第5話招き猫現る

晴翔、伊織、颯真の3人は〈黒岡〉から東へ80㎞ほど行ったところにある〈北洲ほくしゅう〉の桝谷ますたに家に来ていた。


晴翔は桝谷家が何故、このような惨状になってしまったのか、まるで皆目見当もつかずその場に立ち尽くすしかなかった。


伊織は顔を真っ白にして今にも倒れてしまいそうだったが、逃げ出すわけにはいかないと、必死に足の裏を地面にくっつけていた。


事の始まりは4日ほど前に遡る。


古くから呉服店を営んできた桝谷家は、柳澤家と懇意にしていたため、『目下の心配事を相談しよう、手を貸してくれるかもしれない』と思い、当主の桝谷ますたにじんは黒岡軍本部を訪ねた。


心配事とは、桝谷家の使用人が、次々と様々な死に方で命を落としているのだという。


海に落ちて溺れ死んだり、突然首を吊って自殺したり、事件性は無いものの、こんなに立て続けに起きては、祟りにちがいないと言いだす人も出てきた。

このような状況のため使用人たちは、命があるうちに出ていきたいとまで言いだした。


このままでは使用人がいなくなってしまう、手を貸してほしいということだった。


かくして晴翔は伊織と颯真を伴って〈北洲〉を訪れた。


まずは手分けして、亡くなった使用人たちの事件を、最初から洗いなおすことにした。


ところが丸1日かけて調べても、おかしなところは何も見当たらなかった。

本当に不運な事故死または自殺、どこにも不審点はなく、すべてが一目瞭然だった。


伊織と颯真もやはり何かの祟りなのではないかと思い始めていた。


晴翔の直感は、最初に相談された時から、何かがおかしいと告げていた。

1カ月の間に使用人14人が亡くなるなど、偶然と片付けるには少々行き過ぎだ。必然と考える方が納得いく。


14人の使用人が誰かの恨みをかったのか、誰かが桝谷家に嫌がらせをしているのではないだろうかと晴翔は考えた。

しかし、人が手を下したのだとしたら何かしら証拠があってもいいものではないか、それどころかきな臭い噂すらひとつもでてこない。


桝谷家は近隣住民と良好な関係を保っていて、当主の桝谷仁も晴翔の知る限り、恨みを買うような人物ではない。


宿で朝食を食べながらどうしたものかと苦慮していたところ、桝谷家で事件が起きたと一報が入った。


晴翔、伊織、颯真は、馬にまたがり急いで桝谷家までやってきた。

そして今に至る。


屋敷内に足を踏み入れた瞬間、3人は鼻につく鉄のような匂いと、目に飛び込んできた光景に戦慄した。

そこは死屍累々で、壁の至る所に血痕が曲線を描き天井まで点々と飛び散っていた。床は血の海で、複数の死体が折り重なるようにして転がっている。


刃物で切り裂かれたようで、内臓が飛び出し逃げまどった跡がはっきり見て取れた。そこら中に何かわからない――分かりたくもない、血の塊のような肉片が点々と落ちていて、酸鼻を極める光景だった。


「これは……いったい何が……」伊織はそこから先の言葉を出すことができなかった。死の匂いに圧倒されて口と鼻を手で押さえつけ、吐きそうになるのをこらえたからだ。


颯真はというと、堪らず外へ駆け出し、玄関先で今朝の朝食を全て吐きだす羽目になった。


(くそっ!こんなの最悪だ!どう見たって弱虫じゃないか、しっかりしろ!)


