第20話番外編夏祭り

真昼を少し過ぎた頃、広場にぞくぞくと人が集まってきた。

律は晴翔と共に関係者席に座った。


始まりの笛が鳴り響き、馬に跨った一団が駆けながら入場してくると歓声が上がった。

まずは弓術の披露からだ、伊織が馬を走らせ弓を構えると、疾走する馬の上から矢を放った。

矢は見事に的の中央を射抜いた。続けざまに2本の矢を放つ、全て的の中心に当たると歓声が会場に響き渡った。


続いて光輝が3本の矢を放ち、命中させる。さらに間髪入れず慶が矢を放つと風を切る鋭い音を放ち完璧に中央を射抜いた。


晴翔が律に耳打ちした。「慶は弓が得意なんだ」

「確かに彼の弓は威力があるね、弓に手を加えて異象に対応できるようにすれば使えそうだ。彼の弓を強化できないか考えてみるよ」律は頭の中で早速武器の構想を練った。


弓術が終わると次は剣術だ。

馬から降りた悠成を先頭に颯真、奏多が入場する。互いに間隔を取り立ち並ぶと一糸乱れぬ動きで剣術の形を披露していく、流れるように動くその姿は優美だった。さすがは色気組だなと思った。


律は勝手にこの3人を色気組と名付けていた。悠成も奏多も颯真に負けず劣らず艶やかだった。悠成は切れ長の目に薄い唇が冷たい印象を与える。奏多はクリっとした目にいたずらな瞳を輝かせていた。


剣術が終わると、次は馬術だ、広場に障害物が並べられる。

伊織、颯真、悠成、光輝、慶、奏多が馬上して入場してくる。


6人が四方八方に散らばる、伊織の合図とともに、6人が一斉に駆け出し人の身長ほどの高さの障害物を軽快に飛び越えると、歓声が上がった。


適当に飛んでいるわけではないようで、伊織から颯真へ、颯真から悠成へと、順番に流れるように馬を飛ばせるために、障害物を置く場所、馬の速さを調整して飛ぶ瞬間を合わせているようだ。


6人は最後に広場を1周して退場していった。


最後の競技は紅白戦だ。先ほどの6人に加え、22人が入場してくると一際高い歓声が起こった。


「ふーん、みんなこの競技が一番好きみたいだ、すごく盛り上がっているね、今から何やるんだ?」律は期待に胸を弾ませた。


晴翔が律に試合の流れを説明した。「対抗戦だ、攻撃と守備を1回ずつ行う、守備側は投手と捕手、野手に分かれる。攻撃側は2人1組で打者と走者に分かれる、投球を打者が打つと、打者は走者の、走者は打者の方向に向かって走る。球が戻ってくる前に左右に立てられた木の棒まで走り切れば1点だ、1往復できれば2点、守備側が木の棒を倒すまで続く。

守備側に木の棒を倒されたら、打者と走者は交代だ。守備側が10回木の棒を倒すか、制限時間を超えると攻守交代する。後攻が逆転した時点か、試合終了時に得点が多いチームが勝ちだ」

「楽しそうだけど、紅組は伊織君と颯真君だろ、白組は悠成君と、光輝君と慶君と奏多君か、どっち応援していいか迷うな」


試合開始の合図が鳴った。


白組の投手悠成が球を投げ、紅組の打者伊織が球を打つと、飛んで行った球を白組の野手たちが拾いに走った。

球を拾った選手が柱に向かって投げるが、颯真に打ち返されてしまった。


「そうか!打者はただ柱の間を行ったり来たりして得点を稼ぐだけじゃダメなんだな、返ってきた球を打ち返さなきゃならないのか、これはなかなか大変だな」律は試合の早い展開に沸き立ち興奮した。「去年はどっちが勝ったんだ?」

「去年は悠成たち白組が勝った、だから伊織たちにとっては雪辱の戦いなんだ」


打者が球を打ち返す度、野手が木の棒に球を当てる度に歓声が起こり、会場中が大騒ぎだ。


そんな中、小金を稼ごうと少年たちが観戦客に飲み物や食べ物を売り歩いていた。

律は少年に声をかけた。「ねえ、君、酒とつまみある?」

少年は首にかけた手ぬぐいで汗を拭いた。「もちろんありますよ。俺が売る酒は一級品なんです。すごく美味いので是非、つまみは俺のばぁちゃんが焼いた香ばしいイカ焼きです」


