第18話襲撃

その日の夜遅い時間、晴翔と律は縁側に腰かけて涼んでいた。

律は空気を胸いっぱいに吸い込むと、暖かな春の香りに、湿りを帯びた土の匂いを感じた、雨が降る前触れだ。


遠くの方で蛙の鳴き声が聞こえてくる、それに重なるように虫が合唱する。

そろそろ暖かな風が肌を撫でる穏やかな春が終わり、雨音が耳心地いい梅雨が訪れようとしている。


晴翔は胸に寄りかかり鼻歌を歌いながら酒を呑んでいる律を、愛おしく思った。

500年の時を過ごしてきた律の姿は29歳の青年だが、中身は16歳のままなのではないかと思うときがある。

晴翔の心は、律が亡くなった時のことを思いチクリと痛んだが、律が唐突に振り返り、晴翔に口づけると心の痛みは消え去った。


律が言った。「もうすぐ雨が降るね、俺雨って好きなんだ、雨音が周りの音を消してくれるだろう?安心するんだ、そういえば〈黒岡〉にも夏祭りってあるよな?」

「あるぞ、〈黒岡〉の夏祭りは盛大だぞ、港に露店が並んで約14日間夜遅くまで賑わうんだ。最終日には花火も打ち上がるぞ」

律の顔が少年のように輝いた。「花火か!いいね!夏祭り一緒に行こう楽しみだ!」


晴翔ははしゃぐ律の頭に口づけた。

律が晴翔の唇に唇を重ねる、触れ合わせていた唇が次第に深い口づけに変わっていく。


先ほど、風呂の中で一度絡み合っていたが、その熱はもう冷めてしまい新たな熱が燃え上がろうとしていた。


微かに漏れる律の喘ぎが晴翔を煽り昂らせる。

白い首筋に歯を立てると律がうっとりとした吐息を漏らした。


その時、外の木の枝――燕の住処となっている――に止まっていた燕がチュピチュピジーと激しく鳴いた。


晴翔と律は燕の視線の先にすばやく目を向けた、そこは大智の屋敷だった。


「何なんだ!ちくしょう!晴翔、先に行く!」律は窓から地面に飛び降りて飛ぶように走っていった。


晴翔は剣を腰に刺し玄関へ走り、律の下駄を持って後を追った。

律は大智の屋敷まで走ってきて、鍵のかかった扉を力いっぱい開けるとバキバキと音を立てて木の扉が壊れた。


「総督!」大声で叫ぶと、書斎で読書していた大智が、扉を破壊された音に気づき家の奥から駆け出てきた。

「いったい何事だ!」深夜の突然の来客に大智は腹立ちを隠せなかった。

「危険が迫ってる美緒さんと芽依ちゃんを起こしてきて、結界を張る」


大智は急いで美緒と芽依を起こしに屋敷の奥へ走って行った。

屋敷の使用人たちは騒ぎを聞きつけて、自室から出てきていた。

「全員大広間に集まりなさい」大智が使用人たちに指示した。


芽依の寝室の戸を開けると、芽依の傍らに美緒が座っていた。

大きな物音に目を覚ました美緒は、すぐに芽依の様子を見に来ていた。

2人の頭上を蝶がひらひらと舞っている。


「急いで大広間へ行きなさい、芽依は私が抱えていく」大智は美緒を促し、芽依を抱きかかえた。


2人を連れて大広間へ行くと、ちょうど晴翔が壊れた玄関から飛び込んでくるところだった。

律が言った。「晴翔は足が速いんだね。今から結界を張るよ」


律が印を結ぶと、大広間に集まった人たちの周りを金色の棒が格子状に取り囲んだ。


「決して声を出さないで、この中にいれば魔物には皆さんの姿はみえない、だけど声を出せば気配を悟られてしまう」律は泣きそうな芽依に優しく声をかけた。「芽依ちゃんはとても強い子だ、颯真君よりもずっと強い、それはお母さん譲りだと思う。言ったよね蝶が必ず守るって、だから安心していい、声を出さないと約束できる?」

芽依が口を手で覆い、こくりと頷いた。


戸の前でひらひらと舞っていた蝶に律が指示した。「ここにいる人間たちを守れ」


蝶は変化し人の姿に変わった。

穏やかな微笑みをたたえているその顔はとんでもなく美しかった。透き通るような肌は青白く輝き、瞳は薄い瑠璃色で、長い髪の毛は淡藤色。身に纏う衣は流れるように床を這い、その姿はまるで天女のようだった。


彼女は刀を右手に持ち、大広間で一塊になっている人々の前に立ちはだかった。


律は、晴翔と大智に近づいて行った。「馬鹿、馬鹿、俺はなんて馬鹿なんだ、気づくべきだった凪はここも鬼に襲撃させようと企んでたんだ。そんなのちょっと考えれば分かることなのに、2人はここにいて俺が倒す」律は自分の間抜けさを激しく罵った。


