第9話菊南

途中〈たま〉の街で昼食をとった一行は昼下がり〈菊南きくなん〉の街を通りかかった。


〈菊南〉はその名の通り菊の名産地で、人の行きかう道に菊の花が隙間なく植えられていて咲き乱れている。

〈黒岡〉ほど大きな街ではないが、賑やかで活気がある。道の両端に出店や屋台が立ち並び、店員がしきりに客を呼び込もうと声を上げている。


そこへ、馬に乗った晴翔たちが通りかかると、皆揃って口をあんぐりと開け軍服を着た男たちを目で追った。

〈菊南〉は小さな街なので、ほとんどの人が軍人を見たことがなかった。


もし少しでも動いてしまえば、一瞬で切り殺されてしまうと思っているのだろうか、まるで『だるまさんがころんだ』を通り全体でしているかのように、誰も手も足も首さえも動かさなかった。


親たちは走り回る我が子を引っ捕まえて抱き上げたり、後ろに隠したりと大わらわだった。

酒屋の店先に座り酒を呑んでいた男は、酒が口の端からダラダラと垂れているのに、杯を口につけたまま動けずにいた。


賑わいをみせていた一帯は俄かに静寂が訪れた。


馬の蹄が地面を蹴る音と、何かがジュージューと焼かれている音だけが通りに響きわたる。


焼き栗の屋台の前を通りかかると、晴翔は我慢できずに近づいた。

大型の鉄鍋で栗を焼いていた店員の男は、恐怖に慄いて叫び声をあげそうになっている口を、必死に真一文字に結んで押しとどめ、走り出したくなっている自分の足が地面にくっつくようにと――神様仏様どんな神でもいいからお願いします!と祈った。


するとその威風堂々とした軍人が声をかけてきた。

もはや死人と間違えそうなほど顔から血の気が無くなった男は、口から魂が抜け出てしまったようだ。

「焼き栗を二籠ください」

「……」


返事をしない男を見かねて、隣の店先にいた年配の女が手助けした。「焼き栗二籠ですね、4宝になります」

焼き栗二籠をそれぞれ紙袋に入れ、晴翔に手渡した。

晴翔は代金を支払うと、律たちの所へ戻ってきた。


「焼き栗?大佐は栗が好きなのか?」

照れながら晴翔が答えた。「栗に目がなくて、匂いを嗅ぐと買わずにいられないんだ」

「俺も栗好き、後でちょっと頂戴、大佐にも可愛い一面があるんだね」

「可愛いなんて言うな!可愛くなんかない」

「可愛いよ、見た目は豪快に酒を呷ってそうな大佐が、その大きな手で栗をちまちま剥くところを想像したら……」律が涙を流しながら大笑いした。


馬鹿にされた晴翔は臍を曲げた。「もういい!君には分けてやらない」

「ええ、そんな、笑ってごめん、寛大なお心の大佐様、許して」

「調子のいいことを言っても無駄だ」

「お願い、お願い、お願い、俺も栗が食べたい」


伊織は眉間にしわを寄せた、目の前で繰り広げられている光景が異様に思えた。


黒岡軍始まって以来最強と謳われてきたあの柳澤晴翔が、揶揄われて喜んでいる。あり得ない!自分たちはちょっとでも晴翔を笑おうものなら、ギロリと睨まれ、血も凍るほどの気分にさせられるというのに、立腹しているように見えるが、目が笑っているではないか、晴翔が律とじゃれあっている。


颯真に耳打ちした。「颯真、大佐ちょっと変じゃないか?あんなに浮かれているところを私は見たことがない」

「そうですか?俺は見たことありますよ、昔俺が飼っていた犬と遊んでいるときあんな感じでした。大佐は意外と可愛いものが好きなんじゃないですか」

「なるほど、犬か……確かに律さんは犬っぽいな」伊織は妙に納得した。


目的地にはまだ距離があり、次の街まで日のあるうちに辿り着けそうに無かった。

〈込田〉にいる悠成たちと連絡がつき、蝶と合流したことを知って安堵した晴翔は、暗い森の中で刺客に囲まれるよりはと思い、まだ日が高かったが、今日は〈菊南〉で宿をとることにした。