「イカ焼き!いいね!じゃあ酒は4合瓶を1本ちょうだい」律は大喜びだった。

「ありがとうございます!50宝になります」

律は50宝少年に渡した。「酒がなくなるころにまた戻ってきてね」

「よろこんで!」酒がなくなるまでどのくらいだろうか、今日の売り上げは期待できるかもしれないと思った少年は、ばぁちゃんに土産を買って帰ろう、果物なんてどうだろうかと考えた。


律はイカ焼きを頬張った。「晴翔も昔この競技をやったのか?」

「ああ、やったよ。俺たちは負け知らずだった、〈黒岡〉の子供たちはこの試合を見て真似してやるんだ。だから〈黒岡〉の子供たちはほとんどの子が、この競技をやったことがある」


応援する子供たちの目が輝いていた。

「なるほどね、こういうところで子供たちは軍人に憧れを抱いて入隊を志願するんだな」

「そういうことだ、軍に入隊して欲しくてやっているわけではないんだが、結果として功を奏してる」


紅組の選手が全員打ち終わると、攻撃側と守備側が交代した。

白組の1番打者は悠成、走者は光輝だ。

紅組の投手が投げた球を悠成が強打した。遠くへ飛ぶ球を紅組は必死に追った。


「悠成君すごいな、さっき戦ったときにも思ったんだ、剣を打ち付ける力がすこぶる強い」酒をすでに3本飲み干した律は感心した。

「あいつの体は鋼だからな、趣味は体を鍛えることなんだと、変わったやつだ」

「今度触らせてもらおうかな」ちょっと卑猥なことを考えていたら晴翔に顎をつかまれ睨まれた。

「冗談だって、そんなこと絶対しないから離してよ」晴翔がつかんでいた顎をそっと撫でた。


白組の打者が打った球が戻ってくる前に、走者が木の棒を往復できれば白組の勝ちという場面で、歓声を上げて試合を観戦していた者たちが静まり返り球の行方を、固唾をのんで見守った。


伊織が滑り込んで球を拾い、颯真の方へ向かって投げた。受け取った颯真は木の棒めがけて勢いよく投げた。

ほんのわずかの差で、颯真が投げた球が木の棒へ早く辿り着いた。


試合終了の鐘がなると会場から大歓声が巻き起こった。

得点は紅組156点、白組155点「勝者紅組!」審判が声を張り上げる。


酒を売り歩いていた少年に最後少しだけ多めに金を渡して律は6本目の酒瓶を買った。「劇的な最期だった、両者互角って感じで皆が熱狂するのがよく分かるよ、これは面白かった」

