いつつめの話 「 ホットミルク 」


 なんとなく気持ちが急いて、何でもいいから何かをしなければと追い立てられているような気持ちになる日。どきどきと、早鐘はやがねを打つような鼓動がおさまらない日。そんな日に、私はホットミルクを作ることにしている。

 このためだけに買った、白をベースに紺青こんじょうの繊細な模様が入ったミルクパン。牛乳を温めるためだけに使う、ちょっとお値段の張った、でも長もちするらしい、品質の良い片手鍋。は熱が伝わりにくいような構造になっている、というふれこみ。そんなミルクパンを使って、私は、私自身の気持ちを落ち着かせるために、自分のためだけに、ホットミルクを作る。

 ゆっくり、じっくり、弱火で。ことこと、ふつふつ、と微かな音がするくらいの弱火で、牛乳を温めていく。それでも、誰もが寝静まって、針の落ちる音すら大きく響くような深夜には、ことこと、ふつふつ、という音もよく聞こえる。その音は、やがて、自分の外側にある音なのか、それとも内側から湧き上がってくるのか、だんだんわからなくなってくる。それは、だんだんと気持ちが落ち着いてきている証拠だ。けれど、そこで焦ってはいけない。焦らず、急がず、ただ、音だけに集中してみる。ことこと、ふつふつ。その音だけに、耳を澄ませる。

 ぷつぷつと、細かい泡が立ち始める寸前に火を止める。ミルクパンの真上に、かすかに、白い湯気が立つぐらい。充分に温まったそれを自分専用のマグカップに移して、少しだけ、蜂蜜をいれる。

 やけどをしないように、少しずつ息をふきかけて冷ましながら、蜂蜜入りのホットミルクをゆっくりと飲む。

 ほう、と吐いた息は、ホットミルクと同じ色。室内なのに、こんなにも寒い。靴下とスリッパを履いていなかったら、私は足の裏から少しずつ凍りついてしまったに違いなかった。なんとなくデザインにかれて買った「着る毛布」も、こんなに役立つとは思わなかった。着る毛布と靴下とスリッパは外側から、そしてホットミルクは体の内側から、私を温めて、満たしてくれる。

 そこで、私は、やっと、さっきまでの私には何かが欠けていたと気づくのだ。

 きっと、それに気づける余裕もないぐらいの切羽詰まった状況だったのかもしれない。そのことに気を配る余裕も失うくらいに、欠けたところを無理矢理にでも補おうと必死だったのかもしれない。けれど、そうやって無理をしたところで自分は欠けていくばかりで、落ち着きを失うばかりで、自分でも気づかないうちに私はほろほろと崩れていく。まるで、少しのひび割れが致命的になってしまう硝子細工ガラスざいくみたいに。

 けれど、今は、きっと大丈夫。

 少なくとも今だけは、きっと大丈夫なのだ。

 心も体も、じんわりと温かさで満たされ、とりあえず明日も頑張るために眠ろうかな、という穏やかな考えをもてるぐらいには、私の心は満たされている。「眠らなきゃ」「明日も頑張らなきゃ」という強迫観念めいた考えなど、どこかに消えていった。とりあえず、明日のことは明日考えればいい。今は、穏やかな眠りを、心置きなく享受すればいいのだ。

 私は、ホットミルクを飲み干して、ベッドに戻った。体中に広がる温かな幸福と、やわらかくて温かい掛け布団が、私を、穏やかで温かな眠りへと導いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜を飲む 鍔木シスイ @Kikusaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