第10話七城

早朝に出発した一行は道中、河川敷に座り握り飯を食べて、目的地の〈七城ななしろ〉に辿り着く頃には日が沈みかけていた。


律の肩に止まって休んでいた燕が飛び立ち一行を先導する。


〈七城〉は海に面した地で〈黒岡〉に次いで大きな街だ。

港には大きな貨物船が何艘も停泊し、荷が積まれたり降ろされたりしていて非常に賑やかだ。


港からほど近い一際大きな屋敷の上で燕が2周旋回する。


訪ねていく前にその屋敷の当主が何者なのか――晴翔と律は南側の通りを伊織と颯真は北側の通りを二手に分かれて聞いて回ることにした。


晴翔と律は何件か回ったが、屋敷の当主は梶山かじやま剛史つよしという人物だということ、運輸業を営んでいるということくらいしか聞き出せないでいた。

どうやらその梶山剛史という人物は、この地では有名人らしく皆が恐れているようだった。


「お忙しいところ恐れ入ります。向かいの通りの梶山殿についてお尋ねしたいのですが」そう晴翔が尋ねると、鮮魚店の調理場で店じまいをしていた店主が顔を上げる。


晴翔を見て少し驚いたが、作業の手を止めて――よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに話し始めた。

「あそこは代々運輸業をしているよ。今の当主はかなりのやり手らしくて、随分羽振りがいいって聞くぜ。羨ましいね、こっちは骨身を削って働いてもなかなか金がたまらないっていうのにね」


奥から女が口を挟んだ。「あんたが夜ほっつき歩いて散財しているからでしょうが」

呆れたように言うこの女はどうやら店主の妻のようで、小さな鮮魚店を夫婦で営んでいるようだ。

ありがたいことに2人とも口達者のようだ。


「なんだよかあちゃん、今月はそんなに使ってねぇよ」店主は口をとがらせた。

「梶山殿はどういった人物ですか」晴翔は何か聞き出せそうだと期待した。

「そうだなあ、いつも偉そうにしていて、いけ好かないお方だよ。裏では阿漕なこともやっているって噂だ」

「あんたそんなこと言っていいのかい」女は魚のすり身を作りながら言った。

「へっ!俺が何を言ったってあのお方は気にもしないさ、俺たちみたいなのを見下してるんだ」

「梶山家で最近変わったことはありませんでしたか?使用人に関することとか、どんな些細なことでも構いません」


店主はここ数日の出来事を思い出そうとした。「そういやちょっと前に事件があったな、ほらお前覚えてるか?俺が明け方船から魚を水揚げしている時に、屋敷から少女が飛び出してきてさ、追いかけてきた男衆に捕まって屋敷に連れ戻されただろ」

「そういやそんなことがあったねぇ。酷く痩せていて、着ている服もボロボロで気の毒に思ったよ。梶山家に奉公に出されたんだろうから、今はいくらか良い暮らしができていると思うけどね」


晴翔が訊いた。「いつ頃のことですか?」

「確か3か月くらい前だったかな。不思議なのが、何で逃げるようにして飛び出してきたのかってことだよ、かぁちゃんの言うように、今までの暮らしに比べたら使用人として働いた方が、着る物も食べる物も十分とは言わないまでも、困ないくらいはあるはずだ」

「知らない家に突然連れてこられて、怯えていたんじゃないかい。まだ小さかったからね10歳くらいかな、だから状況を分かっていなかっただけだろうよ」

晴翔と律は二人に礼を言って店を後にした。


それからも何件か聞き込んだが、それ以上の話しは聞けなかった。

不意に律が呟いた。「10歳か、かどわかされてきたのかもしれないな」

律がかどわかされて娼館に売られたのは8歳の時だった。


(そういや俺も最初の頃は毎日泣いてたな、水揚げまでに慣らしておかないと切れて痛いって兄さんたちから言われて、尻にいろんな器具を押し込まれたけど、結局丸3日歩けなくなるほど腫れあがって痛かったんだった)