「うん、紅組は雪辱を果たしたな来年は白組が雪辱を果たす番だ」


紅組と白組は向かい合って整列し、一礼すると敗者白組は悔しそうに地団駄を踏み退場した。

紅組は狂喜乱舞してお互いを抱きしめあった。


伊織が颯真の足を持って抱え上げると颯真は拳を天高く突き上げ叫んだ。

答えるように群衆から叫び声が上がる。

勝者11人は肩を組んで退場していった。


律は声をかけようかと思ったが、彼らはあっという間に軍の朋輩ほうばいたちに取り囲まれていた。

奏多が颯真の肩に腕を回した。「来年は俺たち白組が圧勝してやるからな、楽しみに待ってろよ」


いい試合だったと白組も紅組の選手を褒めたたえた。

律はお祝いするのはまた後にしようと思い、晴翔と露店を見て回ることにした。


律が晴翔から買ってもらった――賭けに勝ったお礼――陶器製の鳥の水笛をピーピー吹きながら歩いていると、きょろきょろ辺りを見回している颯真に出くわした。


晴翔が声をかけた。「どうした?誰か探してるのか?」

「大佐、律さん、隊長を探してて、皆で集まって慰労会をやろうって話しているんですけど、隊長がどこかへ行っちゃったんです」

「俺、多分居場所知ってると思う。ついてきて」

何故伊織の居場所を律が知っているのか分からなかったが、晴翔と颯真がついて行くと、たしかにそこに伊織がいた。


「団子屋か、毎日必ずあの団子を食べに行っているみたいなんです、そんなにあの団子美味いかな?普通の団子だと思うんですけど」颯真が不思議そうに言った。

「団子が目的なんじゃないと思うよ」律がクスクス笑った。


律が近づいて行くと伊織が気づいて立ち上がった。「律さん、大佐と颯真も揃って、どうしたんです?団子食べますか?美味しいですよ」

「団子美味しそうだね、お姉さん団子3つ頂戴」

律が注文すると茶屋の奥から「はい」と言う可愛らしい声が返ってきた。

その声の持ち主は23歳くらいで背はあまり高くなく、紺地に格子柄の着物を着た女は、色白でコロコロとした丸い顔に、小さな口がとても愛らしかった。


なるほど伊織君はこういう可愛らしい感じの子が好きなんだな、と律は思った。

伊織の隣に律が座り、晴翔と颯真が向かいに座った。

「そういえば2人とも優勝おめでとう、凄かったよ」


伊織と颯真は嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます」

「2人ともすごくかっこよかったよ。ねえ、お姉さんもこの2人の試合見た?かっこよかったよね」団子とお茶を運んできた女に律が声をかけた。


話しかけられた女は屈託なく笑った。「はい、拝見しました。とてもかっこよかったです」

律は明るく快活そうな人だなと思った。


伊織と颯真は照れた。「ありがとうございます」


「お姉さん名前なんていうの?」団子をもぐもぐ食べながら律が聞いた。

杏香きょうかです」

「杏香さんは今日一緒に花火を見に行く相手がいるの?」

暗に恋人はいるのかと聞いたも同然で、そんなことを聞かれると思っていなかった杏香は、ほんのり頬を染めた。


なんと返事をするのか伊織は聞きたいようで、聞きたくない複雑な心境だった今すぐこの場から立ち去ってしまいたいと思った。


「いいえ、私はここから見ようかと思っています」

「ここからだとあまり綺麗に見えないだろう。そうだ伊織君に軍部に連れていってもらうといいよ、あそこはここよりも少し高くなっているからきっと綺麗に見えるよ。晴翔もそう思うよね」

律が何をしたいのか晴翔は理解した。

「それがいい、伊織、杏香さんを軍部に案内してさしあげろ」


この急な展開にまったくついていけない伊織は、先ほどまで赤くしていた顔が青くなってしまった。

返事に困っている伊織を見て杏香は申し訳なく思っているようだった。

「ですが、ご迷惑なのでは……」


「迷惑なわけないよ、こんなかわいい子と一緒に花火が見られるんだから、伊織君だって嬉しいに決まってる」伊織の背中を律がパンパンと叩いた。

団子を食べ終わった律が席を立った。「それじゃあ杏香さん、花火の時間になったら伊織君が迎えに来るから」


店を出ていく律を追って慌てふためいた伊織が店を飛び出した。「律さん一体どういうことですか?なんでこんなことになったんですか!」

「どういたしまして、かわいい子なんだから早く誘わないと他の奴に取られちゃうよ」律の胸ぐらをつかみそうな勢いの伊織に、律は愉快そうに笑った。


珍しく動転している伊織の代わりに、この茶番劇を冷静に見ていた颯真が事実を整理した。「隊長が毎日足しげく通っていたのは団子が食べたかったからではなくて、杏香さんに会いたかったからで、それに気づいた律さんは2人の間を取り持ったってことであってますか?」


「俺って優しいだろう?」律は得意満面の顔をした。

自分の気持ちを知られてしまったことで、伊織の青かった顔がまた赤くなった。


何も言えないほど恥ずかしくて伊織は、穴があったら入りたい、それよりも穴を掘って入ろうと思った。


顔を赤くしたり青くしたり、律にいいように弄ばれている伊織を笑いたくて仕方がなかったが、ここで笑うときっと伊織が傷つくと思って、晴翔は必死に笑いを噛み殺した。「伊織、今夜必ず杏香さんを迎えに行けよ、待たせたら失礼になるぞ」