今朝は米をお代わりしてまで腹いっぱい食べてしまった。吐けるものは胃袋にたくさんある。颯真は自分の食欲を呪った。


先に来ていた地元の治安部隊が晴翔と伊織に話しかけてきた。

髪は白いものが混じり、顔の皮膚はたるんでしまい、若い頃の容貌は失われているようだが、まだ堅固さは失っていないようで、この凄惨な現場でも平然としている様は、彼が今までたくさんの過酷な状況を潜り抜けてきたことを物語っていた。


「目撃者によると――隣に住む石田いしだ哲治てつじという男です——今朝早く4時頃、突然桝谷家から悲鳴が聞こえてきたらしいです、何事かと屋敷をそっと覗いてみると、当主の桝谷仁が薙刀を振りかざし、人を切り殺すところを目撃したそうです。慌てふためいて我々の詰所に転がり込んできたのが4時30分頃――今は自宅で休んでいます。

我々がここへ駆けつけたのが5時頃です。屋敷はすでにこの状態で、桝谷仁は自ら命を絶ったのだと思われます。私の部下がこの家のことをあなた方が調べに来ているようだと報告してきたので、知らせの者を向かわせた次第です。

そちらが先に何かの捜査をされていたのなら、こちらは差し当たってこの事件の解決を急ぐ理由はありませんし、そちらで引き継いでもらえたらと思うのですが、よろしいでしょうか?」


彼ははっきりとは言わなかったが、立て続けに起きた使用人の事故死や自殺に続いて、当主が乱心して一家を皆殺しにしたとなると、やっかいな事件だろうから自分たちの手には負えない、そちらに押し付けたいと言いたいところだろうと、晴翔は推測した。


「構いません。こちらで後片付けまでしますので、お引き取り頂いて結構です」


後片付けまでしてもらえるなら長居は禁物と思ったようで、治安部隊の顔ぶれはそそくさと引き上げていった。


晴翔が伊織に指示を出した。「屋敷に見張りを置く、本部と連絡を取って第1小隊を呼べ。俺が戻るまではここから何も持ち出すな、このままの状態にしておくように、屋敷内に入ることも禁止しておいた方がいいだろう、屋敷内に人が乱心するような仕掛けがしてあるかもしれないからな。応援が来るまでは、伊織と颯真で屋敷を見張っていてくれ」


「分かりました、大佐はどちらへ?」


「俺は今から〈白木綿〉まで人を探しに行く」

晴翔は馬にまたがり駆けて行った。


〈白木綿〉ということは律を探しに行ったのだろうか、もしそうなら颯真を助けてくれた時のように、印を結んで呪文を唱えあっという間に解決してくれるにちがいないそう思うと伊織は心なしか嬉しくなった。

しかし、桝谷仁が乱心したいきさつに、誰かの思惑があるのであれば、益々謎の多い事件になっていくと、危惧した。


玄関の壁に手をついて、自分の体をかろうじて支えている颯真に、伊織は晴翔が言った指示を伝えた。

「私がここの番をしているから、颯真は支局へ行って、本部に連絡してきて」


颯真はここから離れられるのなら何だってすると心から思った。それを察してくれた伊織に感謝した。

「了解です」不甲斐なさに項垂れた。「伊織はよく平気な顔してられるな、すごいよ、俺は全然だめだ」颯真は幼いころから兄のように慕ってきた伊織に対して、軍に入隊してからというもの敬意を払って話すようになっていたが、2人きりの時は、時折昔のように親しく話す。