宿の前に来ると颯真が律に聞いた。「ここは普通の宿ですか?幽霊とか妖怪とかいませんよね?」

律は眉間にしわを寄せ考えるしぐさをする。

顔を真剣に見つめてくる颯真のことが、律はおかしくてたまらず吹き出した。「大丈夫、ここは普通の宿だよ」


「仕方がないじゃないですか、幽霊が怖いのはどうしようもないんです!」揶揄われたと気づいた颯真は、プクッと頬を膨らませた。

「ごめん、君があまりにも可愛いからついからかいたくなっちゃったんだよ、でも颯真君、軍人さんなんだから恐怖心は克服しないとね」

そう言われ颯真は言葉が出なかった。

「大丈夫、きっといずれ颯真は立派な軍人になれるよ」伊織が慰めた。


伊織は颯真より年が上なので、今は立場も伊織の方が上だが、颯真は現総督の長男なのだから、いずれ彼は父親から黒岡軍総督という立場を引き継ぐことになる。

伊織は颯真の右腕として彼を支えることになるだろう。今の大智と晴翔のように。

実の兄弟ではないが兄弟のいない伊織にとって晴翔は兄であり、颯真は弟だった、颯真の立場を羨むことも妬むことも無く、伊織は颯真が総督になり自分が中将になる日がただ待ち遠しかった。


昨夜の件もあって、晴翔はこれから降りかかる簡単にはいかないであろう戦いの予感を感じた。

「次に刺客がいつ来るか分からない、休息できる時にしておけ」晴翔は先ほど買った焼き栗を一袋伊織に渡した。

「ありがとうございます」伊織と颯真は敬礼すると、部屋に引き上げて行った。


「律、私の部屋に来てくれ」

律は喜々とした。「大佐からの初めてのお誘いだ!」

晴翔は慌てて弁解した。「そうではない、ただ一緒に栗を食べようかと」

「すぐ真に受けちゃうんだから、そんなところが好きなんだけどね」律がクスクス笑った。


仕返しするどころか毎回不意を突かれてうろたえてしまう。どうしたら律をぎゃふんと言わせられるのかと思案した。


この宿はなかなかいい宿で、高価な座卓が置いてあった。

律は座卓に頬杖をついて座った。「大佐、栗剥いてよ」

晴翔が栗を1つ剥いて差し出すと、律は口を大きく開けて甘えた。「あーん」

晴翔は律の口に栗を放り込んでやって、紬にも1つ剥いてやった。

律の肩から降りた紬は、座卓に置かれた栗を啄んだ。


律は口をもぐもぐさせながら言った。「美味しい」

栗を頬張ってご満悦している律が可愛いと思い晴翔の顔がほころんだ。

まるで恋心を抱いているようなときめきを感じた。


晴翔はこれまで誰に対してもそんな感情を持ったことがなく、恋とは無縁だった。

幼いころから剣の鍛錬を始めて、明けても暮れても軍人として生きてきた、おかげで今の地位と名声があるが、女と談笑する暇などほとんどなかった。

若い頃は、縁談を数多く持ち掛けられた――男なら誰もが、一目見ただけでのぼせ上ってしまうほどの仙姿玉質な女もいたが、気が進まず全て断ってきた。

断る度に兄からため息をつかれたものだ。


興味がなかったからではない。妻を持つということは守りたいものができてしまうということを意味していた。

彼は今まで結婚し、守りたいものができた先輩たちを沢山見てきた。

皆一様に、戦い方が変わり、今までのような勇猛果敢さは影を潜めてしまった。

晴翔は自分もそうなってしまうのが怖かったのだ。


たった今律に対して湧き上がってきたこの感情が何なのか、はっきりと言うことはできないが、それは恐怖に似ていて頭から足の先まで全身を痺れさせ、心臓をギュッとつかまれたような痛みを感じた。


