第8話込田――幽霊事件――
街の外れにある宿に入ると、律は首を傾げたが、すぐに何事もなかったような顔をした。
宿には人影が無く伊織が宿の奥に向かって声をかけた。「ごめんください、夜分に恐れ入ります。宿泊したいのですが、どなたかいらっしゃいませんか?」
街外れの宿だからあまり繁盛していないのだろう。宿が薄暗くて颯真はなんとなく不気味さを感じた。
「はぁーーーい」奥から25歳くらいの女が、やけに間延びした返事をしながら出てきた。「お待たせいたしました、お泊りですかー?」
「はい、4部屋お願いします」伊織がそう言うと、女はちょっと困った顔を何故か律に向けた。
「はぁーい、申し訳ございませーん、2部屋しか空いていないんですー、はぁーい」
伊織に視線を向けられた晴翔が答えた。「仕方ありません、2部屋でいいので、泊まらせてください」
「はぁーい、かしこまりましたー、はぁーい、朝食はご準備してよろしいですかー」
晴翔が答えた。「ええ、お願いします」
「はぁーい、かしこまりましたー、はぁーい、それではこちらがお部屋の鍵でございますー。はぁーい、お部屋は2階に上がられて、左手奥の2部屋でございますー。はぁーい」
『はぁーい』がやたらと多い、やけに語尾を跳ね上げて喋る女に耐えていたが、女に聞こえないところまで来ると、晴翔たちは声を押し殺して大笑いした。
ひとしきり笑うと、伊織は晴翔と律を2人きりにして大丈夫だろうかと、前を歩いている2人の表情を見ようとしたが、律が大きなあくびをするところを見て、大丈夫だろうと判断した。
伊織と颯真はふと背後に気配を感じて、ほぼ同時に振り返る。
「ひっ!」颯真は悲鳴を上げて伊織の腕を両手でつかんだ。
伊織はかろうじて悲鳴を飲み込んだものの、身をブルっと震わせた。
2人の目の前に黒髪の少女が立っていた。
眠そうな声で律が言った。「大丈夫、大丈夫、そいつは燕だよ、人に化けられるんだ、人間の時は紬って名乗ってる」
「燕は妖なのですか!」伊織が目を丸くした。
「あれ言ってなかったけ?」
紬が伊織に頭を下げた。「先ほどは助けて頂いて、ありがとうございました」
心臓が飛び出しそうなほど驚いていた伊織は平静を取り戻して言った。「気にしないで、怪我がなくてよかったよ」
すると少女の姿の紬はまた燕に戻り律の肩に止まった。
律が言った。「伊織君、燕は妖だから怪我しないよ」
「そうなんですか?」
「うん、妖は動物の怨霊だからそもそも実在していない、怪我もしなければ、死ぬことも無いよ。おやすみ」大きな欠伸をすると律は部屋の中に入っていった。
伊織は妖について知らないことだらけだと、痛感した。
律に出会ってから、今まで知らなかった世界を経験することができて、妖術に強い興味が湧いていた。
異象が発生したら、経を唱え続けるか逃げ出すしか方法が無かったが、もし自分にも妖術が使えたら、きっと、軍に持ち掛けられた難解な案件も解決できるだろう。
そうすれば困っている民を多く救える。伊織は期待に胸をふくらませた。
部屋は、布団がやっと2枚敷けるくらいの広さだった。
布団を敷き終わると律は布団の上に、晴翔は入り口付近に座り、しばし見つめあった。
晴翔がこの状況に困惑し動揺している姿が、律は可愛いなと思った。
「大佐、そんなに緊張しないでよ、嫌がる大佐に手を出したりしないからさ、それに俺は眠くてそんな元気ないよ、おやすみ」律は晴翔に背中を向けて、ぱたりと布団の上に寝転がった。
晴翔は拍子抜けして自分も布団に入った。「おやすみ」
律は布団に入ったとたんに、小さく寝息を立て始めた。
その音を聞きながら晴翔は、眠れない夜を過ごすこととなった。
(散々誘っておきながら、どうしてそんなふうにすぐ隣で眠れるんだ?だからって迫ってこられても困るが……もしこの先そんなことがあったら俺はどうする?律が本気で迫ってきたら……俺は)
律を組み敷くところを想像してしまい、晴翔の下半身が僅かに反応した。
慌てて考えていたことを散らした。これは先ほど戦ったせいで気が昂っているだけだと自分に言い聞かせた。