伊織はまだ年若く、幼さの残る顔を蒼白にしている颯真を気の毒に思った。

「私も正直、足がまるで自分の物じゃなくなったみたいに、固まってしまっていたよ。でも、大佐が律殿を呼びに行ったからきっとあの人が解決してくれる」


まだ顔色が戻らない颯真を支局へ送り出した、そこまでいけば本部へ電信が送れる。


電信とは、電信盤と呼ばれる石盤に文字を書き込むと、指定の相手へ文字が伝わる仕組みになっている。

大きくて重いため、設置してある場所まで行かなくてはならない。


電信盤は希少でとても高価なものだけど、黒岡軍は軍部に続き医部も秀英ぞろいで、多士済済だったため資金は潤沢で、数多くある支局にも設置することができた。


伊織は振り返って屋敷を見た、2日前に来たときは普通の屋敷だったが、今は暗い影を纏い冷たい風が吹き荒ぶ陰気な屋敷に見えた。


厳しい寒さの冬が終わりを告げ、花が咲き乱れ陽気に誘われた虫が蠢くと、〈白木綿〉に春が訪れる。


晴翔が〈白木綿〉の地に船から降り立つ頃、律は宿屋の店先に座って居眠りをしたり、街行く人々を眺めたりしていた。


宿屋の中から40過ぎの禿げた男が話しかけてきた。この宿の店主だ。

「お前一日中そこに座ってるだけですることがないなら、ちょっとは手伝え」


「どうせただ働きさせるつもりだろう、やだね」律がプイッと顔を背けた。


「この間から日のあるうちはずっとそこに座ってるけど、誰かを待ってるのか?この間お前を訪ねて来たあの軍人さんか?」


「仕事の依頼を待ってるに決まってるだろ!」


「それならそこに座ってちゃだめだろう、妖術使いってのはあちこち行って仕事を見つけてくるものなんじゃないのか?」


律がふくれっ面をした。「俺ほどになると座ってるだけで仕事が入るんだよ」


揚屋あげやの前に座ってか?ここは女を抱きに色めきだった男しか来ないぞ、この2カ月何の依頼も来てないじゃないか」


「うるさい!俺に構ってる暇なんてないだろ働けよ!」


店主とそんなやり取りをうんざりしながら交わしていたところに――待ち人来る。


律はお目当ての人を見つけ驚喜きょうきしてパっと立ち上がると、晴翔の方へゆっくりと歩いて行った。


店主はそれを見ていて、やれやれといった様子で首を横に振った。

何故なら律が近づいて行った男は、以前来たことのある軍人で――これがとんでもない美男子だ。

律が揚屋の前に居座っていたのは、やっぱりいい男を引っ張り込むためだったのだろうと思ったからだ。


「やぁ、大佐」

律はいつもの調子で声をかけるが、心では笑っていた。

何故なら晴翔が、前回もみくちゃにされた教訓を得て馬に乗ってきたからだ。これならベタベタ触られない。

笑うとまた落ち込んでしまうかもしれないと思い堪えることにした。


晴翔は馬から降りて、律と向かい合った。

「律殿、頼みがあります、異象が起きたようで、力を貸してください」


「いいよ、大佐の頼みだったら、なんでも聞いてあげるよ」店主に向かって律が叫んだ。「ほら見ろ!座ってるだけで依頼が来たぞ!」


晴翔は律が歩き出すと、彼の肩に1羽の燕が止まったことに気づいた。

「紬ちゃん、お久しぶりです」


燕がチュピチュピと鳴いた。


道中事件のあらましを聞いた律は、確かに異象の香りがすると感じた。

それはそんな気がするだけではなく、晴翔から漂ってくる血の匂いに混ざる異象の匂いを嗅ぎ取ったからだ。

律は鼻が利く、同じ妖術使いでもこれほど敏感に異象や異物の匂いを感じ取れる人間はごく僅かだ。


「桝谷家なんだけど、他に何か変わったことがなかったかな?悪いことでも、良いことでも」律が聞いた。


「お嬢様の縁談が決まったことくらいでしょうか、近々結婚式があるそうで、私も兄と出席する予定でした」


「相手はどんな人?」


「確か、造り酒屋の長男で、これが才覚のある人物らしく、もともと大きな造り酒屋なのですが、さらに大きくするだろうと将来を期待されているらしいです」


「多分だけど、ちょっと面倒なことになるかもね」律は合点がいったようだった。


「難しい案件になりそうですか?」


「見てみないとはっきりはしないけど、そうだね、難しい案件になりそうだよ。

大佐、俺にそんな丁寧な言葉遣いしなくていいよ、気楽に話してくれた方が嬉しい、堅苦しいのは苦手なんだ」


「分かった」律は人を寄せ付けない雰囲気を纏っていたから、律に少し近づけた気がして晴翔は嬉しかった。


どうして律の笑顔はどこか悲しげに映って、落ち着かない気分になるのだろうかと思った。


律と晴翔は〈北洲〉の港に着くと、すぐに桝谷家まで馬を走らせてきた。


馬を繋ぎ場につなぐと律は、桝谷家の屋敷に入ろうと敷居を跨いだ。


晴翔が律の手を引いて止める。「律、中は酷い状態で遺体はまだそのままにしてある、覚悟して入ってくれ、もし気分が悪くなったらいつでも言ってくれていい、すぐに中断しよう」