触れてはならない物、知ってはならない物だと頭では分かっていたが、心が反対した。

ただただ動揺して鼓動が激しく胸を打ち。

今にも心臓が弾けてしまうのではないかと思うほどに、晴翔の中で大きく跳ねている。


晴翔の動揺を知る由もなく、律はまた口を開けた。

「あーん」

晴翔は律の唇に惹きつけられて、目が離せなくなってしまった。

じっと見つめられた律は、その時やっと晴翔の目の中にずっと欲しかったものが現れていることに気づいた。


律は晴翔と違い人生の大半を色恋に費やしてきたため、この表情の言わんとすることがすぐに分かった。

律は晴翔ににじり寄ると目線が合うよう向かい合った。


晴翔は時間が止まってしまったかのように、栗を手に持ったままでいると、律が顔を覗き込んだ。

「大佐、今何考えているの?」艶のある声は誘うように響いた。


婀娜めいて見える律に晴翔の鼓動が、また大きく彼の耳にこだました。

何も言うことができない晴翔に、律はさらに近づき腰をピッタリとくっつけ、右手を晴翔の左側に置き、逃げられないようにした。

「俺分かっちゃったと思うんだ大佐が考えていること、当たっているといいな、だって今すごく嬉しいんだ、俺と同じ気持ちだって知って」

耳元で囁かれて、晴翔は全身の血が頭に昇る感覚に襲われた。


彼はのぼせあがって思考することができなくなり、空っぽの役立たずになったみたいに、目の前の律をただ見つめていた。


律の顔がゆっくりと晴翔の顔に近づいて、唇と唇が触れそうな距離になると動きを止めた。

離れようとしない晴翔を見て、律は彼の首に左腕を回して引き寄せると、唇に自分の唇をそっと押し当てた。

その口づけはすぐに深いものになった。


晴翔はこの衝撃にどうすることもできず、右手に栗を持ち、左手を宙に彷徨わせた。

逃げようとしない晴翔を律が唇で煽り、昂らせ、酔いしれさせた。

晴翔の目はとろんと潤い、上気して赤く染まった頬に律は興奮し心を刺激された。


お互い息も絶え絶えになったところで、離れるのを惜しむかのように律は晴翔の唇を啄んだ。

律がこのまま最後まで強引にいってしまおうかと思ったとき、唐突に晴翔は立ち上がった「……少し外に出てくる」


晴翔は部屋を出てから、あてもなく街を歩いた。

太陽は傾き今にも地平線に消えていこうとしていて、夕焼けが晴翔の赤い顔を照らしていた。

何かを考える余裕はなくただ歩き続けていたが、徐々に冷静に考えられるようになってきて自分が何をしたのかはっきりと自覚した。


晴翔にとって初めての感覚だった。律の唇が触れた瞬間、電気が走ったように頭の奥が痺れた。

深い口づけに心が震え全身から力が抜けていくのを感じ、恍惚とした後で羞恥心と罪悪感が入り混じった感情が胸を貫いた。


しかしそれは、今まで経験してきたどんなものよりも胸が躍った。

今も口の中に律の感触が残っていて、口づけの記憶を呼び覚ました。

口いっぱいに広がる温かな感触、あの感覚を今すぐにまた味わいたいと思っていることに晴翔は恥じ入った。


自分を落ち着かせようと一時間近く歩いたり、立ち止まったりを繰り返してから――人々は見知らぬ軍人の行動に一喜一憂させられて迷惑そうだ――宿に戻ってくると意を決して部屋の戸を開けたが、律の姿は無く気が抜けてしゃがみ込んだ。


先ほど口づけを交わした場所に目を止めると、あの時のうっとりとした甘ったるさを思い出し彼はまた赤面した。

断然としてそこから視線を引きはがす。


悶々とした気持ちを落ち着けようと、律に教えてもらった瞑想をしていると、戸を叩く音が聞こえてきた。

部屋の戸を開けるとそこには、伊織と並んで立つ颯真の後ろに律が見えた、彼は何事も無かったように眠たそうな目を擦っていた。


伊織が言った。「夕食の時間です」

晴翔たちは階段を下りて食堂へ入ると、一番奥の座卓に座った。

夕食は、白飯に豚汁、鶏肉のみそ焼き、大根の煮物、煮豆、青菜の胡麻和えと香物だった。


盆に並べられた料理を、淡々と食べているように見える晴翔だったが、心ここにあらずで、伊織や颯真がしゃべる言葉は全く頭に入ってこない、目には律の唇しか映っていなかった。自分が何を食べているのかさえ疑わしかった。


颯真が言った。「先ほど宿の人から聞いたのですが、菊の亜種でこの地にしか咲かない光を放つ花があるそうです。今の時期丁度、南の森で見られるそうなんですけど、あとで行ってみませんか?」

