Aurora

武沢 悠

Aurora

ミサキさんの涙を見て、わたしはオーロラの事を思い出した。


いつか、二人でオーロラを見に行こう。それが男の口癖だった。男はわたしを蹴ったり殴ったりした後、決まってそう言った。わたしの髪を撫でながら。


どうして男がオーロラに執着しているのか、わたしにはわからなかった。オーロラはTVや写真で見たことがあるだけで、どうしてオーロラができるのかも知らなかった。その事を聞いた時、男はそんな事も知らないのかという顔をしながら教えてくれた。


オーロラは太陽や月や星とは、また別の理由で光を出すらしい。正確に言うと太陽と関係あるらしいけど、太陽風が地球の磁気圏を通り抜ける時に起きる放電現象で発生するらしい。難しい理屈はよくわからない。ただ、普段わたしを照らす光とはまったく別の光に、わたしは強い興味を持った。


でも男がわたしの前から姿を消した後、オーロラの事なんかすっかり忘れていた。








外ではシトシトと細く長い雨が降り続け、遠くには街の灯がぼんやりと輝いていた。近づくと下品な感じのするネオンの輝きが、遠くからだと美しく見える。わたしはその景色を飽きるぐらい眺めた後、笛吹きの音色に誘われる子供のように街へと歩きだした。


緑色のビニール傘に当たる雨音がパラパラと鳴り続ける。古くなったコンバースのスニーカーが水たまりの上を歩く音が時折重なる。やがて人のざわめきが強くなり、近くを走りぬけたステップワゴンのうるさい排気音が消え去った頃、わたしはミサキさんに再会した。


ミサキさんは2つ年上で笑顔が印象的な人だった。ミサキさんはわたしに声をかけた後、仕事は今何をしているのかと聞いてきた。何もしていない。わたしはそう答える。貯金はもうすぐ底をつき、財布の中には千円札が2枚だけだった。よかったら私の職場で一緒に働いてみないかと、ミサキさんは言った。ミサキさんの仕事は知っていたし、抵抗もとくにはなかった。わたしは頷き、ミサキさんに連れられていった。


そうやってわたしは、風俗で働くことになった。


お店はそんなに有名なとこじゃないらしかったけど、それなりに客の入りはあった。中にはヘンタイな人もいたけれど、大半は普通の人っぽかった。こういう店に来る人はもっと変わった人のほうが多いと思っていたのは、わたしのヘンケンだったのかもしれない。もう一つ意外だった事がある。わたしは今までこういう店では、ただヤって終わりだと思っていたけどほとんどの人がわたしにイロイロな事を話しかけてきた事だ。わたしの事を知りたがっていた人も中にはいるけど、自分のことを話す人がほとんどだった。中には愉快な話もあったけど、大半は嫌な話、暗い話、愚痴に不満だった。話しだすうちに泣き出す人もいた。そんな時、わたしは訳もわからないまま彼らの顔を胸に押しつけ、ただ頭を撫でた。そうすると彼らは次第に泣き止み、照れくさそうに笑った。


弱い生き物なのよ。


ミサキさんは戸惑っていたわたしにそう呟いた。








ミサキさんが泣いたのは、わたしと二人きりのロッカールームでの事だった。別に特別な話をしていたわけでもない。今年流行りそうな服や、新しくオープンしたイタリア料理の店の事だとか、そういう何気ない会話の最中だったから、あまりにも突然だった。


本当は、ミサキさんは泣いていたわけではないのかもしれない。ミサキさんは涙を流している間、声一つ出さなかった。ただ涙が溢れただけという感じだった。わたしはどうすればいいかわからないまま、ミサキさんが涙を止めるまでじっと見ていた。そして、なぜかオーロラの事を思い出した。


ミサキさんが涙を止めた後、大丈夫ですか。とわたしは言った。何でもないの。ミサキさんはそう答えた。ミサキさんの涙を見たのは初めてのことだった。


その日からミサキさんは店に来なくなった。その事をわたし以外の誰も気にしていない。この業界はそういうもんだ。店のオーナーはそう言っていた。








わたしの頭の中から、オーロラの事は消えなかった。ミサキさんの涙を流す姿も、わたしの中からは消えなかった。わたしもいつかきっと、あんな風に涙を流すのだと思った。涙が溢れ出すのだと思った。


わたしの体には穴がある。降り続ける粉雪のように、そこにはいろんな物が溜まっていく。太陽の輝きも、月の光も、星の瞬きも、その穴の中には決して届くことはない。深いのか、浅いのか、広いのか、狭いのか、それすらもわからないけどわたしにはわかる。わたしの体には穴がある。


いろんな人がそこに、いろんなものを投げ込んでいく。わたし以外の人たちが、いろんなものを投げ込んでいく。わたしはただ、それを受け入れていく。そして、いろんなものが途切れる事なく溜まっていく。


いつかお金を溜めたら、オーロラを見に行こうと思った。寒い北の大地で、空に広がるオーロラを見ようと。








冷たい空気の中で、薄暗い空一面にオーロラが広がった時その柔らかな光の粒が、わたしを包んでくれる。そして、ありとあらゆる色に輝きながら、わたしの穴を照らしてくれるだろう。


そうすれば、わたしはきっと救われる。


いつになるかわからない。どれだけかかるかわからない。それでも、オーロラを見に行こうと思う。強くそう思う。








わたしが涙を流す前に。

わたしの中から涙が溢れる前に。

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