「大佐、ありがとう、俺もいろいろ見てきてるから遺体くらい平気だよ」

そう言った律だが、屋敷内の光景に驚いた。「こりゃ……すごいな……」


律は怯むことなく遺体をまたぎ、あちこちの戸を開け、ふすまや引き出しを探り始めた。


黒岡軍本部から応援に来た若い少尉に見張りを任せて、晴翔と一緒に律について回っていた伊織と颯真は、その家捜しするような律の行動を不可解だと思って見ていた。一体律は何を探しているのだろうか?


「第1大隊の他のみんなはこっちに来てないのか?」律が訊いた。


伊織が答えた。「悠成たちは今〈長峰ながみね〉の支局に視察に行っていていないんです」


「そうか、異象を見逃すなんて残念だな、でもこの惨劇だと見ないほうが良かったかもね、2人とも顔色が悪いけど大丈夫?」


「大丈夫です……もう吐くものが胃に残っていません」颯真が力なく言った。


「ハハッ!あと少しの辛抱だ。人間はもっと残虐なことができるものだよ。筆舌に尽くしがたい現場に赴いたりしてると、次第に吐き気は抑え込めるようになるけど、それでも慣れることはないね。慣れちゃいけないんだと思う。これを鼻の下に塗るといいよ」律が小瓶を颯真に投げてよこした。


颯真が小瓶の中身を指にとり鼻の下につけた。「これは薄荷はっかですか、呼吸が楽になりました」小瓶を伊織に渡した。

伊織も同じように小瓶の中身を鼻の下につけ、晴翔に渡した。

晴翔はそれを受け取り鼻の下につけると、律に返した。


「仕事柄異臭のするところに行くことが多いから、必需品なんだ」


律は最後の部屋を開けると呟いた。「――いったいどこにいるんだ?こう臭いがきついと探せないな」


広い屋敷の部屋を全部開けて探し回って、疲れてきたので律は少し苛立って叫んだ。「おい!虎!どこにいる!」


すると2階からゴトゴトと物音がした。


颯真は自分たち以外誰もいないはずの屋敷内から音がしてきたことで、一瞬で全身が凍り付いた。


「最初からこうしておけばよかった、そしたら歩き回らずにすんだのに。ったく、面倒かけやがって」ぶつくさ言いながら律はのろのろと階段をあがった。


2階の3つめの部屋まで来るとまた、ゴトゴトと音がした。それは衣装箱の中から聞こえているようだった。


律は衣装箱を開けてみた、その中には嫁入り道具が納められていた。

「ここにいたか、嫁ぐ娘にもたせるつもりだったんだろうな、それがこんなことになっちゃうなんて気の毒だ」律が衣装箱の中に手を入れ取り出したものは、1体の招き猫だった。


「こいつが異象の正体だよ、その昔猫が幸運を招くらしいと寺の和尚から聞いた商人が、人形師のとらってやつに頼んで作らせたものなんだけど、その人形師は死んだ後、怨霊になって何故か招き猫に憑依したんだ。

これは『堆金積玉たいきんせきぎょく』と言って、4体で1対になってる。その家にとって得となることを招く、例えば商売繁盛とか今回の桝谷家のような良縁とかだ、だけど願いが叶ったと喜ぶと、人形師は腹を立てて異象を起こすんだ。なんとも理不尽な話だな」