しかし、一度想像してしまったものは簡単には消えてくれない、眠ろうとするたびに律の口角の上がった唇や、はだけた着物から覗く鎖骨が思い浮かんでしまう。
そこに触れたらどんなだろうかと想像した。
晴翔は女を知らないわけではなかった、若い頃軍の先輩に連れられて娼館を訪れたことが何度かある。
だけど、香のむせ返るような強い匂いに混ざる
もちろん昂った時は自分で慰めているが、人肌に触れなくなってからは久しい。
久しぶりに布団を並べて寝ているせいだ、人肌恋しいだけだと自分に言い聞かせた。
落ち着かない気分で朝を迎えると、早々に布団から抜けだして身支度を整えた。
律がもぞもぞと布団の中で身じろぎする。
パチッと目を覚まし大きく伸びをすると、既に起きて身なりを整えている晴翔に驚いた。
「大佐、早起きだね、あんまり眠れなった?疲れているみたいだ」律はまだ眠そうな目をこすり、寝ている間大いに蹴散らし、ただの布の塊となった布団から抜け出ると、これまた大いにはだけさせた寝巻の浴衣を脱ぎ散らかし顔を洗いに行った。
(君のせいだ!)晴翔は心の中で大いに罵った。
晴翔と律が部屋を出て食堂に向かうと、既に伊織と颯真は食堂の前で、晴翔たちが来るのを待っていた。
伊織は晴翔のいつもと変わらない様子を見て、昨晩は何事もなく過ごしたのだろうと、密かに胸を撫で下ろした。
食堂には晴翔たちだけで――部屋は2部屋しか空いていなかったのに何故、他に誰もいないのか晴翔は疑問を感じた。
奥に並べられた座布団に座り、食事をしていると燕が律の肩から降り立ち、いつものように律の膳から朝ごはんを啄んだ。
それを咎めることも無く、1人と1匹が仲良く同じ皿から食事をとる光景にまたしても颯真は微笑ましく思った。
食べ終えると律が唐突に話だした。
「ここにいる人ならざる者に告ぐ、お前たちはここに留まりたいか、それとも去りたいか」
突然おかしなことを言う律を、何事かと晴翔たちは見つめた。
食堂にいた年配の給仕の男が前に進み出た「我々は自らの意思に反してここにいます。全員が行くべき場所へ行きたいと申しております。どうか、どうか我らをお助けてください」給仕たち、そして、昨晩晴翔たちを笑わせた女も、深々とお辞儀した。
晴翔たちが困惑して見ていると、律は席を立ち年配の給仕に近づいていって、手のひらほどの手鏡を受け取った。
木箱の蓋を開けて持ち、もう一方の手に手鏡をのせ、ボソボソと聞き取れないほど小さな声で呟くと、律の手のひらに置かれていた手鏡は、パリッと音を立てて2つに割れた。
すると手鏡から黒い塊が飛び出し、木箱の中にすっと吸い込まれていった。
給仕たちは律に一礼すると、次々に霧散するように姿を消していった。
給仕たちが全員消え去ると律は席に戻り茶を飲んだ。
困惑している3人の目を一瞥すると、淡々と告げた。「ここにいた人たちはみんな死霊だよ。客は多分俺たちしかいない、手鏡に憑依した怨霊がここを通る不運な死霊たちを捕まえて、使用人にしていたみたいだ」
死霊と聞いて颯真は縮み上がった。
伊織はそろそろ怨霊や妖に慣れてきたようで冷静に聞いた。「なぜ手鏡に憑依したのでしょうか」
「普通人間は死ぬと生前やり残したことや、心残りを抱えて死霊になるんだ。そしてやり残したことや、心残りを解消してから成仏する。だけど、悲惨な死に方をした人や、非業の死を遂げた人、恨みを抱いている人は強い怨念を抱えて怨霊になる。動物と違って現実に存在しない人間の怨霊は、成仏しなければいずれ魂ごと消えて無くなってしまう、この世に留まる為には依り代が必要なんだ」
伊織が律に訊いた。「手鏡に意味はありますか?」
「手鏡にとり憑いたのは、おそらくこの宿で働いていた使用人だろう、自分の顔に劣等感があって、鏡を激しく嫌っていて憑依したんじゃないかな、生前人と通じ合うことができず、孤独に死んだのかもしれないな、それでこの宿に霊を閉じ込めることにした。友人や家族を作りたかったんだろう」
颯真が訊いた。「招き猫にとり憑いた怨霊も同じですか?自分が作った招き猫に、何か思いがあったということですか?」
