第4話救う

昼寝から目覚めた律は暇を持て余し、軍部の外の商店街をぶらぶらと歩いた。

何かが頭に引っかかり一軒の店の前で足を止めた律はその店に入ってみることにした。


そこは紙屋で店内には様々な質の紙が並べられていた。

「いらっしゃいませ、今日はどういった紙を――」

37歳くらいの、頭が寂しくなり始めた小太りなこの男は、律の姿を見るなり美しさに頬を染め放心した。


「店主、この店には何かとり憑いているようだ。ほら見て、この玉1か所切れているところがあるだろう?これをあの掛け軸に近づけると……ほら離れた」

律が円い輪の翡翠を見せると、放心していた店主の目が一瞬で覚めた。

「ど、ど、どうして、か、か、掛け軸に幽霊が!」店主は腰を抜かし、その場にへたり込んでしまった。


「大丈夫俺が除霊してやるよ。7銀貨でどうだ?」

店主は掛け軸を直視することもできず、怯えて律に縋った。

「そんなに高い金わ払ってしまったら今月は食うに困ってしまいます。紙1枚売るのにも苦労しているんです、多くない収入で一家を養っているこの哀れな商人をどうかお助けください」


「そうだな、このままにしておいたら、こいつは祟りを起こして、あんたを呪い殺しちゃうだろう、そうなれば俺も寝覚めが悪い。よし、特別に安くしてやろう、4銀貨でいいよ。それから魔除けの護符もつけてやるよ」


呪い殺されると聞いて、命が小さく消えて無くなったような気分になった店主は、急いで言った。

「ありがとうございます!お願いします、除霊してください!」店主の目から涙がぽろぽろとこぼれた。


律が呪符を取り出し掛け軸にかざすと、呪符が燃え上がった。

すると翡翠を掛け軸に近づけても、切れ目は広がらず閉じたままだった。

それを見た店主は、大喜びで涙を流しながら地面に頭をこすりつけて何度も礼を言い、律が差し出した護符を大事そうに受け取った。


律が4銀貨を懐に押し込み店の外に出てくると、まるで絵画から抜け出てきたような、うっとりするほど端正な面立ちの晴翔が立っていた。

黒々とした短髪に鋭く光る黒い目、筋骨隆々なその肉体、詰襟の軍服が良く似合う。


「颯真の儀式が終わったと聞いたので、律殿を探していました。それで、颯真の状態はいかがでしょうか?」


「まずまずだね、あんまり焦ってもよくないじっくりやるよ、それにしても彼は大佐の事を、とっても尊敬しているみたいだね、憧れちゃう気持ちは分かるよ、だってこんなにかっこよくて強いんだから、俺だって惚れちゃうよ」律の瞳に欲望が漂った。「颯真君は本当にいい子だね。食べちゃいたいくらいだ」


晴翔は自分が誘われたのかと思って、どうしようか考えていたことに恥ずかしさを覚えた、律が好きなのは颯真なのかと少しがっかりした。

「颯真は我が軍の大事な戦力です、お褒めいただき光栄に思います。その、彼をその……」言葉を切ると深呼吸して気を取り直した。「彼が望むことならば構わないが、意思に反するならば……」


「心配しないで、手を出したりしないよ、ちょっとからかっただけ」律は腹を抱えて笑った。


晴翔はからかわれただけだと知ってほっとした。でも何故ほっとしたのか自分でも分からなかった。


「先ほどの掛け軸に憑いた霊は、どのようなものだったのですか?颯真にしたのとは除霊の方法が違ったようでしたが、何か理由があるのですか?」


「ああ、さっきの見てたんだ」きまり悪げに律は頭を掻いた。

少しためらってから、律は先ほどの翡翠を懐から取り出すと手のひらにのせた。


翡翠の切れ目がゆっくりと開いた。


晴翔は驚いて目が点になった。「これはいったいどういうことですか?他にも怨霊がいるのですか?」


「ハハハッ!ただの小道具だよ、護符を売るためにちょっとした手品をして見せたんだ、普通に護符を買ってくれって言っても誰も買ってくれないからね。除霊は見せかけで実のところ、護符にご利益があると思わせて買わせたんだ」