ただの可愛い招き猫に見えたが、このような惨劇を起こしたと知って颯真は、招き猫が酷く凶悪な猫に見えて身震いした。


晴翔が律に訊いた。「これをどうやって処理するんだ?」


「人間が持っていてはいけない物だから、とりあえず俺が安全に保管しておくよ。

問題は、こいつは以前にも封印されていたはずなんだ。どうやって封印を解いて出てきたのか、自力で封印を破いて出てこられるとは思えないから、封印を解いた奴がいるってことだ、だとするとちょっと厄介なことになる。封印を解いた奴は、かなり腕のいい妖術使いだってことと、残りの3体の行方だ、同じような異象が起きるかもしれないし、もしかするともうどこかで起きているかも」


ずっと律の肩に止まっていた燕が唐突に飛び立った。


律は懐から長方形の繊細な細工が施された手のひらに収まるほどの小さな木箱を取り出した。


蓋を開け無造作に招き猫を放り投げると、招き猫が木箱の中に吸い込まれていった。


それを見た晴翔たちは度肝を抜かれた。

招き猫の体積と、木箱の容積が釣り合わなかったからだ。


明らかに箱の方が小さく、招き猫が入るとは到底思えない。


口をあんぐりと開けている伊織と颯真を見て、律は愉快そうに笑った。

「この箱は異空間と繋がってるんだ、どんな大きなものでも入るよ、術がかかってるから当面はこの中に閉じ込めておける。この1体だけを封印し直すこともできるけど、憑依した怨霊を除霊するとなると、4体で1対だから、4体揃ってないとできない、そもそも怨念が強すぎて除霊できない可能性が高いんだけどね、いずれにしても他の3体を見つけてやらないと、俺が探すから大佐は手を引いていいよ」


「いいや、一緒に探す。我々が持ち込んだ案件だ責任があるからな」


「危険を伴うかもしれないよ」


「それならなおさらのこと、律1人に危険を背負わせるわけにはいかない」晴翔は断固として譲らない態度だった。


「分かった、じゃあ一緒に探そう」


「私はひとまず〈黒岡〉に戻って、総督に報告に行かねばならない」


律が訊いた。「電信じゃダメなのか?」


晴翔が答えた。「もし律の言う通り誰かが招き猫の封印を解いて故意に放ったのだとしたら、その誰かは捜査されていることを知り、焦ってとんでもないことをやらかすかもしれない、捜査は慎重に進めるべきだ。黒岡軍の兵士を疑っているわけではないが、事情を知る人は少ない方がいい、人の口に戸は立てられないからな、電信だと他の人にも知られてしまう、直接伝えにいくのが無難だろう」


「それならいいものがある」

律が木箱の蓋をまた開けると颯真は、招き猫が飛び出してくるのではないかと思い、僅かに後退りした。


律が取り出したのは4枚の月白色げっぱくいろの風呂敷だった。


「これをあげる、1枚は総督に渡して電信盤の代わりだ、使い方は通常の電信盤と同じように送りたい電信盤の名前と相手の名前を書くだけで送れるよ」

律は晴翔に2枚、伊織と颯真に1枚ずつ渡した。


「この布が本当に電信盤の代わりになるのですか?」伊織は訝しんだ。電信盤は石だ、風呂敷が電信盤の代わりだなんて、そんな馬鹿な話あってなるものか。


「なるよ、ちゃんと石の電信盤にも文字を送れる、まずはその布に承認させる血が必要だから、指先を剣でほんの少し切ってくれる?主を承認したその電信盤は、主がそれを持った時だけしか、文字を浮かび上がらせない、だから秘密裏に会話するのにちょうどいい」