「人形師のように物を作る人間が憑依するのは珍しいんだ。よっぽど辛い死に方をしたときだけだ。物を作るって行為は、怨念を散らす行為に似ているから死んでも強い怨念を持っていないことが多い。招き猫にとり憑いた人形師は、どうしても死んだ理由に納得できず、喜ぶ人が憎くて祟っているんだけど、なんで招き猫に憑いたのかは俺も疑問なんだよな」
颯真は辛い死に方をした幽霊たちを、気の毒に思った。
何があったのか知れば、手掛かりになるのではないだろうかと思った晴翔が律に訊いた。「招き猫にとり憑いた人形師がどんな死に方をしたか知ってるか?」
律は茶の入った湯呑を膳に置くと、視線を落として淡々と語った。
「150年ほど前の話しだ、人形師に惚れた女がいたんだけどその女は良家の子女で、人形師とは身分が違った。女の父親は、人形師から娘を切り離そうとして男衆を見張りにつけ、家から出られないようにした。それでも隙を見つけては人形師に会いに行っていたんだ。そんなある日女は見てしまった、人形師が別の女と抱き合っているところを。人形師には別に好きな女がいて、女が会いに来るのを迷惑に思っていたんだけど、自分より身分の高い女に強く言うことができずにいたんだ。腹を立てた女は、男衆を使って人形師の恋人を襲わせた。凌辱された女は湖に身を投げ、怒った人形師は、加担した男衆と女を刺し殺して自殺した。復讐を果たしたけど怒りが収まらなかった人形師は、招き猫に憑依した」
重苦しい空気が漂った。
伊織は人形師とその恋人が気の毒で仕方がなかった。
異象を起こし人々を死に至らしめたのは他でもない人形師の怨念かもしれないが、そもそもは人形師につきまとった女が悪いのだ、もし女が身を引いていれば、男衆に恋人を襲わせなければ、招き猫の異象は起きていなかった。
伊織は気の毒な男女を思い、自分がひそかに恋慕している女に会いたいと思った。
晴翔たちは宿を出て馬にまたがった。燕が律の肩から飛び立ち先導するように前を飛ぶ。
伊織は沈鬱な表情を浮かべた。「宿はどうなるのでしょうか?」
「振り返ってみて」
律にそう言われて振り返ると、そこにはただの荒野が広がっていて、自分たちが泊まっていたはずの宿はどこにも無かった。
颯真が「ひっ!」と悲鳴をあげて、伊織の腕を両手で握りしめる、今度は伊織もその手をぎゅっと握った。
晴翔は目をしばたたいた。
颯真が恐慌をきたし叫んだ。「なんで、なんでなんだよ!」
律が悠々と話した。「俺たちはちょっとばかり、別の世界に入り込んでしまっていたってことだ、いわゆる黄泉の国ってやつだね」
「死者の世界に行ったってことか⁉︎そもそも死者の世界が本当にあるのか、俺たち死んだんじゃないよな!」颯真は完全に冷静さを失ってしまい、もう礼儀などには構っていられなかった。
「颯真君落ち着いて、死んだりしてないから」律は颯真の反応が愉快だった。「俺たち妖術使いは時折霊から呼ばれることがある、『助けてくれ』ってね、宿に入ってすぐに気が付いたんだけど、黄泉の国への入り口はそう簡単には開かないし、刺客から姿を隠すのにちょうどいいかなって思って黙っていたんだ、ごめんね」
律と会ってからまだ数日だというのに招き猫に続き、また憑依した異物に遭遇した。
どうしてこうも立て続けに起こるのか疑問に思った晴翔が聞いた。「律、このような異物は多いのか?」
「うん、多いよ、古今東西、人間はよく憎しみや妬みを抱えていたり、恨みを買って殺されたりするからね、おかげで俺たちの仕事はなりたっているから複雑なところだね、感謝すべきか憐れむべきか、これだけは言える他人に優しく、人を憎まず妬まずに生きていくことだね、そうすれば死んだときに俺に会わずにすむ」律は高笑いした。
この世には、自分たちの知らないことが沢山あるのだろう、この先それを知る機会が何度訪れるだろうか、晴翔はもっと知りたいと思った。
そして、死んだときは君に会いたいとも思った。
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