第19話番外編

夏の日差しが、肌を焼こうと躍起になり始めたころ、黒岡の人々は今日開催される一大行事に胸をふくらませていた。


〈黒岡〉の夏祭りは盛大だ。

14日間続く祭りは――港の広場に茅の輪が組まれ、身に溜まった穢れを落とそうと人々が輪をくぐる――面白がって何度も茅の輪をくぐる子供たちの笑い声に〈黒岡〉が包まれると祭りが始まる。


夜になると、あちこちで連日どんちゃん騒ぎの酒盛りだ。

そして最終日の今日は最も賑わう。


昼の剣術、弓術、馬術などの武術の部に続き、夜からは舞や、楽、劇などの文化の部が人々を大いに楽しませる。


武術の部に参加する兵士たちが、屋外道場で最終の稽古をしている声に律は心地よい眠りから引きずり出された。

「こんな朝早くからあいつらは何をやってるんだ?」

大きな欠伸をして目を擦った。晴翔に抱き寄せられおでこに軽い口づけをされると眠りから引きずり出された不快感が吹き飛んだ。


「武術の演目に参加するから、失敗しないように稽古に余念がないんだ。今から緊張しているんだろう」

「緊張だって?敵と戦っているときは勇猛果敢に突進していく兵士が、舞台の上で命の危険も無いのに緊張するのか?」

「大勢の人の前でじろじろ見られながらだと普通は緊張するものだ」

「ふーん、俺は人前に立った経験がないからよく分からないな」


律はいつも他人からじろじろ見られていることに、どうやら気づいていないようだ。

妖艶な男が銀色の髪を風になびかせて歩く姿に目をとめない者がいるだろうか、思わず見入ってしまうほどの美しさだというのに、晴翔は可笑しくてつい吹き出した。


「何で笑うの?」

「君があまりにも可愛いから、嬉しくなった」

「何か納得がいかない、嬉しくて吹き出すのか?今のは絶対俺の何かに笑ったんだ」律は口を尖らせた。

晴翔は睨んでくる律の背中を撫でた。「何でもないから気にするな、君は変わらずそのままでいて。俺の大好きな律、愛してる」

「そんなふうに言われると怒れなくなるじゃないか、ずるいよ」

まだ口を尖らせている律の手を引いて立たせた。

「朝食を食べに行こう」

顔を洗って寝巻の浴衣から着物に着替えると律は、素直に手を引かれて食堂へ向かった。


晴翔が食堂に入ると、歩いていた者はその場で立ち止まり、座っていた者は立ち上がり、右手をあげ敬礼した。晴翔が答礼を返す。


律が黒岡軍に来て2か月が過ぎようとしていた。

最初の頃は2人が手をつないでいるだけで啞然としたが。

今じゃ手をつないでいるのが当たり前になっているので、食堂に手をつないで入ってきたくらいでは、もう誰も驚かない。


誰もいない2人だけの世界にいるかのように、寄り添い見つめあっていたとしても、もう誰も驚かない。

晴翔が律の腰に手を置いていても、もう誰も驚かない。


晴翔が律の世話を焼くのも見慣れているので、晴翔が律の口に食べ物を運んでも、もう誰も驚かない。


「大佐、何を見てももう驚きはしませんが、見ていると照れます!」伊織は顔を真っ赤にしていた。

伊織だけではなく、晴翔と律が視界に入るものは赤面し俯いていた。

「これでは皆食事が喉を通りません!食堂を立ち入り禁止にしますよ!」伊織が晴翔を諫めた。


「悪かったよ、そう怒るな、もうしないから」そう言い、律の口に運ぼうとしていた卵焼きを自分の口に放り込んだ。


伊織は深呼吸をして自分を落ち着かせた。