「店主を騙したのですか?」晴翔は呆気に取られて怪訝な顔をした。


「騙したなんて人聞きが悪いな商売の戦術ってやつだよ、それにあの護符は本当にご利益があるんだ。あの店主から嫌な気配を感じたから、多分家族が何かに憑かれてせってるんじゃないかなって思ったんだ。護符に効き目があると分かれば、まずはその家族に使おうとするだろ、遠回りだけどその方が素直に護符を受けとってもらえるんだ、疑うなら調べてみてよ」


「疑ってはいません、失言しました」晴翔は深々と頭を下げた。


いくら金の為とは言え、4日間も拘束されるのにここまで来てくれたのだ、そんな奇特な人を、ほんの少しでも疑ってしまったことを後悔した。


律は晴翔の体にすり寄った。「お詫びに、今晩相手してくれる?なんなら今からでもいいけど」


今度はすぐに誘われていると理解して晴翔は赤面した。「私はその……そのようなことは……」何と言って返そうか返答に困ってしまった。


律が吹き出した。「冗談だよ、大佐が嫌がることはしないよ、でも、もし気が変わったらいつでも歓迎するよ」

手をひらひらと降りながら笑い声と共に彼は去っていった。


――どうして律に惚れられていると思い嬉しく思ったのか、律が好きなのは自分ではなく颯真なのだと知って、何故がっかりしたのか、からかっただけだと知って何故ほっとしたのか、寝所に誘われて、何故胸が高鳴っているのかまるで分からなかった。


風になびく銀色の髪の毛と、悠々と歩くその姿はとても艶っぽく、目が離せなかった。


老も若きも彼のその姿に魅せられていて、晴翔はそれを見て子供っぽい嫉妬心がこみあげてくるのを感じた。


律は翌日も颯真とお堂へ行き、瞑想をきっかり2時間行ってから、颯真と一緒に昼ご飯を食べようと〈鴻宰館〉に戻ってくると、伊織が待っていた。


「律殿、実は昨日颯真から面白い異象の話を、律殿にしてもらったと聞きまして、我々も昼食をご一緒させてもらえないかと思って、お待ちしていました」


「いいよ、じゃあみんなで食べようか」


伊織の隣に立っている青年が言った。「〈相木〉でお会いしていますが、我々は自己紹介をまだしていなかったので改めまして、私は黒岡軍少佐の片岡かたおか悠成ゆうせいです。第1大隊で副長をしています、よろしくお願いします」切れ長の目に、尖った顎は美しく、分厚い胸板の彼には気品が漂っていた。


「黒岡軍少佐高橋たかはし光輝こうきです。悠成とは幼馴染で今は相棒です、よろしくお願いします」肌は浅黒く、笑うと八重歯が覗く、爽やかな美青年だ。


「黒岡軍少佐増田ますだけいです。光輝とは同期です、よろしくお願いします」背筋のいい彼は軍人というよりはどこかの若旦那だ。物腰が柔らかく滑らかな動き、良い家柄の出なのだろうと律は思った。


「黒岡軍大尉増田ますだ奏多かなたです。慶の弟で、相棒です、よろしくお願いします」兄の慶とは雰囲気が違って、少年と言ってもいいくらいの可愛い笑顔の彼は、伸びやかさが顔に現れていた。2人とも大切に育てられたのだろう、実直な人柄だ。


やっぱり黒岡軍は全員丁寧に礼をするようだ――仕方なく律も礼を返した。「こちらこそよろしく」


伊織が言った。「全員、自己紹介が済んだところで、〈鴻宰館〉は広いですが、さすがに大人の男が7人揃うと窮屈だと思います。我々の兵舎の談話室に行きませんか?」


「俺は構わないよ」


律と第1大隊の面々はぞろぞろと兵舎に向かって歩いた。


伊織率いる第1大隊は、6人からなる精鋭部隊で、軍の中でも畏敬の念を抱かれる存在だった。

その彼らが揃って軍の敷地を歩くとなると、ただ歩いているだけなのに兵士たちは彼らを仰ぎ見て、一歩退き道を開けた。


昼食は海鮮鍋焼きうどん、稲荷寿司、胡麻豆腐と香物だった。

海鮮鍋焼きうどんの上には卵が1個落としてあった。


「おお、この白いのは卵じゃないか!卵は貴重なのになんで黒岡軍は、こんなに沢山卵が食べられるんだ?昨日も今日も朝食に卵が出てたぞ」律の目が卵の白身にうっとりとした。