剣で切って血を流した晴翔の指を、布の端に押し付けると、律は呪文を唱えた。


君命くんめいほうずる無二無三むにむさん暗暗裏あんあんりふでのぼす』


すると電信盤はひらひらと勝手に揺れ、自らくるくると巻き筒状になると収縮して、晴翔の手のひらに収まった。


律は伊織と颯真にも同じことをした。


伊織は今、自分の目で見たものが信じられなかった。手品を見ているようだった。

「こんな持ち運びできる電信盤など、見たことも聞いたこともありません、いったいどこでこんな電信盤を手に入れたのですか?」


「見たことも聞いたことも無くて当然だよ、作ったのは俺だし、今まで誰にも見せたことはないからね、俺みたいな一般人でも使える、電信盤を探すのは大変なんだ、遠くの電信盤まで行くのも疲れるから作っちゃったんだ」


まるで瑣末なことだと言いたげな律に晴翔が訊いた。「黒岡軍がこの電信盤の生産を依頼したとして、作れるものか?100枚で銀貨何枚だ?」


「簡単に作れるよ、布か木の板か、好きな物を用意してくれれば、あとはちょっと呪文を唱えるだけだから、100枚10銀貨でどうだ」


「そんなに格安でいいのか?このことが片付いたら正式に依頼する、何故今までこんなに便利なものを作ったことを、世に知らせなかったのだ」


「俺は今まで、軍と仕事をしたことが無かったから、知らせる機会が無かったし、誰も作ってくれって依頼しなかったからね。これは俺専用で作ったんだ」


颯真はまだ手の中にある電信盤を信じられず凝視していた。

「電信盤を作れることに、驚いているのですが」


律は得意満面の顔をした。「なんで?簡単だよ。石の電信盤だって誰かが作ったんだ、他人にできて俺にできないことはないだろ?」


伊織は電信盤を、誰もが簡単に作れるはずがないと分かっていた、律だからこそできたのだ、彼は自分たちが思っているよりずっと、力のある人物なのではないだろうかと思った。