意識がどこかへ行ってしまいそうになっていた伊織はハッとして答えた。

「――分かりました」

伊織と颯真は慰労会の会場がある酒店に向かい、晴翔と律は軍部に向かった。


晴翔の屋敷に戻ると律は、いつものように晴翔の足の上に座って露店で買ってきた食べ物と酒を楽しんだ、街から舞や楽の調べが聞こえてきた。

「綺麗な音だね」


振り返った律の唇に晴翔が唇を押し当てる。

そっと舌を滑り込ませると、晴翔の口の中に芳醇な酒の香りが広がった。


手から杯を取り上げると、その場に押し倒した。

律の服を乱し肌が露わになると、唇と歯と舌でゆっくりとその肌を味わった。

肌の上を這う晴翔の唇に心地よい温かさを感じて律は身を震わせた。


こうしてじっくり愛されるのが律は好きだった。

何も言わなくても欲しいものを、晴翔は与えてくれた。

全身を這いまわる唇が律の唇を捉えると、晴翔は自分自身を律の中へ深く入れた。


律が背をのけぞらせて衝撃を散らせようとすると、晴翔が律の腰をしっかり抱きしめた。

律の白くほっそりとした首筋に歯を立てて、ゆっくりと揺蕩った。


律はこの焦れったい動きが最初は苦手だったけど、だんだんとこの動きが好きになってきていた。

2人は息の合った動きでお互いを高みへと昇らせた。


晴翔の口で唇を塞がれて、苦しい叫び声が晴翔に飲み込まれると、律は頂点に達した、それと同時に晴翔も律の中に自分を解き放ち、ぐったりと律の上に倒れこんだ。


外からド―――ン!と大きな音が響いてきた。

「花火だ!」と律が叫ぶ。

晴翔は律の上からごろりと横に降りて、窓の外を見上げると大きな花火がちらちらと瞬いた。


「伊織君は上手くやれているかな」律はクスクス笑った。

「どうだろうな、あいつが団子屋に通うようになったのは4年位前からだから、そう簡単にはいきそうもないぞ」

「4年!それは長いな、俺が後押ししてやらなかったら一生あのまま、ただの毎日来る団子好きの兵士で終わってたね」

「俺も伊織はただ団子が好きなだけだと思っていた」


律は晴翔に抱きしめられながら、外の花火を見上げて思った。「そういや、こんなにちゃんと花火見たのって200年前以来だな、あの頃の花火ははまだこんなに綺麗じゃなかったけどね」

「あの時代は、豪華絢爛でとても豊かな時代だったそうだな、街には金、銀や宝玉が溢れかえっていたと聞いた」

「確かに200年前はどこも潤沢だったよ。でも俺は今の時代の方が好きだな」

「何故だ」

「そんなの晴翔がいるからに決まってる」

色っぽく笑う律を晴翔がギュッと抱きしめて口づけた。


「律、会場に行こう、そろそろ美緒さんが舞を披露する時間だ」

「美緒さんの舞かそれは美しいだろうな」

「うん、そういえば庭の修復は終わったのか?」

「まだだ、美緒さんはこだわりが強すぎる……こき使われてるよ。でもさちょっと思ったんだ……母親がいたらこんな感じなのかなって、変だろう?」律が照れた。

「いいや、変ではない、美緒さんは温かい人だからな」晴翔は律の手を取って会場に向かった。


そのころ伊織は黒岡軍の裏山にある、突き出た大きな岩の上に杏香を連れてきていた。


慰労会での話題はもっぱら伊織の『恋人』についてで、散々からかわれた。なんで部下からからかわれているのかと伊織はいじけたくなった。


中佐という立場なので、伊織の姿を見ると自然と周りの者は敬礼する。

恐れていた通り軍部に入るとすれ違う全ての人から敬礼され、伊織が連れている女の子は誰なのだろうかとじろじろ見られ、恥ずかしさでいたたまれなくなった。


杏香も同じようにいたたまれなくなっていたが、理由は伊織に迷惑をかけてしまったかもしれないと思ってのことだった。

「柳澤中佐、申し訳ありません。私図々しく着いてきてしまって、ご迷惑をおかけしてしまいました」


しょんぼりしている杏香を見て伊織は慌てた。「迷惑などでは決してありません。私の方こそ申し訳ありませんでした。部下があなたをじろじろ見てしまい、配慮が足りませんでした」