「いいね、光る花か面白そうだ、晴翔、俺見てみたい」律は食事をあまり口にせず酒を呑んでいた。


晴翔が律に意識を集中させ胸を焦がしていると、律は殊更ゆっくりとした動きで杯に口をつけ、酒をごくりと呑むと晴翔に視線を送り、舌をペロッと出して唇を舐めた。

晴翔はごくりと生唾を呑んだ。

先ほど頭に集まっていた血が、今度は下半身で沸き立つのを感じた。


「大佐、どうかしましたか?」伊織は律の問いかけに答えない晴翔を不審に思った。

晴翔は僅かに残った理性をかき集め、いつも通りの厳めしい晴翔を演じた。「いや、なんでもない」


律が聞いた。「晴翔、光る花見に行ってもいい?」

「ああ、いいぞ」


夕飯を食べ終え宿を出ると、光る菊の花が咲く森へ向かった。


森の中へ入ってしばらくすると水が流れる音が聞こえてきた。

「水辺に咲いているそうです。水音がする方へ行ってみましょう」颯真が山道から獣道を下って行った。

「気を付けろよ」後ろから晴翔が声をかけた。


颯真が先頭に立ち、伊織、律、晴翔の順に獣道を下った。


すぐ渓谷に辿り着いた。上流から流れて来る澄んだ水が滝つぼに轟々と音を立てながら流れ落ちている。小さな滝だが渓流の迫力は十分だ。

滝つぼの向こう側は大きな岩がゴロゴロと転がっていて、こちら側は開けた場所になっている、そこに小さな黄緑色に光る菊の花が、岩の間を埋め尽くすようにびっしりと咲いていた。


颯真が花を踏まないように気を付けながら先へ進んだ。

「すごい、本当に光ってる!」

「これは本当に美しい、心を打つ光景だ」伊織は感動した。愛しいあの人に見せてあげたいと思った。きっとあの可愛らしい瞳を輝かせてくれるに違いない。


律が足を踏み入れると、菊の花が風も吹いてないのに揺れた。

颯真が言った。「あれ?今花が揺れなかったか?」


律の近くの花だけが一際鮮やかな黄緑色の光りを放ち、律が離れると元の淡い黄緑色に戻った。

そしてまた、律が別の花に近づくと今度はその花が煌々と輝いた。まるで律に共鳴しているようだった。


「律さん何か妖術使ってます?律さんの周りの花だけがやけに鮮やかに見えるんですけど」颯真はちょっと怖くなって伊織に近づいた。

「いいや、何の術も使ってないよ、俺の美貌に花が見とれているのかもね、俺は生きとし生けるもの全てに好かれるんだ」


颯真は律に冷たい目を向けた。


(何を言っているんだこの人は、確かに人並外れた美貌の持ち主だ、それは認めるが、花が見とれるなんてことあるわけがない)