昔のことをまざまざと思い出していると晴翔が心配そうな顔を向けて来たので、律はにっこり微笑んだ。「こんなことはよくあることだよ」


この笑顔を見ると、どうして落ち着かない気分になるのか今やっと分かった、悲しそうに笑う彼を抱きしめ守ってやりたくなるのだ。


律の哀愁を帯びた顔を見て晴翔は、不運な子供たち全員を助けることはできないが、せめてその少女が今は少しでも良い暮らしができているようにと祈った。


晴翔と律が合流地点に行くと伊織と颯真はすでに来ていた。

伊織が報告する。「屋敷の当主が、梶山剛史という人物であること、運輸業を営んでいるということ、それ以外は恐れているのか皆口を噤んでしまって、全く聞き出せませんでした」


律はその答えを予想していた。鮮魚店の店主みたいに度胸のある口達者な人物が他にもいればいいが、恐れているとなると誰もが口にするのを憚るだろう。

「こっちも似たようなものだな、変わったことは屋敷から飛び出してきた少女が捕まって連れ戻されたってことぐらいだな。

梶山剛史に招き猫が贈られた経緯を聞き出せるかやってみよう」


晴翔が門番に近づいた。「黒岡軍大佐柳澤晴翔です。梶山剛史殿に面会したい」


門番はピシッと背筋を伸ばし敬礼した。「大佐、承知いたしました。当主を呼んで参りますので客間でお待ちください、ご案内いたしますこちらへどうぞ」

その敬礼の仕方から元軍人だろうと晴翔は思った。今は傭兵として働いているようだ。


屋敷内に入った途端に律は顔をしかめた。

「この屋敷は何かあるみたいだ。ここで人が大勢亡くなったんじゃないかな、殺されたか自殺したか、怨念がまとわりついてきてちょっと居心地が悪い、調べてみよう」

小箱を取り出して蓋を開けると律の肩に止まっていた燕が、律の懐に慌てて隠れた。


その行動を晴翔が不思議に思っていると律が言った。「紬はこいつが嫌いなんだ」


小箱から出てきたものを見て納得した。飛び出してきたのは、真っ白い1匹の子猫だった。

子猫は律の足に自らの頭をこすりつけるとニャーと鳴いた。

律は子猫の顎を掻いてやった。「不穏なものを調ろ、それから話してくれそうな霊を見つけてきてくれ」

子猫はまたニャーと一声鳴き、ふっと消えた。


颯真はまたもや恐慌状態に陥った。「消えた!消えたぞ!何でだ、どうなってる?あれは幽霊か?」


律が笑った。「颯真君は本当に幽霊が怖いんだね、俺は生きてる人間の方がよっぽど怖いと思うけどね。子猫は姿を消せる妖だよ、あいつは秘密を探るのが得意なんだ、日が暮れるころには誰か若しくは、何かを見つけて戻って来るさ、俺らは待つだけだ」


しばらくすると男が客間に入ってきた。「お初にお目にかかります。私は当主の弟で梶山清隆と申します。柳澤晴翔大佐はとても立派な方だとお伺いしておりましたが、想像以上で驚いています」


晴翔は他人を嘲っているような目つきの男を、出会って10秒で嫌った。

「お褒め頂きありがとうございます。当主の梶山剛史殿に面会したいのですが」

「申し訳ございません。あいにく当主は只今不在でして、私が要件をお伺いし、当主に伝えます」


彼が真実を言っていて、本当に当主は外出しているのかもしれないし、嘘をついていて当主から追い払うように言われてきたのかもしれない、松平のような分かりやすい二枚舌の男と違い、この男の本心は表情からは見抜けなかった。

梶山剛史には一晩考える暇を与えることになるが、明日の朝改めて話を聞きに来ることにして、招き猫の話しをかいつまんで話し、回収に来たことを告げた。


一行は屋敷を後にすると、まずは夕飯を食べることにして食堂に集まった。

夕飯は、白米とみそ汁、眼張の煮付け、筑前煮、なます、香物だった。


律は酒を呑みながら、先ほど子猫の顎を掻いてやったことで拗ねてしまっている燕を、宥めるように頭を撫でてやった。

「梶山清隆ってやつは小利口そうでなんだか怪しい、松平と同じで誰かに意図的に招き猫を贈られたのなら――その可能性が高いだろうね、1件目の桝谷、2件目の松平、3件目の梶山は同じ理由で狙われたと考えるのが自然だろう、必然的に3家には繋がりがあるってことだな」


