第17話異象部立ち上げ
晴翔が翌朝目を覚ますと、律はまだ腕の中で眠っていた。
長いまつ毛、筋の通った鼻、口角の上がったふっくらとした唇、すっきりとした顎、この愛しい人をいつまででも見ていられると思い、自分が恋に溺れてしまっているということが可笑しかった。
律の長いまつ毛が小刻みに揺れた。
起きそうなのか、それとも夢を見ているのか、悪い夢じゃなければいいがと思い、律の背中をそっと撫でた。
律はうっすらと目を開けた。
はっきりとしない視界の中で美しく整った顔を見た。
朝からいいものを見た。毎朝目を覚ます度にこの顔を見ることができるなんて、俺は幸せ者だなと思った。
もう少し眠っていたかったが、晴翔が律のひたいに唇をそっと押し当てたことで目が覚めた。
「律、おはよう」
「おはよう、今日は1日何をするんだ?」
「朝早くから証拠をかき集めた兵士たちが引き上げて来る。それから警政官へそのまま書類と一緒に関係者を引き渡すことになっている。午前中はその対応に追われるだろうな、律も来るか?」
「俺はいいや、午前中は備品庫に行って電信盤でも作るよ」
「助かる、でも無理はするなよ」晴翔は連日の戦闘で律が疲れていないかと心配だった。
「平気だよ、造るのは簡単だから、だけど1人ずつ承認していかなきゃならないから承認させるのに時間が必要だな、黒岡軍の兵士って何人いるんだ?」
「訓練生や支局の兵士も入れるとざっと3000人くらいだ」
「……えっと……3年くらいかかってもいい?」
晴翔は目が点になっている律の背中を笑いながら撫でた。「とりあえず支局は立ち寄った時にするとして、本部の役職についている約300人だけでいいよ」
「よかった、いくら俺でも3000人となると体力がもたないよ、300人くらいなら1日10人として、時々休日をいれて2カ月もあれば承認し終えるかな」
「頼んだよ、そろそろ顔を洗って朝食を食べに行こう」
布団から出て顔を洗うと2人は食堂へと向かった。
晴翔が律に教えた。「黒岡軍の食堂は4つある。1つは昨日夕飯を食べに行った本部の食堂、それから、医所にある食堂と役所の食堂、訓練生の食堂だ」
「だから昨日は兵士しか食堂にいなかったんだな」
「そうだ、以前食堂は1つだけだったんだが、敷地が広くて移動が大変だという意見があってそれぞれの建物に食堂を設けることにした。だからこの食堂で食べなければならないといった決まりはないんだ。でも皆近くの食堂に行くものだから、所属部署によって分かれてしまっている。本当は医所や役所、訓練生たちとの交流のために食堂を利用したいところなんだがな」
「晴翔が率先して別の食堂に行けば、兵士たちも動くんじゃないか?」
「やってみた。他の部署の人たちを縮み上がらせてしまっただけで、あまり効果が無かった」
その光景を思い浮かべて、律が吹き出した。
「それもそうだね、突然旅団長がいつもの平和な食堂にやってきたら、食事も喉を通らないね」
「まるで私が平和を乱しているみたいな言い方だな」晴翔の眉がピクリと動いた。
「だってそうだろう?医所や役所の人間からしたら、でかい剣を腰に佩いているってだけで怖いのに、ましてや大佐に遭遇しちゃったら縮み上がって当然だ」
「遭遇って……私は野獣か?」晴翔が律の顔を覗き込んだ。
「一般人からしたら似たようなものだよ、切られるか噛まれるかの違いしかなさそうだ」
晴翔が眉を吊り上げた。「律!私はむやみに人を切ったりしないぞ!獣と一緒にするな!――まぁでも事務方の奴らが剣を佩いた兵士を怖がっているのは事実だな。部下たちにも他の食堂に顔を出すよう伝えてはみたが、怖がられるから居心地が悪いと言って、結局兵士たちは本部の食堂に集まってしまってる」晴翔は良い方法が無いかと考えを巡らせた。