嬉しそうに卵を見つめる律に、伊織は笑いながら言った。「黒岡軍は養鶏場を所有しているんです。他にも養豚場や、田畑を所有しているので、豊富な食材を新鮮なまま調理することができるんです」


「そうなのか!羨ましいな!俺もここに住みたくなったよ。俺はこの卵が大好物なんだ。初めて食べた時は感動したな」律はその時の感動が舌に蘇るようだと感じた。


律の昼飯を啄んでいた燕がジージーと鳴いた。


「俺が卵を食べるとこいつは怒るんだ、仕方ないだろ、美味いものは美味いんだ」

燕が律の言った言葉に、腹を立てているように見えて伊織は可笑しくなった。

「では、律殿の食事には必ず卵を入れるように料理長にお願いしておきましょう」


「おお!中佐ありがとう、一生分の卵を食べられそうだ。そうだ、お礼に君たちが〈白木綿〉にやってきたら、普通ならお目に掛かることができないような高級娼婦をあてがってやるよ」律は淫情たっぷりに話した。「花梨かりんは愛らしい見た目からは想像できないほどの技を持ってるし、昇天できること間違いなしだ。大人の女が好みなら桔梗ききょうだな、軍人は疲れることも多いだろう?そんな時は桔梗の豊満な胸に抱かれると、童心に帰ったような気になれるぞ。一番の高級娼婦は桜子さくらこだ、中佐は桜子がいいかも、女神のように美しい女で、目を合わせただけで射精しちゃった男がいたぐらいだ、桜子はそう簡単に体を許さないんだけど、俺が中佐の為に抱かれてやってくれって桜子に言ってやるよ」


顔を赤くして固まっている伊織に悠成がかぶりを振って言った。「律殿、申し出には感謝いたします。ですが、柳澤中佐はこういった話題が苦手で」

悠成に微かに笑われた伊織は癪に障った。

「違う!苦手なんじゃない!そういった話題を軽々しく口にしないだけだ!」


悠成が律に耳打ちした。「童貞なんです」


「嘘だろう……どんな女も落とせそうな顔をしているくせに、女に手を出したことが無いっていうのか?言い寄ってくる女がわんさかいるだろう?それでも手を出さずにいられる男なんているか?もしかして柳澤中佐はどこか悪いのか?」


伊織に射すくめられた悠成は肩を竦めた。


「私はただ好いた相手が現れるのを待っているだけです」伊織がもごもごと言った。


律は伊織の顔をしげしげと見て、ピンときた。

「なるほど、なるほど、ふーん、そういうことか……柳澤中佐には大切にしたい恋人がいるんだ」


うどんをすすっていた颯真がむせた。「ええっ⁉」


顔を真っ赤にしている伊織を全員が見つめて、律が言ったことは正解なんだと、あのとんでもなく初心な柳澤中佐に恋人がいる事実に驚愕した。


「いつ⁉どこで⁉どんな人⁉」颯真が伊織に詰め寄った。


「おいおい、待てよ、私に恋人なんかいないさ、律殿が適当に言っただけだ」


悠成がまた伊織を嘲笑った。「いやいや、その顔の赤さは事実だと言っているようなものでしょう、隊長、白状しちゃいましょう、笑いませんから」


「もう笑ってるじゃないか!さっきからお前は私を嘲笑っているだろうが!絶対に何も言わないぞ!」珍しく伊織は動揺していた。


「隊長、何も言わなくてももうすっかりバレてますよ、いいじゃないですか、隊長にも恋人ができたんだ喜ばしいことです。ところでその人とはどこまでいったんです?」光輝が八重歯を覗かせて、ニタニタ笑った。