「桝谷家とは交流があったが、松平家、梶山家との繋がりを一度も耳にしたことはない」晴翔は犯人の意図が未だ分からないことに気を揉んだ。


颯真が言った。「桝谷家は呉服屋で、松平家は斡旋業、梶山家が運輸業ってことは何か新しい商売を始めようとしていて、誰かを怒らせたとかでしょうか?」


滅多に心を乱さない伊織が珍しく苛立った。「その可能性は高いけど憶測にすぎないな、このままじゃ埒が明かない、尋問できるきっかけでもあればいいんですけど、怪しいというだけで証拠が何もないとなると、問いただしたくてもできませんね」


律は悠然たる態度で燕の頭を撫でていた。

「梶山の屋敷はすごく嫌な感じがしたから、猫が何か見つけてきてくれるよ、それが助けになるかもしれないね」


その時晴翔の電信盤がひらりと開き、文字を映し出した。〈込田〉で松平文章を調べている悠成が書いたものだ。文頭に送り先と送り主の名が記される。


『電信先 柳澤晴翔大佐 電信主 片岡悠成 ――松平家に雇われている人足によると、1年ほど前から松平の屋敷は子供の出入りが増えたそうです。出入りはいつも、まるで人目を避けているかのように、夜遅くなってからしていたらしいと使用人は言っています。追伸、刺客は来ていません』


「雇われている人足や使用人を裏切らせてよく聞き出せたね、さすがは第1大隊だ」律は感心した。


伊織が答えた。「奏多でしょう。彼は幼く見えますし人懐っこい性格をしていますから、軍服を着ていなければ誰でも気を許してしまうんですよ」


律には何となく事件の全貌が見えてきた。

「松平の屋敷に連れてこられた子供は、どこから来てどこへ送られるのか、梶山の屋敷に連れてこられた子供は、3か月前に逃げ出した。そして梶山の屋敷にいる強い怨念を持つ怨霊たちに何があったのか、子供が関わることで軍部に言えないことって何だと思う?」


晴翔は頭を悩ませた。


律がボソッと呟いた。「子供ってのは金になるんだよ」

隣にいた晴翔にだけ聞こえた。「律?」

心の中で呟いたはずの言葉が、漏れてしまっていたことに気づいて律はにっこりと微笑んだ。


伊織は胸騒ぎがした。「刺客たちも気になります、そろそろ出くわす頃じゃないでしょうか」


律が答えた。「そうだね、刺客たちは俺たちが招き猫を回収するのを阻止したがっているようだから、招き猫の封印を解き仕掛けた犯人が雇い主なんだと思う。一人でも生け捕りにできたら犯人に繋がる何かが聞けるんだけどな」


いくら凄腕の妖術使いでも、人間相手となると話は別だろうと颯真は思った。

「刺客は何も話さないと思いますよ」


「颯真君、俺に拷問ができないと思っているのかな、俺の拷問はちょっと特殊でね、10分以上耐えられた奴は今まで一人もいないんだぞ」律は鼻高々に歯を見せて笑った。


颯真は術をかけられた人が、ぺらぺらと喋ってしまうような妖術があるのかと思って好奇心が抑えられなかった。

「いったいどんな拷問するんですか?」羨望の眼差しで律を見つめた。


「そう簡単には教えてあげられないよ、それに大人がすることだから颯真君には早すぎる。痛みなんかより快楽さ、欲に溺れた奴ほど欲に抗えない」


颯真は小鼻を膨らませた。


(俺はもう19歳だぞ、いつまで子供扱いされなきゃならないんだ、伊織よりも俺の方がそっち方面は精通していると思うし、第1大隊の中で一番若いってだけで子供とは違うんだ)