晴翔は外へ出ていこうとする律の手を取り、引き寄せるとギュッと抱きしめた。「君のせいじゃない、お願いだから気を付けると約束して」

「ハハハ、俺なら大丈夫だよ、俺が死なないって知ってるだろう?それに俺は強いんだ鬼の1匹くらい楽勝だよ、気を付けると約束するから俺を信じて」

「信じてる」


晴翔は、後ろで見ている大智に構わず、律の唇に唇をそっと触れ合わせた。


「1匹じゃなかった時に備えていて、鬼はでかいだけで賢くない。動きを封じることができれば何とかなる、目を潰せば大丈夫だ」律は晴翔の頬を撫でた。

晴翔はその手を取り口づけた。「分かった、気を付けて」


玄関を出ていく律の後ろ姿を晴翔は見守った。


振り返ると、大智の啞然とした顔に気まずさを覚えた。軍部では誰に見られてもなんとも思わなかったが、兄であり上官となると見苦しいものを見せてしまったと反省し謝った。「――すみません」


「いや、謝る必要はない、まさかお前があんな行動をとるなんて思わなかったから驚いただけだ。お前もやっと大切に思える人を見つけたんだな」

「はい」晴翔の頬がほんのり染まった。

「私は嬉しいよ」


大智はずっと1人でいる晴翔が気がかりだった。

いつかは、最良の伴侶を見つけて幸せになって欲しいと思っていた。

だから相手が誰であっても、素直に嬉しかった。


その時、晴翔の肩に止まっていた燕がチュピチュピジーと激しく鳴いた。


「兄上、何か来ます」晴翔と大智は同時に剣を握る手に精魂を込めた。

外で落雷が轟き犬の遠吠えが辺り一帯に響き渡り、〈黒岡〉を震撼させた。


庭園の入り口に立っていた律に3匹の犬が従うと、律は駆け出した。

律が何を見たのか確認しようと、晴翔と大智は、庭園側に回った。


律と3匹の犬が戦っていたのは、8mほどの巨大な鬼だった。

犬はうなり声をあげて、鬼の足や手に食らいつた。


律は地面から飛び上がり、鬼の顔めがけて刀を振り下ろした。鬼が腕で刀を薙ぎ払う。

律は宙で体をくるりと回転させると、犬が鬼の体を駆け上がって律の体をふたたび押し上げた。


犬の体を足場に飛び上がった律は、鬼の目をめがけて刀を振り下ろした。

律の刀が鬼の目を切り裂いた。


視界を奪われた鬼は、腕をブンブン振って足をバタバタと動かしもがいた。鬼が動くたび轟音とともに地面が揺れる。


大智は律が戦う姿を見るのは初めてで、晴翔や颯真から話には聞いていたが、目にも留まらぬ速さで素早く避け、華麗に刀を振るう姿に呆気にとられ、律が放っている凶悪な空気に震えが走った。