「うるさいぞ!悠成と光輝が関わるといつも面倒なことになる、お前らは口を慎め!」


慶が止めに入った。「まあまあ2人とも、初心な隊長のことだ、手すらつなげずに終わってしまうかもしれないんだから、あんまりからかうと気の毒だよ」


「増田少佐は手厳しいな、柔和な雰囲気からは想像できないね、そんな人がトゲを突きさすから余計に衝撃的な一撃だったよ」律は涙を流しながら笑い転げて言った。


「ん?何か悪いこと言いました?」慶は本気で分かっていなかった。


「兄さんは天然だから」奏多がからからと笑った。


颯真が悪魔の顔を見せた。「大佐に問いただしてもらいましょう。そうなれば隊長だって答えないわけにはいきませんよ、ねえ?」


伊織は底知れない恐怖を感じた。「颯真、頼む、私とお前の仲だろう?兄弟みたいなもんだ、命を預けあった相棒じゃないか、私を狼の群れに放り出すって言うのか?」


死にそうな伊織の肩を律が慰めるように叩いた。

「誰にも気づかれなかったってことはまだ結ばれてないってことだろう、柳澤中佐の切ない片思いなんだよ。実を結ぶまでこのことはそっとしておいてあげよう。

ところで君たちは異象の話しが聞きたかったんじゃないのか?」


追い込まれた伊織は律の言葉に救われ、話題を変えてくれた律に感謝して、この好機に飛びついた。「はい、聞きたいです」


さっきまで伊織に注目していた6人の青年も、期待のこもった瞳を律に向けた。


「そうだな、あれは夏の暑い日だった、俺が山道を歩いているときだ、呼び止められたんで振り返ってみると少年が立っていた。道に迷ったので人里まで一緒に行きたいと言われたんだ。その少年の瞳が真っ白で盲目だったんで、気の毒に思った俺はその男の子の手を引いて一緒に山を下りてやった。母親からの『お礼がしたいから夕飯を食べて行って下さい』って申し出を、俺は喜んで受けることにした。

少年の父親が言うには『最近は雨がとんと降らなくて困っている』ということだった。だけど俺がいた隣村は2日前に嵐がやってきて鉄砲雨が降ってたから、俺は異象のせいなんじゃないかと思って、翌朝調査することにした」


6人の若い軍人は雨を降らせない異象とはどんなものなのかと考え込んだ。


「朝早く異物を探して村を歩きまわって洞窟を見つけて、気になったから入ってみることにした。しばらく洞窟の中を歩いていると日の光りが見えた。俺は反対側の出口に出てきたのかと思ったけど、実際には入り口に戻ってきてしまっていた。洞窟の中はずっと1本道だった筈なんだが、不思議に思ってもう1度入ってみたけど結果は同じ、入り口に戻ってきてしまう、何でだか分かる?」


律の質問に伊織が答えた。「洞窟事態に術のようなものがかけられていたとかですか?」


「そうだ、洞窟に術がかけられていた。誰が何のためにそんな術をかけたんだと思う?」


悠成が答えた「洞窟の奥に異物があってそれに誰も近づけないようにするために洞窟に術をかけたのだとしたら――異象は枯渇ですよね、村を枯渇させ滅亡させたかったということでしょうか?」


「普通そう思うよな、俺も村に恨みを抱いている人間がいてそいつが異物を仕込んだんだろうと思ったんだ。それで洞窟にかかってる術を解いて異物を探そうとしたんだけど術が解けなかったんで、人ではない何かの仕業じゃないかと疑った――人間がかけた術というのは解くことができるけど、妖の念は飛ばしてる奴の妖力を削がないと解けないんだ。そこで俺は村人から話を聞いて回ることにした。雨が降らなくなったのは鎮守神への奉納祭の後からだということ、その時丁度賽銭泥棒が現れたということだった」


「賽銭泥棒に怒った神様の仕業ですか?」颯真が言った。


「それが違ったんだ、神様は長い間降臨していないようだった村人は空っぽのご神体に手をあわせていた。そこで行き詰まってしまった俺は、仕方なくもう一度村人に聞いてまわることにした。大人に聞いてダメなら子供だ――子供は妖とよく遊ぶから事情を知っていることが多い」


「え⁉妖と遊ぶ⁉」奏多が驚いて言った。


「うん、君たちも子供の頃遊んだことがあったりするんじゃないかな。この時も子供たちが解決してくれたよ。最近おかしなことは無いかって聞いたら、〈白滝しろたき大池おおいけ〉で鯉がいっぱいとれるようになったって言うんだ。池に行ってみると、雨が降らないせいでほとんど水が無くて、鯉は素手で捕まえられるほどだった。そこで俺は真っ白いナマズの妖を見つけた」


「そのナマズが異象を起こした、妖に異象が起こせるものなのですか?」伊織が聞いた。


「妖には念を使うことで異象を起こせる奴がいる。これは俺の推測だけど、賽銭泥棒が洞窟の祠にも手をだしたんだろうと思う、その時土地に張られた結界を偶然解いてしまった――池の底に封印されていたナマズは結界が解けたことで力を使えるようになり、結界を張りなおされないよう洞窟に念を飛ばして、人間が道祖神の石仏に近づけないようにしたってところだろう」