伊織と颯真は夕飯の後、偵察がてら外を歩いてくると言って宿を出ていった。


晴翔は兄である総督に報告を済ませると窓の外を見た、宿の前に置いてある長椅子に腕を組んで座り、うたた寝をしている律が目に入った。


夜陰やいんの中、通りのガス灯と提灯のほのかな光りに照らされて、幻想的な雰囲気を作り出していた。


晴翔は律が言った言葉が忘れられなかった。『子供ってのは金になるんだよ』

どうしたら律に安心を与えてあげられるのか、どんなに考えても分からなかった。


何も知らない8歳の男の子が経験した最悪なことを思うと、胸が張り裂けそうだった。

今すぐ過去に行って律を助けられたらいいのにと思い切なくなった。


晴翔が律を長い間見つめていると、不意に白い子猫が姿を現し律の足にすり寄った。

律は猫を抱きかかえ、ちょうど帰ってきた伊織、颯真と一緒に宿の中に入った。


伊織が、晴翔の部屋の戸を叩いた。


晴翔が伊織、颯真、律を部屋の中へ通すと、律の懐から燕が飛び出して晴翔の肩に止まった。


燕がジージーと鳴いた。


子猫は律に抱かれ頭を撫でられてとても気持ちよさそうに喉をゴロゴロ鳴らした。


伊織はいったい猫がどうやって報告するのかと不思議に思い、今から何が起きようとしているのか期待に沸き立つ心をおさえた。


ゆらゆらと晴翔たちがいる部屋の景色が変わっていく、窓の外の景色、調度品や扉、壁が全て消え、漆黒の闇に包まれた。


竦み上がった颯真がそっと伊織の腕を掴んだ。伊織は目を凝らしてみたが何も見えなかった。


律が手に火を灯すと辺りが薄明るくなり各々の姿を確認できた。

どうやって手に火を灯せているのか伊織が見極めようとしていると、少女が現れた。 


伊織の腕をつかむ颯真の手に汗が滲んだ。


律はしゃがみ込んで少女と目線を合わせると、優しく声をかけた。「こんにちは、俺は律、君の名前は?」

少女は恥ずかしそうに消え入るような声で答えた。「あたし、日葵ひまり

「日葵ちゃんは何歳?」

「10歳」

「君は自分がどうして死んじゃったのか分かる?」

「あたしが逃げちゃったから……男の人がお仕置きだって言って、いっぱい叩かれて、すごく痛くて……そしたら死んじゃった」


今までは幽霊を見たら怖気だって恐慌をきたしていたところだが、自分の妹よりも幼く見える少女が殴り殺されたと知って、颯真は怒り心頭に発して伊織を掴んでいた手を離し拳を握りしめた。


「辛かったね、もう痛いことは絶対に無いからね、兄ちゃんが約束する」

律が優しく微笑んで、頭をそっと撫でてやると日葵がこくりと頷いた。

「日葵ちゃんはお屋敷に住んでいたのかな?」

首を横に振った。

「じゃあどうしてお屋敷にいたのかな?」

「男の人に連れてこられたの」

「お屋敷に連れてこられる前の事を思い出せる?お母さんや、お父さんのこと覚えているかな?」

「……覚えてない」お父さんとお母さんのことが思い出せなくて、しょんぼりした日葵の頭を、また律が優しくポンポンと撫でた。


「じゃあ、お屋敷を逃げ出した夜の事思い出してみて、どうして逃げ出したのかな?」

「男の人が私を引っ張って『お前は今から売られるんだ、きっと食べられてしまうぞ』って言ったの、それで怖くなって逃げたの、でもすぐに捕まっちゃった」


律は穏やかに話した。「日葵ちゃんを連れてきた男の人と、叩いた男の人は同じ人だったかな?」

「違う人だった」

「日葵ちゃんを叩いた男の人の顔、見たら分かるかな?」

「分かるよ、今日お兄ちゃんたちが話していた人だよ」


梶山清隆のことだろうと律は思った。

「今屋敷の中に日葵ちゃんと同じように連れてこられた子供はいるかな?」

「いるよ」


律が晴翔に向き直り聞いた。「大佐、他に聞きたいことある?」

晴翔は首を横に振った。


こんな小さな子を死なせてしまうほど手を上げた梶山清隆に、声にもならないほどの憤怒が込み上げてきて、言葉を失い律と日葵のやり取りを傍らに座りずっと静かに聞いていた。


チラチラと視線を向けてくる日葵が自分を怖がっているように見えた。

悲しいのに無理に笑顔を作ろうとするのは、相手を怖がらせないようにするための律なりの優しさだと気が付いた。


8歳の少年はきっと怖かったんだと、晴翔の目頭に熱いものが込み上げた。


「日葵ちゃん、お兄ちゃんがとってもいいところに連れて行ってあげるからね、そこは怖いことも痛いこともないんだ、毎日楽しいことだけだよ。日葵ちゃんはいい子だからお友達もすぐにできるよ、お花畑は好きかな?」