少し離れたところから見ていた晴翔は律の動きに合わせて明滅する花を見て、あながち間違いじゃないかもしれないと思った。

花たちが煌々と光ることで、律の気を引こうとしているように見えた。


律が晴翔の所へ戻ってきて言った。「晴翔、綺麗だね」

「ああ、すごく綺麗だ」黄緑色に光る花の中に立つ律を晴翔は見つめた。

「花が綺麗?それとも俺が綺麗?」愉快そうに律が口角を上げた。

「……それは……」

「冗談だよ、とっても綺麗な花だ、花に精霊が宿っているんだよ」


伊織と颯真も戻ってきた。

「精霊?ですか?」伊織が訊いた。

「うん、花の精霊が光っているんだよ、見ていて」律が両手を広げ、思いっきり手を打ち合わせると、花から無数の光の玉が飛び上がった。


そのうちの1つが律に近づいた。

「驚かしてごめんね」

律の前で光っていた玉は黄緑色に光る羽を持った妖精に姿を変えた。

「あなたは律ですね、お会いできて光栄です」鈴が鳴るような清らかな声だ。

律が妖精に訊いた。「君はここのおさなの?」

「はい、そうです。ククと申します」

「俺たち旅をしているんだ、少し危険な旅でね、占ってもらえるかな」

「はい、喜んで」


3つの玉が妖精に姿を変えて、4匹はくるくると空中を浮遊して踊り始めた。


ククが律の前に戻ってきて言った。「律、この先これが必要になるでしょう、お持ちください」ククは木の実のような赤い球を2粒律に渡した。

「ありがとう感謝するよ」

無数の光の玉は花の中へと戻っていった。


颯真は心が浮き立った。「精霊なんて初めて見た!」

「私もだ、精霊が実在するなんて驚きだ、精霊は占いができるのですか?」興奮した伊織が律に聞いた。

「先を見通す力を持っているんだ、ククは真実を教えてくれたようだけど面白がって嘘をつくこともあるから、あまり真に受けないほうがいいよ」


「それは何なのだ」晴翔は律の手の中にある赤い実を見て指さした。

「何だろうね、俺にも分からない、これを使うときになったら自然と分かるよ」律は2つの赤い球を木箱に放り込んだ。


森を出て宿に向かう道すがら、颯真はまだ興奮冷めやらぬ様子ではしゃいでいた。

精霊はどのくらいの数いるのかとか、どんな精霊がいるのかと律を質問攻めにした。

このはしゃぎようなら、颯真は今晩眠れそうにないなと晴翔は思った。


宿に戻ってきた晴翔は、律と2人きりになりたいと思っていることに動転しながら、やけにのろのろと部屋に向かった。

伊織と颯真がいなくなると晴翔は律と向き合った。

向き合ったところで自分が何を言い、何をしたいのか分からなかったが、このまま1人で部屋に戻るのは嫌だった。

しかし、律は晴翔に「おやすみ」とだけ言うと自分の部屋に入っていってしまった。


呆気にとられた晴翔は、昼間のあれはもしかしたら、律にとってはちょっとしたお遊びで、その行為に特別な意味は無いのかもしれない、いつものようにからかって遊んだだけだったのだろうか、そう思い至ったところで晴翔は物思いに沈んだ。


瞑想も虚しく一晩中悶々として、あの口づけはとても官能的で情熱を感じたと高揚しては、やはり遊ばれただけだと落胆した。

何度も高揚と落胆を繰り返したせいで明け方近くまで眠れなかった。


晴翔を見るなり律は愉快そうに声をかけた。「あれ?大佐ちょっと疲れているみたいだよ、もしかしてあまり眠れなかった?」


(君のせいだ!)晴翔は心の中でまたしても大いに罵った。


言葉も声も落ち着いて聞こえますようにと祈った。

「大丈夫だ」思った以上に落ち着いた声が出せたことに感謝した。

律の様子からするとやはり、遊ばれただけなのだと分かって胸がチクリと痛んだ。


颯真も別の理由で寝られなかったらしく、大きな欠伸をした。

伊織が聞いた。「眠れなかった?」

「だって精霊に会っちゃったんですよ、興奮して全然眠れませんでした」

伊織が笑って言った。「確かに、精霊に出くわすなんてそうそうあることじゃないからね」

晴翔が思い出したように訊いた。「そういえば、聞きそびれていたが、精霊は君の事を知っているような口ぶりだった、何故だ?」

律がしたり顔で答えた。「俺は妖術使いの中じゃちょっとした有名人だからね、大抵は例の人とか、幻の人とか言われてるけど、ククはそんな俺の噂を聞いたことがあったんじゃないかな」


この人は我々が思っているより、すごい人なんだと伊織は改めて思った。


朝食は、粥、生麩のすまし汁、川魚の塩焼き、南瓜の煮物、ゆで卵、香物だ。

卵は軍部ではよく食べられているが、市井では貴重だ。


律は久々に食べる卵の味に舌鼓を打った。「うーん、美味い!卵なんて久しぶりだな、黒岡軍の飯ほどじゃないけど、ここの飯もなかなか美味いな」

普段ほとんど食べない律が嬉しそうに食べているので、晴翔も嬉しくなった。


燕はジージーと鳴いて卵を食べる律に抗議した。


律は甘い南瓜を食べて顔を綻ばせた。

「次の目的地は南西の方角だね、着くころには夕方になっているかもしれない、その間大きな街は無いから握り飯を作ってもらおうよ」

伊織が女給を呼び止めた「すみません、昼食用に握り飯を4人分包んでくれませんか?」


女給は一瞬ビクッとしたが落ち着いて答えた。「はい、かしこまりました、宿を立つ頃にお渡しいたします」

「ありがとうございます、よろしくお願いします」

伊織が笑いかけると、女給は頬を染めて去っていった。


律が伊織に言った。「その顔で微笑むなんて伊織君は罪作りだな、きっと今の子、伊織君のこと好きになちゃったよ」

「そんなつもりはないですよ、礼を言っただけです」伊織は赤面した。

颯真が言った。「中佐を密かに思っている女は多いですよ」

晴翔は笑った。「だけど肝心の伊織は、初心だから女と関係を持ったことも無いんだよな」

「大佐、ほっといてください!」いよいよ火を噴きそうなほど真っ赤になった。


律が恨めしそうに晴翔を見た。「晴翔は誰かと関係を持ったことがあるのか?」

「そりゃあ俺だって男だから、妓楼に揚がったことくらいあるぞ!俺は初心じゃない」

「へー、白木綿では遊女にまとわりつかれて、酷くうろたえていたって置屋のおばばから聞いたけどな」

「何!違うあれは不意を突かれたせいだ!」

「ふーん、不意ねー」律が意味ありげな視線を晴翔に投げかけた。

晴翔はむくれたが伊織にはやはり、晴翔の目は笑っているように見えた。

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