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その女の子は、川岸の小さな岩に、ひとり呆然と座っていた。
美空スズカ、小学五年生。
しっかりと整った茶髪のボブヘアに、愛らしくきれいな顔。
神奈川に住む彼女は、空を飛びたいというささやかな夢を胸に抱いて、
このキャンプに参加した。
パラグライダーと熱気球を一度に体験できるキャンプなんて滅多にないし、
高いところも大好きだ。
ただスズカは、そんな自分のことをはっきりと口に出せるような子ではなかった。
スズカは、他の子が怖くて仕方ないのだ。
自分は生まれつき、流暢にしゃべることができる口ではなかった。
普通に話そうとしても、どうしても言葉がたどたどしくなってしまう。
くわえて、ぼうっとしやすい性格なので、
これまでたくさんの子に気味悪がられ、いじめの脅威にさらされてきた。
今とはべつの、前に通っていた小学校でのこと――一年生の頃から、
上級生やクラスメイトに『気持ち悪い!』とののしられ、さんざんいじめられた。
それなのに、親からは、強い子になりなさいといつも言われていたので、
担任の先生にもいじめの事実を隠してばかりだった。
この頃のスズカは、心根の強い子だったのだ。
三年生の春、いじめが落ちついた頃……
スズカは他の子との距離を埋めようと考えた。
その手段として、勉強やスポーツに熱心に取り組み、学習塾にも通った。
そして四年生の夏、ついに学年内でトップ成績者にもなったのだ。
学習能力が悪くなかったことが功を奏したに違いない。
つっかえ気味な口調は治せなかったものの、
それをきっかけにクラスでの地位が一気に高まり、
毎日いっしょに話をしてくれる友達を何人も獲得できたのだ。
(わたし、もう、ひとりじゃないんだ。
これからは、ずっと楽しく生きていけるんだ)
しかし、忘れもしない今年の冬。
心をえぐるような、ある辛い体験をした――。
それがもとで、スズカはやっとの思いで作った友達をみんななくした。
それだけじゃない。他人と話すのも極端に怖くなったし、
そのうえ、子どもたちの一塊に加わるのも、厳しい状態にまでなってしまった。
他の子とむかいあうたび、四年生にして味わわされた、
あの何を言っても無視される孤独な日々が胸をよぎり、
言葉が枯れ花のようにしおれてしまう。
集団の中にいれば、
話している子たちの面白がって笑う顔が、怒る顔が、悲しがる顔が、
すべて自分にむけられた刃のように、胸にささってくる。
人を馬鹿にするような目や、冷たく射すくめるような辛らつな視線が、
今にいっせいに自分へむけられるのではないか。
そんなありもしない恐怖にさいなまれる。
当時の絶望と苦しみが胸に蘇って、息がつまる。
(がんばったのにな……わたし、あんなにがんばったのにな……)
つらすぎて、親以外のだれにも話せない。
心のなかに居座り続けて体を支配する、蓋をかぶせたくなるような暗い思い出。
今年の春、非難の目を逃れるために新しい学校に転校したものの、
不幸な思い出からは解放されなかった。
だから、そんな苦しみにたいするなぐさめをもとめる気持ちで、
このキャンプに参加したのだ。
空を飛べれば、あの大好きな高い空へ上ることができれば、
少しの間でも、この苦しみを忘れられるような気がするから。
それまでは、他の子たちがあまり来ない、テント群から少し離れたこの川岸で、
ひとりすごしているのが一番だと、スズカは考えた。
(みんな仲よく遊んでる。でもわたしが、あの輪にくわわることはない……)
川面を渡る冷たい風を受けながら、心の中でそうつぶやいた。
六歳のことだった。
お母さんや妹と参加したパラグライダー体験会。
スズカは、インストラクターだったお父さんとふたり、タンデムで空を飛んだ。
その時に知った、大空を華麗に舞う素晴らしさ。風の気持ちよさ。
森や家々の真上をすべるように飛び越していく、あのなんとも言えない高揚感。
鮮やかなフィルムのようにありありと思い出せる。
たとえ過去をすべてぬぐい去れても、この思い出だけは忘れたくない――。
「おーい、スズカさーん! おまたせしましたあー!」
川上にのびる道から、トキオの声が飛んできた。
スズカは、はっと身をちぢめた。
見ると、ケントをはじめとした同じ班の子たちがやってくるところだった。
その一番後ろには、ハルトの姿がある。
何やらひとりだけで物思いにふけっているような顔だ。
「いやあ、すみませんでした。みんなですぐ戻る予定だったんですけど……」
「いろいろあって、話しこんじゃったの。
まあ、ハルトくんが面白いことしてたのもあってね」
帰ってくるなり、東京の四人組は、次々に話しかけてきた。
「それにしても、あっついなあ。みんな熱中症に気をつけないとな。
スズカさん、せめて帽子くらいはかぶったほうがいいよ?」
「ホントだぜ、ぼうっとしてたら倒れるって!
帽子持ってるならかぶったら?」
スズカはだれにも言葉を返すことはしなかった。
どうしてみんな、わたしに声をかけたがるの?
わたし、だれとも話したくないのに。
思えばこの四人は、妙になれなれしい態度で、
いろんな子にかまわず話しかけていた。
スズカは、四人の話す顔が嫌で、なぜだかハルトの顔を見てしまった。
ハルトは、思いがけないスズカの視線を感じると、
はっと驚いたように目を丸くした。
そこはかとなく、安心させるようなおだやかな目つきの男の子。
優しそうなだけでなく、ほどよく他人との間を開けてすごすのが上手そうな子。
キャンプ場に来る前の、バスに乗る前の集合場所で、
ひと目見た時からなんとなくそう思っていた。
「おい、ちょっと聞いてる? 帽子、かぶったほうがいいってば」
ケントがむっとした顔でそういうと、スズカは、ひゃっと小さく叫んで、
岩の上に両足をかかえて顔をうずめてしまった。
「ケントくん、スズカさんを怖がらせて、どうするんですか」
「あー、わりい……」
ケントが申しわけなさそうに頭をかいたその時だ。
「おーい、そろそろ集合の時間だぞー! リーダーテント前に急げー!」
川下のほうにある階段の上から、
キャンプ引率者のお兄さんが両手をメガホンにして、ハルトたちをよんだ。
「あ、そろそろお楽しみゲームの時間じゃないかしらン?」
「何をやるんだろうねえ。ほら、早く集合しなくちゃ」
アカネとタスクののんびりとした歩き出しにあわせて、
ケントとトキオもテントのならぶところへむかった。
少し遅れて、スズカが岩から立ち上がった時だ。
ふいに、ハルトとまたしても目が合った。
その瞬間、ふわりと風が吹き、時間が止まったような気がした。
サワサワと木々の乾いた葉音が川辺にさえわたり、
木漏れ日がふたりの固まった表情をなでた。
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