「うん、好き」ボサボサの髪の毛にボロボロの着物を着た少女は、満面の笑みで嬉しそうに言った。

「そこにはとてもきれいな花が咲くお花畑があるんだよ。でもその前に、ちょっとだけお兄ちゃんたちに付き合ってくれるかな?この子猫が君の事を守ってくれるから安心していいよ。必ずお兄ちゃんが屋敷に迎えに行くからね、それまで待っていて。

そうだ!この子猫にはまだ名前がないんだ、だから君が名前をつけてあげてくれる?」


「毬がいい!」

「いいね!とってもいい名前だ」律の腕に抱かれていた子猫が飛び降りて、日葵の足元に駆け寄った。

日葵は子猫を抱き上げて、頬を子猫に摺り寄せた。

日葵と子猫が姿を消すと、真っ暗闇が徐々に宿の部屋に戻った。


伊織も血相を変えて言葉を失っていた。


律がため息をついた。「鮮魚店の店主が言ってた明け方近くに屋敷から逃げ出してきた少女は日葵ちゃんだろうね」

「かどわかして売ろうとしていたということか」やっと声を出せるくらいに平静を取り戻した晴翔は暗鬱あんうつとした。


「少なくとも松平と梶山が隠したいことは、人身売買だろうね。一昔前なら賊が子供をかどわかして売り買いするなんてことはよくあったことだ。子供好きの変態は案外多いし、高値で売り買いされる。金払いの良い上客も多いだろう」律はまた肩に止まった燕の頭を撫でてやった。


「かどわかしを罰するようになってから徐々にだが確実に減ってきている、正規の手続きを踏んだ斡旋が主流になっている今、名士が組織的に子供をかどわかして売買するとなると罪は重い、首謀者は極刑を免れないだろう」晴翔の眉間の皺がより一層濃くなった。「私の知る桝谷仁はそんなことをするような人物ではないと思っていたが、加担したのだろうか」


「どうだろうね、松平は斡旋業をしているから子供を連れていても変に思われない、梶山は運輸業をしているから人を運ぶ手段には困らない、人身売買は数十人もしかすると数百人の規模になる、そこに桝谷が関わるとしたらどんな役目か」


「巻き込まれただけということもあるだろうか」

晴翔はどうしても桝谷仁がそんなことに加担する人物には思えなかった。


「桝谷家が先に狙われたのは確実に始末したかったからじゃないかな、誰かにとって桝谷家が一番脅威だったんだ。この一連の事件が主犯格による隠蔽だったとすると、桝谷の当主はこの組織をどこかで聞きつけて進言しようとしていたのかもしれない、焦った黒幕が仲間も殺して隠蔽しようとした、とかね」律は意気消沈している晴翔を励ますつもりで言った。


その言葉に晴翔は少し気力を取り戻した。

「〈込田〉にいる悠成、光輝、慶、奏多を応援によこせ、それと軍部から船を〈七城〉に向かわせろ」

「承知しました」伊織が本部宛、颯真は〈込田〉の悠成宛に書いた


晴翔が伊織と颯真に言った。「人身売買の証拠をつかまなければならないな、今晩は港と屋敷の張り込みをしよう。それまで少し仮眠をとっておけ」

伊織と颯真が敬礼をして部屋を出ていった。


晴翔は部屋を出ていこうとする律を呼び止めた。「――律」

「何?」律がにっこりと笑った。この笑顔が晴翔の胸を締め付ける。

晴翔は律を引き寄せて抱きしめるとギュッと強く力を込めた。

律は晴翔の暖かくて広い胸に顔をうずめた、力強い腕に包まれて過去の辛い記憶が少し薄れるのを感じた。


「……晴翔、苦しいよ」

晴翔は力を入れすぎてしまったと気づいて、慌てて律の体をきつく抱きしめる腕を緩めた。

晴翔の顔を見上げる律の目は今にも泣きそうだった。晴翔が頬に手を伸ばそうとすると、律は顔を逸らして手をよけた。


晴翔から離れた律が俯いて言った。「――俺、少し寝てくる」そして部屋を出ていった。


晴翔は1人になって考えた。

何故よけられてしまったのだろうか、自分は律の助けになれないのだろうか、泣きそうな顔をした律に晴翔は胸を痛めた。


深夜人々が寝静まる時間に、晴翔たちは宿を出た。

「伊織、颯真は梶山の屋敷を見張れ、律は私と一緒に港に来てくれ」

燕は伊織の肩に止まり一緒に屋敷の見張りについた。


律は晴翔について港へ行った。

自分がとてもちっぽけな存在になる気がして、心が乱れている時に人の優しさを感じたくなかった。晴翔の手を思わずよけてしまったことで、傷つけてしまったかもしれないと気に病んだ。


