1-3 パブ・コンスタンス

 研究室に戻るなり、エドワードは大きな溜息をついた。


 ――俺の行きつけにしている酒場が、貴族たちのせいでどえらいことになったって話だ。


 馭者の言葉が彼の頭の中で再生される。


「何があったというのだろう」


 他に誰もいない室内で、エドワードはひとり呟いた。やがて、視線を机の上に落とす。朝購入した新聞の存在を思い出し、広げた。その一面には大きな見出しでこう書かれていた。


 三人目の犠牲者現る 殺人犯の行方未だ分からず ロンドン警視庁お手上げ


 夜中に発生した殺人事件のことが言及され、発生場所はロンドンの繁華街からそう遠くはない路地裏、亡くなったのは二十代前半の女性と思われるが身元確認中と記載されていた。


「これはひどい……」


 エドワードがそう呟いたところで、研究室のドアがノックされた。


「どうぞ」


 ドアを開けると、男が立っていた。封筒をエドワードに差し出している。


「納品に上がりました」


 エドワードは封を切り、すぐさま中身を確認する。数十枚の書類が入っており、文字がびっしりと並んでいる。


「追試験の印刷が終わったんですね。ご苦労様」


 笑顔で男を見送ったエドワードは昼食を手早く済ませ、机に向かった。






 午後六時、エドワードはタイプライターを打つ手を止め、窓の外を見つめた。雨はすっかり上がり、薄暗いながらも雲間からわずかに太陽の光が漏れる。


「気になるな……」


 エドワードは一言呟くと、大学の外へ向かった。通りで辻馬車を拾い、降り立った先は、とある酒場。軒先にかかる看板には「パブ・コンスタンス」の文字――今朝、馭者の男が言っていた酒場だ。

 エドワードは緊張した面持ちで店の扉を開けた。甲高いドアベルの音が響くや否や、エプロンを付けた五十代ぐらいの女性が出迎えた。


「あらあら、久し振りね、マイヤー教授」

「ご無沙汰しています、コンスタンス婦人」


 エドワードは笑顔で挨拶をしたが、次の瞬間店の奥へと視線を動かし、険しい表情になった。


「いつもいる住み込みの方はどうなさったのです? 婦人がわざわざ客の出迎えなんて」


 コンスタンスは辺りを見回し、ぼそぼそと話し始めた。


「アニタのことかい? それがね……あの子、今朝から姿を見せないんだよ。早朝の散歩は、あの子の日課だから、そのこと自体は何とも思わないんだけど」


 次第にコンスタンスの表情が曇る。


「いつもなら昼前には戻って来るのに、さすがにこの時間になっても来ないなんてね。あの子に限って、黙って仕事をさぼることはないと思うし……何かあったのかしら」


 エドワードは懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。


「もう少しで七時か。確かに妙ですね」


 コンスタンスは、辺りをもう一度見回すと、エドワードに小声で耳打ちする。


「それだけじゃないんだ……実はこの店、私のじゃなくなったのよ」

「えっ⁉」


 コンスタンスは、素っ頓狂な声を上げるエドワードの口元を手で制止した。


「声が大きいよ。とは言え、お貴族様を寒空の中立たせておくのも忍びないね……ひとまず裏口から入ってもらおうかね」


 コンスタンスに促され、エドワードは裏口から店内へと入った。エドワードが案内されたのは、ワイン樽の並ぶ酒蔵で、小さなテーブルと丸椅子が中央に置かれていた。


「さあ、座っとくれ。先生には悪いけど、ここぐらいしか落ち着ける場所はないからね。さて、どこから話そうかね」


 コンスタンスは深い溜息をついた。


「この約一か月の間に、いったい何があったというのです」


 エドワードが問いかける。


「まずはそこからだろうね。ガラの悪い男どもが、いきなりうちの店に来たと思ったら、『店を買収する』って言ったのよ」

「それに応じたのですか?」

「もちろん断ったよ。『馬鹿なことは言わないで、店から出て行っておくれ』って。そしたら、『あるお貴族様の命令で来ているっていうのに、逆らう気か!』などとぬかしてね」

「ある貴族?」

「そう言っていたよ。それで、百ポンドを渡されたが、私がさらに抗議すると、『皿洗い、雑用要員としてお前を雇う』と……まったく、身勝手にもほどがあるよ。それからというもの、賭け事の好きな貴族たちが入り浸るようになって、今まで来てくれていた客たちはどんどん遠のいてしまった。おかげで商売上がったりさ」