律は妙案を思いついた。
「もう一度食堂を1か所にして、簡単に移動ができるものがあれば交流も増えるかな?」
「そうだな、簡単に移動できるなら食堂は1か所でいいだろう、そうできれば交流も増えるかもな、だけどどうやって?」
「敷地内は階段があったり坂があったりするから空を飛ぶってのはどうだ?」律が上を見て空を指さした。晴翔も同じように空を見上げた。
「空を?それはいくらなんでも無理だ。律、そんな人間離れした技をどうやって全員に習得させるっていうんだ」
「それは俺に任せてよ、空を飛べるものを造ったらいいんだ」
「なるほど、それは名案だが本当にそんな物造れるのか?」
「さあね、でも出来るかどうかやってみないと分からないだろう?」
晴翔はそんな夢物語実現するはずがないと思ったが、でももしかすると律にならできるかもしれないと少し期待した。
2人はワイワイガヤガヤと賑やかな食堂に入った。
律は若者たちに囲まれ『いつ妖術を教えてくれるのか』とせっつかれた。
晴翔が言った。「昨日君が言っていた霊力を放つ方法を数人の兵士に教えてくれるか」
「いいよ、お堂でやろうお堂はその場所自体に霊力が漂っているから、練習するのにちょうどいいんだ」
「昼食までに俺の仕事が片付いていれば、昼食の後にお堂へ行こう」
若い兵士が律に朝食の盆を持ってきてくれた。
白米にみそ汁、鯵の塩焼き、胡麻豆腐、卵焼き、青菜のおひたし、香物だった。
「久々の黒岡軍の朝食だ!卵だ!」律は卵焼きを一口で食べた。
嬉しそうに食べる律が愛おしくて晴翔は自分の卵焼きを律の口に放り込んでやった。
律は卵焼きを味わって食べた。「ありがとう晴翔、この卵焼きは甘みがあって美味い、これは今まで食べた卵焼きの中で一番だ。
そうだ晴翔、電信盤の材料をお堂に運びたいから、何人か兵士を貸してくれ」
「いいぞ、――松岡少尉、ちょっと来てくれ」
晴翔に呼ばれた若い兵士が小走りにやってきた。
少尉は晴翔に敬礼した。「何でしょうか大佐」
「悪いが、朝食の後律の手伝いをしてくれるか、備品庫からお堂に物を運んでもらいたいんだ」
「承知しました」少尉は敬礼して下がった。
「彼の小隊が手伝ってくれるから何でも言うといい」
「ありがとう助かるよ、電信盤は昼までには出来るから、明日から承認を始めよう」
「分かった手配しておく」
晴翔と食堂で別れた後、律は松岡少尉と数名の兵士を連れて備品庫に向かった。
大智が電信盤用に用意したものは、
「さすがは黒岡軍だ、この短期間でこんな上等な風呂敷を300枚も用意させるなんて、これはもしかして絹?」律が1枚手に取ると、その光沢のある風呂敷は滑らかに手の上を滑った。
備品庫の年配の管理人が答えた。「そうです、この絹織物は黒岡の特産品です。よろしければ律殿も帯などいかがですか?今のお召し物ですと、こちらの帯が合うかと思います」
管理人は繊細な柄が施された藍色の帯を手に取った。
「こんな上等な帯俺は買えないよ、買えたとしてもいつも適当に扱っちゃうから勿体ないよ」
「実は律殿のお気に召すものがあれば差し上げるようにと、総督から指示されております。是非何かお選び下さい」
「そうか、それじゃあ」律は備品庫の中を歩いて回った。「これはどうかな?」律は小さな銀細工を手に取った。
「これは黒岡軍の
「これがいい、もらってもかまわないかな」
「もちろんです。律殿は――正式には就任式を終えてからになりますが、すでに黒岡軍の一員ですから問題ありませんよ」
「就任式って?」
「お聞きになっていませんか?私も詳しくは知らないのです。就任式の準備を進めるように言われているだけですから、詳しいことは柳澤大佐に聞いてみて下さい」