晴翔は〈込田〉から応援に来ている部下たちが、大事が起きる前に到着してくれることを願った。

伊織率いる颯真、悠成、光輝、慶、奏多の6人は、黒岡軍の精鋭部隊だ。

彼らの剣術は群をぬく。もしここで戦闘になったとしても、悠成たちが加われば勝てる見込みが出てくる。


律の様子も気にかかった彼の刀術は鬼才だ。彼の力が頼りだったが今は明らかに動揺している。

後ろにいる律を振り返った。「律、大丈夫か?」

「大丈夫だよ、さっきは子供の頃のことを思い出しちゃっただけ、心配させてごめんね、遠い昔の記憶に囚われるなんて無意味だ」

律は晴翔と肩を並べるほど前に出てきて彼の頬に手を置いた。


高く積まれた木箱の間はとても狭く、大人の男が2人向かいあって立つと息がかかった。

律の熱が晴翔の頬に置かれた手から熱いほど伝わってきて、その部分に意識が集中した。


晴翔の鼓動が早くなり、今にも心臓が爆発してしまいそうで、すぐ目の前に立つ律にも自分の鼓動の音が聞こえてしまうのではないかと思うと眩暈がした。


律が耳元で囁いた。「そんなに緊張しないで、きっと大丈夫だから」

温かい息が晴翔の耳をくすぐると、電流が耳から体に入り下半身へと駆け降りたように感じた。


晴翔の欲望を体で感じ取ると律の心は甘美に酔いしれて、ちょっとしたお楽しみをしたくなった。

指先で晴翔の手のひらをそっとかすめると、既に身を硬くしていた彼の残り僅かな理性が崩壊した。


律の肩をぐっとつかみ唇を奪った、性急な動きで貪る。


律が吐息を漏らすと、肩をつかむ手によりいっそうの力が込められ、律は痛みに顔をしかめた。晴翔の腕をそっとさすり自分の背中に誘導してやると晴翔は律の腰に腕を巻き付けた。

彼らは朧月の下に照らされて優しく唇を触れ合わせた。


晴翔ははっきりとした愛を感じた、律を愛している。

律の強さと、脆さ、儚さ、いたずらな瞳、悲しそうに笑う彼の全てに恋焦がれた。


律は何度も、何度も、唇を重ねる晴翔が愛おしくて、彼の黒く艶やかな短い髪を指で梳いてうっとりさせてやると満悦した。

押し付けられた下半身から晴翔の熱が伝わってくる。

ずっと続けていたかったが今の状況を考えるとこれ以上はまずいと思い、晴翔の唇から自分の唇を、持てる全ての精神力を使って引きはがした。


晴翔は離れてしまった唇を名残惜しそうに見つめた。

その瞳には、まだ足りないとでもいいたげな色が漂っていた。

「晴翔、今のすっごく気持ちよかったんだけどさ、今はちょっとまずいから後で続きをしようね。今は張り込みに集中しないとね」晴翔の耳元で律が囁いた。


その言葉で我に返った晴翔は、急いで濡れた唇を袖で拭った。

律を抱きしめて安心させたかっただけなのに、荒れ狂う欲望を制御できず思うまま行動してしまった自分を戒めた。


晴翔は子供の頃から己を律するよう教えられてきて、それを実践してきた。

これほどまでに自制ができず我を失ったのは初めてのことで、律の体は自分から離れてはいるが、ほんの少し体をずらせばまた触れ合ってしまうほど近くにいる彼が気になって全く集中できなかった。


伝わってくる温もり、絡みつく欲望、顔にかかる律の吐息、耳に残る律の微かな喘ぎ、全てを頭から追い出すことに全力を注いだ。


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