鬼の左腕につかまり反動をつけて飛ぶと鬼の右腕を切り落とした。

切り口に3匹の犬が食らいつき、少しずつ肉を引きちぎっていく。鬼は犬を振り落とそうともがいた。


鬼が犬に気を取られている隙をついて律が一際大きく刀を振り下ろすと、刀が鬼の首を切った。


頭を失った鬼の体は後ろに倒れ、頭は地面を転がった。

律が転がる頭を足で止めた。「お前凪が使役していた鬼だな」

「言わないよ、言わないよ」

晴翔と大智が屋敷から出てきて律の後ろに立った。

「凪は消えた、もう仕える必要ない」

「そうか、そうか」


伊織や颯真たちが屋敷への坂を駆け上がってきた。

飛び起きて来たらしく寝巻の浴衣姿だった。

「総督、大佐、律さんもいったい何が…」

伊織は巨大な体と頭が転がっているのを見て颯真同様、言葉を失い魂が抜けたように放心した。


ぞくぞくと兵士たちが剣を片手に集まってくると律が言った。「あれ、なんだ、みんな起きちゃったのか?」

伊織は気を取り直した。「律さん、あれだけすごい音と地揺れがしたら誰だって起きます、それよりこれはいったい何ですか」


颯真はまだ、目の前の状況を受け入れられず、破壊された自分の生家の扉と、巨大な頭を交互に見ていた。


律が答えた。「鬼だよ、倒したからもう安全だ、皆戻って寝ていいよ」

晴翔が命令した。「解決した。自室に戻って就寝するように」


晴翔の言葉に大智も異論はないようで、いつもの冷静な顔で黙って立っていたので兵士たちは渋々来た道を引き返して行った。


衝撃の波が去って、やっとのことで颯真が声を出したがその声は酷く怯えていた。「父上、母上は?芽依は?」

「中にいる、無事だから安心しなさい」

無事だと言われてもこの目で確かめなければと、勝手に体が動き颯真は家の中に駆け込んだ。


――悲鳴をあげた。


伊織は颯真の悲鳴を聞いて全身の血が凍り付いた。

晴翔が制止する間もなく伊織は家の中へ駆け込んだ。


颯真はおそらく蝶にびっくりしたのだろうと律は当たりを付けた。

大智と晴翔も見抜いていたようで、慌てることなく律と一緒に家の中に入った。


大広間では颯真と伊織が人に化けた蝶と向かい合っていた。

律が入っていくと人に化けていた蝶が、虫の姿に戻った。

伊織と颯真は謎の美女の正体が蝶だったと分かって、強張らせていた全身の力が一気に抜けた。


律がパチンと指を鳴らすと金色の囲いが消えた。

「芽依ちゃん、よく頑張ったね。俺の見立て通りだったよ。君はお兄ちゃんより強い。芽依ちゃんは悲鳴を上げなかったけど、颯真君は悲鳴を上げた」


芽依がクスクスと笑うと、颯真が顔を真っ赤にした。


「蝶に身の守り方を教わるといい、自信がつけばもっと強くなれる」律は蝶が本当に芽依を気に入っていたこともあって、芽依の命が尽きるまで守らせようと思っていた。


美緒の隣に立っていた芽依が駆け出してきて律の腰に抱きついた。


ここにいた全員が心底驚いた。大智と美緒以外、颯真でさえ幼少期以来芽依に抱きつかれたことなどなかったのに、今日会ったばかりの律に抱きついたからだ。


律は芽依の頭を撫でた。「蝶に名前をつけてくれたみたいだね、蝶から聞いたよ『あおい』か、とてもいい名前だ」

蝶もやはり芽依の側にいたいようで、律の肩から飛び立つと芽依の肩に止まった。


普通ならば、娘が男に抱きついてその男が娘の頭を撫でようものなら、腕を切り落としてやるところだが、その男は弟の恋人のようだし何より子供の扱いが上手い、これは芽依にとって他人と関わる、いい機会だろうと思って大智は黙って見ていた。


大智が言った。「もう安全だから、寝室に戻って休みなさい」

大広間に集められた使用人たちは皆自室に引き上げていった。

芽依も美緒に手を引かれ、蝶と一緒に自室に向かった。


律は壊してしまった玄関を見て、これはやりすぎたと反省した。

「総督、玄関を壊してしまってごめん。ただ鍵を壊したかっただけなんだけど思いのほか扉が軽くてさ、それと庭園も――すごくきれいな庭園だったのにぐちゃぐちゃにしてしまった。お詫びに今日はここで見張り番をするよ。凪が他にも何か送ってよこしているかもしれないから」


玄関のことも庭の事も大智は少しも気にしていなかった、それどころか一目散に駆けつけてくれた律に感謝していた。「助かるよ、君がいてくれてよかった、でなければ赤坂軍と同じように壊滅的打撃を受けていただろう。

庭の事は私は気にしていないが、妻に謝った方がいいかもしれないな、彼女が丹精込めて作っていたから」


律が肩を落とした。「庭仕事を手伝って謝ることにする」

大智が笑いながら言った。「それならきっと許してくれるだろう」


律が鬼に命令した。「お前は主人がいなくなったんだ今度は俺に仕えろ」

「分かった。分かった」

「この地を守れ」律の命令に鬼は素直に従った。鬼の頭が裏山てっぺんに飛んで行った。


「山奥で石になって鎮座させたよ。黒岡を未来永劫、災いから遠ざけてくれる」律が晴翔の腕に手を置いた。

晴翔はようやく張りつめていた肩の力を抜くことができた。

「兄上も部屋に戻って休んでください。私は律と一緒にこの屋敷を見張ります」

大智は頷き、屋敷の自室へと引き上げて行った。


晴翔が伊織と颯真に言った。「お前たちも、部屋に戻って寝ろ」

「ですが、心配です」颯真は家族が心配で眠れるとは思えなかった。

律は腰に手を当てて得意な顔をした。「俺がいるんだぞ、妹のことは蝶が守るし、犬たちも見張りにつけるから、安心して寝るといい」


伊織は目が覚めてしまって何かせずにはいられなかった。

「律さんが強いのは知ってます。熊を真二つに引きちぎっちゃうくらいですから、でも私たちにも手伝わせてください、このまま戻って寝るなんてできません」

「ああ、あれね、俺もびっくりした。俺にあんなことができるなんてね。ハハハ。火事場の馬鹿力ってやつだね。」律は揚々とした。


晴翔は2人の気持ちを汲んで指示を出すことにした。「分かった、じゃあお前たちは軍部を見張れ」

「承知しました」駆け降りていく伊織と颯真の後を燕が追った。


律は鬼の体を木箱に吸い込ませると、晴翔と並んで玄関に座った。

さっきまで鬼と戦っていた律の横顔に疲労の色は見えなかったが、死闘を繰り広げたばかりだ。

「君は疲れただろう、寝ていいよ。何かあれば起こす。」

「大丈夫、この程度じゃ疲れたりしないよ。この扉もうちょっと頑丈にした方がいいと思うよ、軽すぎる」

「進言しておこう」


律が晴翔にもたれかかった。

疲れていたからではない、晴翔にくっつきたかったからだ。

晴翔は律の肩を抱いた。


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