晴翔は俺を何の職に就かせるつもりなんだろうかと首を捻り、とりあえず頭の中の後から聞いてみること目録に書き留めた。
徽章を受け取った律は――300枚の風呂敷は兵士たちに頼んで運んでもらい、お堂へ歩いて行った。
律は電信盤を造り終えると、お堂の床に寝転がった。
ただ天井を見つめて頭の中を空っぽにしていると足音が聞こえてきた。
律は現実世界に引き戻された。颯真の足音のようだ彼は弾むように歩く。
颯真が律の顔を覗き込んだ。「律さん、寝ているところすみません。一緒に来てもらえますか?総督がお呼びです」
「いいよ、どこへ行くの?」
「総督の屋敷です」
颯真に案内されて律は、敷地内の1番高い位置にある大きな屋敷にやって来た。
颯真が玄関の扉を開けた。「只今戻りました」
中から使用人と思しき、30歳くらいの女性が出てきた。
「おかえりなさいませ、お坊ちゃま。総督は客間においでです」
「花さん、ありがとう」颯真は玄関を入って左手の廊下を進んだ。
廊下からは種々の花が咲き乱れる庭が見えた。植えられた植物は春夏秋冬その時その時、庭園が美しく見えるように植物の高さや奥行き、咲く季節を計算して植えられているようで、今まで沢山の庭園を見てきて少しは自然美を理解できるようになった律は、非常に手の込んだ趣のある庭園だと思った。これは総督の指示だろうか、それとも奥方の指示だろうか、ただ庭師の腕がいいだけだろうかと考えた。
颯真が部屋の引き戸を開けた。「失礼します」
律に先に入るように促すと、無駄のない所作で引き戸を閉めた。
部屋には大智と、その横に容姿端麗な白藤色の着物を着た女性が座っていた。その後ろに隠れるようにして――髪の毛を耳の上で二つに束ねて赤い紐を垂らしている12歳くらいの愛らしい女の子がこちらを伺っていた。
颯真と律は大智と向かい合って座った。
「こんなところまでわざわざすまない。2人を紹介したくてね。妻の
「初めまして、美緒さん」律は美緒に頭を下げた。
40歳くらいだろうか、玉のような肌に結い上げた艶やかな髪、たおやかな身のこなし、颯真のどことなく感じる色気は母親譲りなんだなと律は思った。
「律殿、ご足労いただきありがとうございます」美緒も律に頭を下げた。
大智が言った。「早速で申し訳ないのだが娘のことが心配でね」
芽依に律が話しかけた。「芽依ちゃん、俺のことは律って呼んでくれ」
芽依は押し黙ったまま、美緒の後ろに引っ込んだ。
律はちょっと楽しませてあげたら打ち解けてくれるかもしれないと思い、木箱から1匹の蝶を取り出した。
出てきた蝶は青白く煌めいていて、芽依はその蝶の美しさに瞳を輝かせた。
律が芽依に言った。「綺麗だろう?この子は特別なことができるんだよ、見ていてね」
蝶はひらひらと舞い、芽依の鼻先をチョンと掠めて芽依の頭上まで舞い上がると、光る粉を降らせた。芽依は夜空に輝く満天の星空を漂うような気分だった。
蝶はまたひらひらと舞って今度は颯真の頭上で閃光を放った。
「痛い!痛い!痛い!」
閃光を当てられた颯真が喚くと芽依がクスクスと笑った。
蝶は律の手のひらに舞戻ってきて羽をパタパタさせた。
「律さん、なんでそいつは俺だけ痛めつけるんですか、一緒に戦った仲だっていうのに!」颯真は閃光が当たった頭を撫でた。
「君の事が嫌いなんじゃないかな」律が意味ありげに含み笑いをした。「芽依ちゃんの事は気に入ったみたいだね」にっこりと微笑み律が手招きすると、芽依は母親の後ろから出てきた。
「両手を出して」
律の言われた通りに芽依が両手を出す。蝶がひらひらと舞って芽依の手に止まった。
「変化しろ」律が命令すると蝶が髪飾りに変わった。
律がその髪飾りを頭にさしてやると芽依ははにかんで頬を染めた。