「怒ってはいません、お2人が仲睦まじいのは嬉しいのですが、若い者にとっては目の毒です」


伊織に怒られた2人はしゅんとして大人しく食べた。


午前中晴翔は軍務があって執務室に行ってしまったので、律は若者たちの稽古に付き合った。


最初はただ稽古を見ていただけだったが、次第に声がでて、手が出て、しまいには1対14人の試合になっていた。


「ほんの少しでも律さんを切れたら俺たちの勝ちだ」颯真が剣を構えた。

「おいおい、切られても死なないけど痛みはあるんだぞ」律は言葉とはうらはらにニヤリと笑って刀を抜いた。


傍観していた兵士たちが囃し立てる。

騒ぎを聞きつけ大勢が集まってきて、どちらが勝つか賭けまで始まってしまった。


外が騒がしくなったと気が付いた晴翔が、執務室から下を見下ろすと屋外道場に人だかりができていた。

目を凝らしてみると、1人を相手に数人が戦っているように見える。

考えなくともその1人が誰かは分かる、戦っている数人も多分言い当てられるだろう。呆れた晴翔は仕事を切り上げ、降りていくことにした。


律に挑戦を挑んだ14人は、同時に飛び掛かっているというのに切るどころか剣を律に近づけることすらできないでいた、1人、また1人と息が上がってその場にへたりこんだ。


最後の生き残り、伊織は肩を上下に大きく動かし荒い息をして、剣で体を支えながら片膝をついた。「もう……無理……」

「なんだよ、もう終わりか?それで黒岡軍最強の大隊長だって言えるのか?」

律は少しも息が乱れることなく、平然と立っていた。


「言えないな」いつのまにか晴翔が前に進み出ていた。

座り込んでいた14人は弾かれたように立ち上がった。

「大佐!」剣を納めて背筋をピンと伸ばし、敬礼した。


晴翔がうなずくと、彼らは両手を後ろで組んで休めの姿勢をとった。

「この程度で力尽きるなど、言語道断だ、鍛錬が足りないな」

「鍛錬に励みます」伊織は意気消沈した。


「それにしてもお前たちに賭けた者はよほどの博打好きだな、大穴狙いもいいところだ、私は律に賭けたぞ」晴翔が豪快に笑った。

「賭けたの?俺のおかげで勝てたんだから、お礼をもらわないとね」


晴翔は律の腰に手を回したいところだが、今朝伊織に怒られていたので、ぐっと堪えた。

「いいだろう、何がいいか考えておけ」

律は晴翔を引き寄せると、頬にチュッと口づけた。


見つめあう2人を見て、伊織は何を言っても無駄だと悟った。

晴翔は律の腰を無意識に抱いた。「そろそろ時間だ、会場の準備を始めろ」

「分かりました」伊織を先頭に兵士たちがぞろぞろと西の広場へ向かって歩いた。


会場に到着すると兵士たちは、てきぱきと動き設営を始めた。鍛え上げられた兵士たちを一目見ようと街の若い女たちが集まってきた。


女たちの黄色い声に律は聞き耳を立てて、一番人気は伊織だろうと思った。

伊織は端正な顔立ちに、優しい雰囲気を纏っている。女たちが夢中になる気持ちもわかる。


次いで人気なのは颯真だろう、彼はまだ幼さが残るが色気を感じる艶やかさがあるし、何と言っても次期提督だからな人気があって当然だ。


2人を射止めるのは誰なのかなと思っていると、伊織が時折同じ場所に視線をちらちら向けていることに気づいた。ごく自然に振舞っているので、注意して見ていないと気が付かないくらい微かだ。本人も見ていることに気が付いていないのだろう。