 エドワードはふと疑問に思った。


「百ポンド……決して安い金額ではありませんね。何の見返りもなしに、その金額を提示したとは考えにくい」

「一時的に百ポンド入ったって、これからの生活を考えればはした金に過ぎないよ。たかだか百ポンドで私ら“Working Class労働者階級”を黙らせようなんて、とんだ虫のいい話だね」


 エドワードはもうひとつの疑問をコンスタンスに投げかけた。


「店に出入りするようになった貴族について、何か心当たりはありませんか?」

「心当たりね……そういえば、決まって出入りする男が何人かいるんだけど、その内の一人が確か……ヘーゼルダインとかって呼ばれていたわ」

「ヘーゼルダイン? その名前なら前に兄から聞いたことがありますね」

「本当かい?」

「はい、その家の当主が最近議員になったという話を……これは何かありそうだ。一旦ここを出て、正面から入り直しましょう。何か分かるかもしれない」

「いいのかい? 先生」

「構いませんよ。せっかくの憩いの場を奪われては、僕としても困りますからね」


 エドワードは裏口から出ると、再び何食わぬ顔で正面から店内へと入った。コンスタンスが出迎え、席へと案内する。


「あいつらだよ。カウンターの近くで賭け事をやっている」


 コンスタンスはエドワードに耳打ちをした。


 エドワードが店の奥へ目をやると、カウンターの前にある広めのテーブルと装飾された派手な椅子が目に入る。


「あのテーブルと椅子、以前はありませんでしたね」


 新しく購入されたものだろうか。彼の知る本来の店の雰囲気とはとても不釣り合いな物だった。

 そこでは、四人の男たちがポーカーで盛り上がっていた。そのうちゲームに参加しているのは二人。残りの二人はゲームの様子をうかがい、ヤジを飛ばしたり、どよめきの声を上げたりしていた。


「フルハウスだ!」

 勝利を確信したのか、エドワードから見て右手にいる男が大声を上げた。

 だが、その向かいにいる男は、ほくそ笑むような表情をするばかりで、右手にいる男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……何がおかしい?」


 声色を低くし、向かいの男を睨む。


「お前の負けだ」


 そう言い放った男は自分の手札をテーブルに置いた。

 フォーカード――フルハウスよりも高い役である。右手にいた男は悔しそうにテーブルを叩き、無言になった。

 エドワードは、鷹のような鋭い眼差しでゲームの様子を眺めていた。まもなく、「そういうことか」と呟き、コンスタンスに耳打ちをする。


「イカサマです」

「イカサマだって⁉」


 コンスタンスは仰天した。


「しっ、声が大きい」


 エドワードから注意を受け、今度は小声で尋ねる。


「……分かるのかい?」

「ええ、一瞬ではありますが、僕の目にははっきりと」


 エドワードの声色は変わらず優しげであるものの、目つきは鋭いままだった。彼と同じものを眺めていたはずが、どうして自分には分からないのか――コンスタンスは腕を組み、先程の男たちの様子を頭の中で再生してみるが、どうにもさっぱりである。

 エドワードは、そんな彼女の様子には目もくれず、おもむろに席を立った。


「ちょっと先生、まさか本人に直接言うつもりじゃないだろうね。危険だよ」


 コンスタンスが慌てて声をかけるが、言い終える前にこちらを振り返ったエドワードの瞳には「確信」という名の炎が灯っているようであった。コンスタンスは言いかけた残りの言葉を飲み込んだ。


「大丈夫」


 微笑を浮かべ答えたエドワードは、先程ポーカーで勝った男の元へと近づいた。


「ポーカーが強いようですね。もし宜しければ、僕と勝負をしてもらえませんか?」


 エドワードが話しかけると、男は瞠目した。


「まさか伯爵家の……」

「エドワード・マイヤーです。伯爵家と言っても、僕は冷や飯食いの次男坊ですがね。そういうあなたは確か……男爵の、ヘーゼルダイン卿では?」

「伯爵家にまで名を知られているとは光栄ですな。ヘーゼルダイン家当主のジョージです」

「ええ、兄から最近貴族院議員になった方だと聞いていましたので」

「これは、これは……あなたのような伯爵家の方がポーカーをされるとは」

「一種の戯れです。ここは僕にとって憩いの場ですから」

「だが、良いのですかな? 伯爵家が相手でも、勝負というからには手加減はしませんよ」


 ヘーゼルダイン卿は不敵な笑みを浮かべる。


「ええ、ぜひとも。こちらも臨むところです」

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