「この蝶が芽依ちゃんを守ってくれるよ、まだ名前がないんだ、いい名前を考えてくれる?」
芽依がこくりと頷いた。
大智は滅多に人に懐かない芽依が律に近寄って行ったので、彼は子供の扱いが上手いなと感心していた。「律殿、感謝する。外まで見送ろう」
見送りは口実で、美緒や芽依のいないところで芽依が憑かれやすい体質なのか、注意が必要なのかを聞きたかった。
玄関を出ると大智が律に聞いた。「それで、芽依は憑かれやすい体質なのだろうか?」
「いいえ、芽依ちゃんは大丈夫。総督や颯真君とは波長が違うみたいだ、怨霊に影響されることはないよ」
それを聞いて大智は心底安堵したが、次に律が言った言葉で一転し不安になった。
「だけど芽依ちゃんから妖の匂いがした。嫌な気配ではないから心配はいらないと思うけど――子供と遊ぶのが好きな妖は多いんだ。蝶はああ見えて強力な奴だから、悪い妖ならあいつが追い払ってくれる」
「蝶の強さは確かです。人間なんてひとたまりもなく、まる焦げにしていましたから」颯真が保証した。
息子が今回のことで少し大人になったような気がして、大智は嬉しいやら寂しいやら、何とも言えない気持ちになった。
「律殿、重ね重ね感謝する。それで颯真はどうかな、使えそうかな」
「颯真君は才気煥発だね、剣術の腕前は機敏で正確、霊力も大佐に負けてなさそうだし、
そんなに褒められて、颯真は気恥ずかしくなり赤面した。
大智が颯真に言った。「
「はい、父上」敬服している自分の父親の言葉に颯真は決意新たに気を引き締めた。
颯真と一緒に軍部へ戻ると晴翔が待っていた。
「晴翔の姪に会ってきたよ。すっごく可愛い子だな」
晴翔は芽依のことを気に病んでいた。
いつも母親の後ろに隠れて誰とも親しくなろうとしない芽依は、大人になったら親離れできるだろうかと、もし結婚できなければ――懐くどころか最近は目も合わせてもらえないが、自分が面倒を見ようと思っていた。そのうえ父親や兄のように憑かれやすい体質だったら、まだ幼いあの子にもしも何かあったら大智と美緒はどうなってしまうのかと憂いていた。
「どうだった?憑かれやすい体質か?」
「憑かれやすい体質じゃなかった、ただ妖と仲良くしているみたいだから蝶を見張りに置いてきたよ。何かあればあいつが対処してくれるからそんな顔しないで」律が晴翔の眉間にできた皺を指で撫でた。
晴翔は律が心配ないというのなら本当に心配ないのだろうと愁眉を開いた。
律の手を取って自分のひたいからどかすと手の甲に優しく口づけた。
それを後ろで見ていた颯真は面食らった。
昨日伊織は『打ち明けてくれるまで気づかなかったふりをしよう』と言っていたけど、これでは気づかないほうがおかしい、この場合どういうことか聞くべきか?それとも何事も無かったように振舞うべきか?颯真は頭が爆発するのではないかと思うほど頭を悩ませた。
(そうだ伊織に相談しよう、それが良い)
相談するまでも無かった。颯真の心を乱している張本人たちは、お構いなしに手をつないで食堂に入った。
食堂にいた兵士たちは晴翔が律の腰を抱き寄せたことで呆気にとられた。
颯真は魂が抜けたようにふらふらと伊織の隣に座った。
「伊織、俺どうしたらいい?」と伊織に耳打ちする。
晴翔と律を目で追いながら伊織が言った。「そ……いや……ま……」言葉にならなかった。
「伊織?大丈夫か?」颯真が伊織の顔を見ると、火を噴きそうなほど赤い顔をした伊織が、餌に群がる鯉のように口をパクパクとさせ言葉を失っていた。
それに気づいた律が笑い転げた。「晴翔、伊織君が大変なことになってる!」
晴翔も伊織の顔を見るなり大笑いして伊織の背中をバンバンと叩いた。「そういうことだから、気にするな」