微笑んでくれた杏香の側に行き、抱きしめたくてたまらなくなったが、細い1本の糸で自分の体を今いるべき場所につなぎとめた。


岩の上に手ぬぐいを敷くとそこに杏香を座らせ、自分も隣に座った。

肩が触れ合いそうなほど近くに――。

こんなに近づくのは初めてで、伊織の心臓の音が激しくなった。


何を喋っていいのか分からず困り果てて、律に指南してもらっておくべきだったと後悔したがもう遅い、なんとかしなくてはと思っていると、北の空が煌々と光った。遅れてド―――ン!と大きな音が響き渡る。


「わぁ!綺麗ですね!」

「本当に綺麗ですね」目を輝かせている杏香をみて、伊織は幸せな気持ちになった。「杏香さんは花火が好きですか?」


「はい、好きです。兄弟たちにも見せてあげたかった」

「何人兄弟ですか?」

「5人兄弟です弟が3人と妹が2人」

「多いですね、私は兄弟がいないので羨ましいです。大佐や颯真とは兄弟のようにして育ったので寂しさは感じませんでしたが、やはり兄弟がいたらなと思うことはよくあります。

そうだ!今度花火を買っていきます。ご兄弟と一緒に花火をしましょう。」

「はい、兄弟も喜ぶと思います」杏香は満面の笑顔を伊織に向けた。


伊織は両手を上げて喜びたかった、ずっと憧れていた女の子と繋がりが持てた。


このまましくじることなく杏香を射止められたら、と思ったところで大事な部分を失念していることに気づいた。

「私が突然訪ねて行ったら、ご両親はびっくりされてしまいますよね、一度ご挨拶をした方が」自分がとんでもない申し出をしていることに気づいた。「いえ、ご挨拶と言ってもそんな深い意味は無くて、ただちょっと自己紹介をするだけで」


しどろもどろになっている伊織に杏香がクスクス笑った。

「両親は柳澤中佐をきっと歓迎してくれます」

「そうですか、それはよかった」

伊織はそれでもご両親に会うならば、ちゃんとしていかないと嫌われたら大変だし、この場合律さんに相談するよりは、父に相談するのが賢明か、だがそれは何か気恥ずかしい気もする。それに紹介しろとうるさく言われるだろう、総督に相談してみようかと思案した。


「今日の武術本当にすごかったです。走っている馬から弓を引くなんてどうやって的を狙うんですか?」

伊織は照れて頭を掻いた。「ありがとうございます。沢山練習しました。杏香さんは馬に乗ったことがありますか?」


「いいえ、ありません」

「では今度一緒に馬に乗りましょう。少し離れたところに秋になると、とてもきれいな桜に似た花が咲く場所があるんです。そこへお連れしたい」

「はい、馬に乗るのも、花を見るのも楽しみです。早く秋にならないかしら、秋が待ち遠しくなってしまいました」


目をきらきら輝かせて、はしゃいでいる彼女の手を思わず握ってしまった。手を放せ!と頭は命令したが、心が放したがらなかった。ここまできたら言うしかないと覚悟を決めた。「杏香さん……私はあなたを好いている……願わくはあなたも私の事を好いてくれたらいいと思っています。だけど無理強いはしたくない、私の誘いを断りたければいつでも断ってくれて構いません」伊織は真剣な顔を少し緩ませて微笑んだ。


「私も好いています」顔をほころばせて答えた杏香を伊織が抱きしめた。

お互いの心臓が苦しそうに脈打った。


抱きしめるなんて早急すぎただろうかと心配になって体を話すと、頬を赤く染めた杏香の唇に目が留まった。口づけしたい衝動に駆られたが、それはさすがにやりすぎだ、強引なことをして怖がらせたくはないと、思いとどまり彼女の肩を抱き寄せ、花火に見入った。


これからゆっくり進んでいけばいい、私たちはこれからなのだから。

そこでまた大事なことを失念していることに気づいた。


夜道は危ない、花火が終われば必然的に伊織が杏香を家まで送り届けることになる。


(ご両親に会ってしまうじゃないか!総督に相談する暇なんてないじゃないか!どうして……軍務なら失念するなんてこと絶対にない、優秀なくらいなのに、どうして今日はこんなにも失念してしまうんだ。)


伊織の頭の中は、ご両親にどうやって挨拶しようかとそればかりで、もう花火どころではなくなった。


翌日伊織は律と晴翔に散々笑われ、長い間部下たちの口の端に掛かることとなった


End

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網の目にさえ恋風がたまる――朱に染まる招き猫―― 枇杷 水月 @MizukiBiwa

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