伊織の視線の先は、若い女たちが数人集まって談笑している所のようだ、あの中に意中の女でもいるのかなと律は思った。


徐々に仮の道場が仕上がっていく。危険の無いように観客席は少し高くなっている位置に設置されていた。


律はその高い位置に立ってみた。「眺めがいいな、遠くの水平線が見える」

晴翔も隣に立った。「晴れてよかった。体を動かしてるあいつらは暑そうだけどな、そのうち海に飛び込みだすぞ。毎年恒例なんだ」

「今は監督者の晴翔も昔は体を動かして会場を造ったんだろう?」

「兄と一緒にやったよ、それで俺たちも海に飛び込んだ、今の伊織と颯真みたいにな」


伊織と颯真は軍服を脱ぎ捨てて、海に飛び込んだ。

第1大隊が海に飛び込むと口火を切ったかのように、兵士たちが次々に海に飛び込んでいった。


「俺も飛び込んでくる、晴翔も来いよ!」律が海に向かって駆け出した。

晴翔は着物を脱いで下穿きだけの姿で、海に飛び込んだ律を見つめて首を横に振った。


「なあ、みんな、面白いことをしよう」律が水を操って水の柱を作り、兵士たちを1人ずつ押し上げた。

颯真が叫んだ。「俺水の上に座ってる⁉どうなってるんだ」

奏多も叫んだ。「水を操るなんてどうかしてる!」


他の兵士たちもどうなっているのか分からずに恐る恐る身を乗り出して下を見た。


「皆動くなよ!」律がまた水を操って水柱をつなぎ合わせ、1つの大きな壁を作った。


「滑り降りろ!」斜めになった――2階建ての建物ほどの高さ――水の壁を律が勢いよく滑り降りた。「ひゃっほー」


なんてことをする人なんだと思ったが、颯真も勢いをつけて滑り降りた。

「何だこれ!めちゃくちゃ楽しい!」滑り降りてきて、水中に沈んだ颯真が水面に顔を出して叫んだ。

それを聞いて全員が勢いよく滑り降りた。

水面に顔を出した兵士たちは、あまりの面白さにゲラゲラと笑いあった。


律の着物を持った晴翔が声を張り上げた。「お前たち、そろそろ上がって来い昼食が来たぞ」


会場の設営をしている兵士たちの為に、竹皮に包まれた握り飯と焼き鳥が用意されていた。

兵士たちは手拭いで濡れた体を拭き、脱ぎ捨てた軍服を着ると、握り飯に群がっていった。


いつの間にか男たちを見に来ていた女たちは――昼食を食べに帰って行ったようだ――いなくなっていた。

軍服に身を包んだ軍人が、握り飯に我先にと群がる姿は、威厳など皆無だった。こんな姿を見られずに済んでよかった、面目丸つぶれになるところだったと晴翔は思った。


海から上がった半裸の律は晴翔に見つめられた。

「何だよ、晴翔も来ればよかったのに、楽しかったよ」

晴翔は律に着物を着せた。「俺は体面を保たないといけないから、部下と一緒にはしゃぐわけにはいかないんだよ。だからまた今度な」

律は濡れた髪の毛を晴翔に手拭いで拭いてもらった。「そうか、じゃあ今度2人の時に誰もいない海で遊ぼう」


晴翔と律は木陰に座って、竹皮に包まれた握り飯と焼き鳥を食べた。


先ほどの水壁滑りがよほど楽しかったらしく、興奮冷めやらぬ様子でここでも兵士たちは賑やかだった。

黒岡軍の兵士たちは、上下関係を重んじるがよそよそしさは無く皆仲がいい。


颯真は今までで一番楽しい設営だと思った。「律さんまたあれやりましょうね」

「いいよ、今度は難易度を上げていろんな技をやるのはどうだ?例えば立って滑るとか、空中で一回転してから飛び込むとかどうだ?」

「それいいですね、我々だけじゃなくて、市井の人たちにも楽しんでもらいたいな」奏多の言葉に兵士たちは賛同した。


晴翔が窘めた。「律を疲れさせるんじゃないぞ」

しゅんとした奏多に律が言った。「そうだな、奏多君と颯真君は『すい』の特性を持っているから、2人で水を操ればいいよ」

颯真は目を丸くした。「俺に操れるんですか?」

「水を操るのはそんなに難しいことじゃないよ、今度教えてあげる特訓しよう」


晴翔が律に聞いた。「それぞれに特性があるのか?」

「うん、開花できるかどうかはその人の霊力次第だけど、みんな特性を持って生まれて来るんだ。伊織君は『きん』金属を操ることができる。悠成君は『』炎を操ることができる。光輝君と慶君は『もく』樹木を操ることができる。晴翔は『』大地を操ることができる。だけど『火』の性質も持っていると思う。この第1大隊が完璧なのは、奇跡的に調和がとれているからだよ」


晴翔は呑みこめなかった。「何の調和だ」


「木が燃えて火は生まれる、物が燃えれば灰が残り灰は土に還る、土を掘ることによって金属を得ることができる。金属の表面には水が生じる。木は水によって養われる。要するに、晴翔によって伊織君は力を得て、伊織君によって颯真君と奏多君は開花する。颯真君と奏多君によって光輝君と慶君は力を得て。光輝君と慶君によって悠成君は開花する。そして晴翔に還る。君たちはお互いを支えあっているんだ」


晴翔は得心した。「伊織と颯真、悠成と光輝、慶と奏多、この組み合わせは理想的ということか」


律が付け足した。「この中の誰かが1人でも欠ければ全体の輪が崩れてしまう。木は根を張って土地を瘦せさせ、火は金属を溶かし、土は水を濁す、金属製の斧は木を切り倒し、水は火を消し止める。もしそうなればこの隊は共倒れする。これ以上ないほどの完璧な輪だからこそとても危うい」


晴翔がニヤニヤと意地悪く笑った。「じゃあ、誰もかけることのないように律に鬼のように扱いてもらわないとな」

第1大隊の面々は苦笑いした。


昼食を食べ終えると、先ほどまではしゃいでいた兵士たちはよく働き設営に取り組んだ。

その甲斐あって時間通りに立派な会場が完成した。

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