その日の昼食は全く味がしなかった。それは伊織だけではなかったようで、いつも騒がしい食堂が今日はひそひそと話す声が聞こえるだけだった。
晴翔が食堂全体に聞こえる声で言った。「おいおい、葬式じゃないんだから、普通に話せよ」
こういう時は伊織がそれとなく仕向けるが、今は使い物にならない状態なので、かぶりを振った悠成は仕方なく光輝と雑談し始めた。その意図を察して颯真と慶と奏多も雑談に混ざった。
第一大隊の面々が雑談するならば心丈夫だと兵士たちは一斉にお喋りを始め、いつもの騒がしい食堂に戻った。
昼食は白米、鶏南蛮そば、山菜の天ぷら、野菜の鶏そぼろ餡かけ、胡瓜とわかめの酢の物だった。
律は天ぷらを一口かじった。サクサクした音が耳に響く。これは美味いな気に入ったぞと思って、ひとつ残らず食べた。
「そういえば、晴翔に聞きたいことがあったんだ、俺の就任式があるって聞いた、俺はいったい何を就任するの?」
晴翔が答えた。「そのことなんだが、君に肩書があった方が兵士たちも接しやすいと思うんだ。それに部署を新設すれば他軍にもいずれ知れ渡る、そうなった時肩書の無い君を不審に思う者が出てくるかもしれないから、相談役に就任してもらいたい」
「相談役か、いいよ。就任式はいつやるの?」
「まだ決まっていない、なるべく早くやりたいと思っている日取りが決まったら教えるよ」
律に食事が必要ないと分かってはいても、皿に乗った食べ物を残さず食べてくれたことを晴翔は嬉しく思った。
食堂を出ると律と晴翔は10人の兵士たち――第1大隊の面々と第2、第3大隊の隊長と副長たちと一緒にお堂へ向かった。
伊織は『気にするな』と言われても気になって仕方がなかった。2人が仲良く手をつないで歩いている光景に、気が遠くなるのを感じた。
晴翔が律に今朝入ってきた情報を伝えた。「赤坂軍本部が鬼の襲撃にあって壊滅状態らしい」
律が苦い顔をした。「鬼は凪の仕業だろうな」
晴翔が律の背中を慰めるように撫でた。「桜田は律の言っていた通り、見た目ほど傷は酷くなくて意識を取り戻すと躍起になって弁解したそうだ。梶山、松平と共に都の警政官に引き渡した、これから裁きが下るだろう」
「桜田は死刑を免れないだろうね、他の2人も刑を受けることになるだろうけど、自業自得だね」
「桜田恭一は黒岡を含める5つの軍を総括する立場だったから、これからが大変だ。各軍の総督は総裁になる為に群雄割拠するだろう。黒岡軍も例外じゃない、異象部の立ち上げで一歩先んじたいところだ。
すまない君を利用するつもりはないんだが、結果としてそうなってしまうかもしれない」厄介なことに律を巻き込んでしまったかもしれないと懸念した。
「気にしてない、だって楽しそうじゃないか異象部。俺は楽しみだよ」
胸を弾ませている律に晴翔の顔がほころんだ。
お堂に入ると律が言った。「まずは合掌だ、如意輪観音にお堂を使わせてもらうことを詫びよう」
座禅を組んで合掌する律に続いて皆が合掌した。
「みんな精神修行を怠らずに励んでるなら『気』を動かさないことは容易いはず、肉体と意識を切り離し、不浄なる意識を棄てて浄なる肉体だけを残す、そうすればおのずと光輝く」胸の前で印を結ぶと律の前に赤々と光る円い球が現れた。それは2つに分かれ、さらに5つに分かれて律の体をくるくると回った。「練習すればこのくらい簡単にできるようになるよ、まずは気の光りを造り出すところから始めよう」
言われるがまま、律と同じように全員が印を結んだ。
「意識を集中させて、左手が月で陰、右手が日で陽、それぞれ陰と陽の気を送って」律が指示する。
晴翔の目の前に真っ赤な光が煌々と輝いた。
「さすが史上最強の大佐だね、あっという間にできちゃったよ、しかも俺の色と遜色ない」律が絶賛した。
確かに同じ色、同じ輝きをしているように見えた。