頭上を旋回していた燕が、律の肩に戻ってきた。

「こいつが他の招き猫まで案内してくれる、大佐が総督のところに行く間、彼らに先に探してもらったらいいと思うんだけど、どうかな?」


「それはいい考えだ、伊織、颯真、招き猫を探しに行ってくれ、ただし見つけても接触はするな、私を待て」


伊織と颯真は敬礼し同時に返事をする。「承知しました」


律が燕に言った。「いいか、彼らを異物まで案内しろ、前みたいに海の上とか人間が通れないようなところを飛ぶなよ」


燕はジージーと鳴くと飛び立った。


伊織と颯真は、慌てて馬にまたがり燕を追いかけた。


少し離れたところまで来ると伊織は、ずっと疑問だったことを口にした。

「なあ颯真、いつのまに大佐は律殿とあんなに仲良くなったんだ?」


「言われてみれば、大佐の口調が以前と変わってましたね、何故でしょう?」

2人は首を捻った。


晴翔が若い少尉を責任者に任命し、屋敷の見張りと片付け、遺体の保管について指示し終えると、律の所に戻ってきた。


「さて大佐、俺は電信盤に総督を承認させるから、総督の所に連れてって」律が言った。


「ああ、西の空が暗い、雨が降りそうだ、日が暮れる前に辿り着きたいな、急ごう」


晴翔と律は〈黒岡〉を目指して馬を走らせた。


道中ぽつぽつと雨が落ちて来たものの〈黒岡〉に到着すると晴れていた。

落陽が〈黒岡〉を赤く染めている。


着いてすぐ、晴翔の兄である黒岡軍総督柳澤大智の執務室を訪ねた。


大智は晴翔と同じように端正な顔をしていたが、醸し出す雰囲気は、晴翔が厳格なら兄の大智は聡明といったところだろうか、晴翔は根っからの軍人肌だが大智は学者肌だ。

実際、明敏犀利で天人様に頼られることも多い。


大智は布の電信盤を見て非常に驚いた。

「律殿、これをあと300枚作ることは可能ですか?」


晴翔が答えた。「兄上、可能だそうなので、この件が片付いたら正式に、制作を依頼します」


「さすが手回しが早いな、よろしい」


電信盤を作ることは、どうやら決定のようだ。

思わぬところで金儲けができたと律は喜んだ。


律は大智の左手にはめられた黒い手袋が気になった。

「総督、その手は本当に動かないのか?」


晴翔がサッと律を睨みつけた。「律!」


律には大智の手の事を事前に伝えてあった、大智は手のことに触れられるのを取り分け嫌っているから、絶対に触れないようにと念を押した。

律に対して晴翔は、ふつふつと沸き起こる怒りを感じた。


大智は苦笑して、怒りだしそうな晴翔に手を掲げて制止した。

「気になるかい?以前戦場で負傷してしまってね、それ以来全く動かせなくなってしまった、感覚もなくて痛みがないのは幸いかな」


「手袋を取ってもらえる?それは怪我したんじゃないと思う。どうやら親子そろって憑かれやすい体質のようだ」


一瞬戸惑ったが手袋を取って左手を律に見せる。


「なかなか醜悪だろう、だから手袋で隠しているんだ」その左手はどす黒く変色していた。


「この部屋の中に、無くなっても困らない物ってあるかな?それを俺にちょうだい」律が言った。


「この文鎮はどうだろうか」大智が文鎮を律に手渡した。


律は石塚で颯真にしたときと同じように印を結んだ。


『憾むらくは烏滸の沙汰奉るに為ん方無し』


すると大智の手から黒い塊が飛び出してきて、文鎮の中に消えていった。

律はその文鎮を、招き猫を放り込んだのと同じ木箱に放り込んだ。


大智のどす黒かった左手は、徐々に健康な肌色を取り戻し始めた。


「長い間憑かれていたようだから、しばらく腕はしびれたままだと思うけど、3日くらいすれば動かせるようになるよ」律が言った。


大智は文鎮が、文鎮よりも小さな木箱に吸い込まれたこに驚き、自分の手が動かせるようになるという話は、頭に入ってこなかった。


「――君いったいどうやって」


律は大智が文鎮の事を聞いたのだとは思わず、左手のことだろうと思って言った。「除霊しただけだよ、左手は負傷して動かなくなったのではなくて、相手の剣にとり憑いていた怨霊がのり移ったんだ。それとこれを、護符だよ」律が一枚の札を大智に渡す。「あなたは颯真君と同じで憑かれやすい体質のようだから、肌身離さず持っていて、怨霊を跳ね返す効果があるんだ」


大智はそこでようやく、自分の左手が動かせるようになると理解して、僅かに感覚が戻ってきた左手を唖然と見つめた。


手の事を持ち出した律に怒っていた晴翔だったが、彼を疑い信じなかったことを後悔した。次こそは信じようと胸に刻んだ。

「手を尽くして調べ、治してもらえそうな人を見つけては、診てもらってきたが、誰一人として治せなかった――なのに君がこんなにいとも簡単に治してしまった」


「俺はこんなだけど、なかなか力があるんだよ」律は揚々とした。


その時布の電信盤が突然パッと晴翔の前で広がった。

伊織が書いた文字が浮かびあがる。


込田こむた松平まつだいら家で異象が起きているようです。屋敷を見張ります』


「2人とも気を付けていくように、そうだ君に手を治してもらった報酬を払わないとね」


金を取り出そうとした大智を律が止めた。「別にいいよ、あと数日は大佐に付きまとうことになるだろうし、そのお詫びも込めて」ひらひらと手を振り、意味ありげな含み笑いを漏らした。


付きまとうとは異物回収のことだけではなく、彼にちょっかいを出すという意味を含んでいると理解した晴翔は、顔を赤くした。


晴翔の反応に大智はぽかんとした。「どうした?なんでお前は赤くなってるんだ?」


「何でもありません。早朝出発します」


「ああ、逐一報告を入れてくれ、頼んだぞ」


「承知しました」


晴翔と律は執務室を退出した。


律にクスクス笑われ屈辱を感じた晴翔は、いつか仕返ししてやると策を巡らせた。

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