え、様子を黙って見つめる男が一人。そのかんに徐々に減っていく新聞。群衆が大方新聞を買い上げたところで、ようやく男は少年に向かって声をかけた。


「僕も一部いただこうかな。まだ残りはあるかい?」

「あるよ。これで最後だけど……」


 そう言いかけたところで、少年は男を見上げ、瞠目どうもくした。


「その恰好……貴族様?」


 金髪で青い目をした若い男。シルクハットにステッキといった整った身なりで、その男はいかにも貴族らしい恰好をしていた。男は少年の問いに対し、笑顔でこう告げた。


「僕はエドワード・マイヤー。ウェストフォード大学の教授です」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る