伊織は晴翔を以前から人知を超えた存在だと思っていたが、ここまで来るともはや律と同じように人間ではないのではないかもしれないと疑念を抱いた。
律が言った。「精神を集中させて気を指先に集めるんだ、今日ここに選ばれて来たってことは全員大佐が高評価している兵士なんだろう?だったら絶対できる、精神一到何事か成らざらん」
晴翔の倍はかかったが、颯真と伊織も光を作ることができた。
「律さん、できました!」真っ赤とは言えないもののきれいな赤い光の玉が2人の前に現れた。颯真と伊織は大喜びで、自分が作り出した光を見つめた。
「光を作れたら今度はその光を分裂させられるかやってみよう。気を1点に集中させるんじゃなくて、2点に集中させる」律が光を分裂させて見せた。
晴翔と伊織と颯真は、光の分裂に挑戦した。
次第にいろんな濃さの赤い光が灯って、お堂の中が煌々と輝いた。それは純粋な命の光だ。
何人かは赤くならず橙色に灯っていて、霊力が弱いのだと思い気落ちした。
律が励ました。「そう落ち込むなよ、素質はあるんだからあとは霊力を磨けばいいだけだよ、精神修行を真面目にやれば赤い光が作れるようになる」
晴翔が言った。「何事も修行だな」
若者たちは、剣術修行と違って、座禅を組むだけの精神修行は退屈で嫌いだったが、もっと真面目にやろうと心に決めた。
律が手の上に一際大きな光の玉を作り出した。「分裂させることができたのは晴翔だけだったみたいだね。気を自由に動かすことができるようになれば、光を分裂させたり、いろんな形に変形させたりできる」
光りの玉が分裂して6頭の馬の姿に変わった。6頭の馬はお堂の中を自由に駆け回ると、融合して1頭になった。
律の手の上に戻った馬は、今度は陣のようなものに変わった。
その陣が颯真と奏多の上に降りてきた。
「颯真君、奏多君、体を動かしてみて」
硬直した奏多が言った。「動けません」
颯真もどんなに手足を動かそうとしても全く動かせなかった。「指の1本すら動かせません」
「これは
颯真と奏多は体が自由に動かせるか全ての関節を曲げて確かめた。
颯真はずっと律に聞きたかったことがあった。
「律さんの瞳が黒くなるのも妖術ですか?」
律が一度瞬きをすると瞳が真っ黒に変わった。「これのこと?これは悪魔の目。俺本来の目だよ。いつもの薄い色の方が妖術を使った偽物の目なんだ。この目で何が見えているのか見てみたい?」
「違う物が見えているんですか?」颯真はまた揶揄われているだけかもしれないと疑った。
「俺の手を握って」
半信半疑の颯真が差し出された手を掴んだ。その瞬間驚愕の表情を浮かべて、咄嗟に律の手を離した。
「びっくりした?」
颯真はただ律を凝視した。
「みんなも見てみたい?俺に触れれば俺の見ている物が分かるよ」
颯真の動揺ぶりに怖気づいたが、好奇心が勝った彼らは次々に律の体に触れた。
晴翔は律の手を握った。人間の皮膚や筋肉は透けて心臓が脈打つのが見えた。心臓から送り出された血液が体内を巡っているのがはっきりと分かる。
お堂の中を飛び回る虫の羽音が耳に響いてきて、普通なら見つけることができないほど小さな虫を晴翔の目が捕らえた。虫はのろのろと飛んでいるように見える。
その時気がついた、時間がとてもゆっくりと流れている。鼓動も人の動きも驚くほど緩慢だ。
律の手を離すと目も耳も時間の流れも普通の状態に戻った。
「君の素早さはこれが理由なのか」晴翔は納得した。
「そういうこと、地獄と現実は時間の流れに少しずれがあるんだ。だから普段は薄い色の瞳でみんなと同じ物を見て同じ時の流れにいるけど、本来の悪魔の目の時は地獄の物を見て、地獄の時の流れにいるから、素早く動いているように見えるんだ」
伊織の顔が蒼白になった。「私、当たり前ですけど、自分の心臓を始めてみました。見なければよかったかもしれません」
律が伊織の肩を同情するように叩いた。「自分の心臓見たらちょっと複雑な気持ちになるよね。それじゃあ気分を変えることをしよう。前に君たちの荷物を運べるものを作ってやるって言っただろう?使ってみて」
晴翔が律から受け取ったものは黒岡軍の徽章だった。
「いつの間にこんなものを作ったんだ?」
戻ってきてから、2日しか経っていないうえ、晴翔は律とほぼずっと一緒にいた、何かを作る時間なんて無かったはずだと思い返してみた。
「今朝備品庫で見つけたんだ。持っていって良いって言うから、試作で1つ作ってみただけだよ。誰でも簡単に使える物にしようかと思ったんだけど、それだと悪用されかねないだろう?だから使う人の霊力が高くないと使えない仕組みにした。晴翔が一番安心できる場所を思い描いて見て」
徽章を手のひらに置いて一番安心できる場所を思い描くと、徽章から軍本部の一室が現れた。
律が笑った。「晴翔の執務室か、晴翔らしいね。みんな中に入ってみよう、晴翔は最後に入って」
全員入ったところで最後に晴翔が執務室に入るとお堂は消えた。
律が机に座った。「ここは異空間、言わば晴翔が作り出した虚像だね、現実のお堂側からは俺達が見えてないよ、虚像を作り上げた人間が現実世界から切り離されたから、俺たちは今虚像の世界にいる、外からは姿を見ることも、触ることも、声を聞くこともできない」
晴翔は窓に近づいてみた、そこにはいつもの景色が広がっていたが春ではなくどうやら秋のようだ。
律は晴翔の隣に立ち同じ風景を見た。「晴翔はここから見える秋の景色が一番好きだと思っているからこうなったんだと思うよ」
道場は見えるのにそこに人はいなかった。いつもなら誰かがいて話し声が微かに聞こえてくるはずだと思った。「静かだ」
「現実の執務室とは繋がってないからね、俺たち以外の人はいないよ。この虚像の扉は晴翔以外に開けられないから、ここに着替えや大事な物を置いておくといいよ」
伊織は虚像の執務室の細部をまじまじと見た。「これは本当に本物の執務室と寸分たがわない、驚きました」
「それは晴翔の記憶が細部を作り上げているからだよ、伊織君たちにも作るから虚像が作れたら使うといい」
「そうですね、そもそも虚像が作れなければ使えないのですね」伊織は落胆した。
「練習すれば作れるようになるよ」伊織の肩を律が叩いて励ました。「それじゃあ今度は現実世界に戻ってみよう、晴翔今度はお堂を思い浮かべて」
晴翔がお堂を思い浮かべると、虚像の執務室は消えてお堂の中に立っていた。
「現実世界に戻ってくるときは必ず元いた場所に戻って、もし別の場所に行ってしまったら、虚像から出られなくなるから注意して」律がいたずらな瞳を晴翔に向けた。
晴翔は愕然とした。「私が戻ってこられなかったらどうしていた?」
平然と律が答えた。「晴翔が戻れなくなるなんてことは絶対にないよ」
晴翔が呆れてため息をつくと、律が笑って晴翔に近づき彼の顎を撫でた、晴翔は唇を律の唇にそっと触れあわせた。
律が言った。「こんなことしたらまた伊織君が爆発寸前になっちゃうよ」
案の定伊織は爆発寸前だった。「すみません、大佐、律さん少し慎みをもってください」
晴翔は律の腰に回した腕を離そうとはしなかった。「何だよ、伊織は耐性が無さ過ぎる、そんなことじゃ嫁を娶れないぞ、そうだ俺たちが伊織に耐性をつけてやろう、なあ律」
律は晴翔の胸に寄りかかっておかしそうに笑っていた。「気の毒な伊織君、当分は我慢するしかなさそうだよ」
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