「ナマズと雨にどういった関係があるのですか?」悠成が言った。


「ナマズは封印を解くために池の水を干上がらせる必要があったんだ。それで雨が降らなくなってしまったってわけだ」


「それでそのナマズはどうなったんですか?」伊織が訊いた。


「ナマズは捕まえて結界を張りなおした。結界を張っておけば問題ないだろうと思った俺は、翌朝寺に持って行ってからナマズを封印することにして、その日は眠りについた。真夜中に誰かが俺を覗き込む気配を感じて目を覚ますと、真っ白な目をした盲目の少年が俺をじっと見ていた」


6人の若い軍人はその光景を思い浮かべて、一斉に鳥肌がたった。


律が笑いながら言った。「不気味だよね、俺が最初に出会った少年の正体は、ナマズの妖が念を飛ばすことで作り上げた少年の幻影だったんだ。ナマズは俺が思っていたよりも、力を取り戻してしまっていた。『目玉をよこせ』と言って俺に襲い掛かってきたんで、俺は少年と格闘して危うく目玉を取られそうになったけど、なんとか取り押さえることができたんだ」


「目を奪おうとしたのは、自分の見えない目を律殿の目と入れ替えることで見えるようにしたかったということでしょうか?そんなこと可能なのですか?」慶が訊いた。


「うん、どうだろうね、俺もやったことが無いから、出来るかどうかはわからないな、この世には止まった心臓をもう1度動かすことができる人間もいるって聞くから、妖力の強い奴なら可能かもね。ナマズの目は長いこと池に沈められていたせいで退化しちゃったんだと思うよ」


目を丸くした颯真が訊いた。「心臓を動かすって、生き返らせることができるということですか⁉いったいどうやって⁉」


「さあ、俺は死者専門だから生者のことはよく分からないんだ、何となくだけど術とか念とかじゃなくて、特別な力を持って生まれたんじゃないかって思ってる」


「じゃあなぜその人は人々を救わないのでしょうか?」光輝が言った。


「それは……こういうと無情に聞こえるかもしれないけど、人間はいつか死ななきゃならない、たとえ辛い死に方だったとしても受け入れて天界に昇るんだ、そして転生を待ち、新しい人生を始める、だからこの世は変化するし進化する。それに、長生きできたとしても、体の衰えを止めることはできないから、いずれ肉体が朽ちてしまうよ」


「人は死に生まれ変わることで、この世に新風を巻き起こし延いては人々を救っているのですね」慶が言った。


「うん、いいこと言うね」律が言った。


「少年の家族もナマズの妖が作った幻影ですか?」伊織が言った。


「俺もそれが気になって、翌朝少年が自分の家だと言った家屋に行ってみた。そこには先日夕飯の世話になった家族がちゃんと住んでた。彼らは生身の人間だったけど、少年の母親だと名乗ったその女は、男の子供はいない、俺には会ったことがないと言った」


「ナマズが念を送っていたってことですか?」颯真が言った。


「そんなところだ、その家族はナマズに家族だと思い込まされていた。俺が捕らえたことで効力が消えて、その間のことをすっかり忘れてしまったってわけだ」


屈強な悠成でも瞳に恐怖が僅かにあらわれていた。「妖にはそんな強力な力を持った者もいるのですか?」


「妖は普通そこまでの力はない、せいぜい人間にいたずらをするくらいだ、ナマズも何か悪さをして池の底に封印されたんだろうけど、封印した場所が悪かったんだ、山や川、湖、大池は気場と言って生命力の強い特別な場所であることが多くて、ナマズも大地から力を得て祟り神になったんだろう、だから術ではなくて念で人の姿を生み出したり、人の心を操ったり、雨を降らせないようにすることができたんだ」


話しの中に幽霊が出てこなくてホッとした颯真が言った。「そのナマズの妖は今どうしているのですか?」


「寺に封印されてるよ、時々様子を見に行ってるけど大人しくしてる。祟り神っていうのは、手厚く祀ってやればその土地の守護神になる、決して悪いものじゃないんだ」


晴翔が談話室に入ってきた。

「やっぱりここにいたか、食堂に来ないと思ったら、お前たちは何をしているんだ?」


6人は弾かれたように立ち上がって、晴翔に敬礼した。


伊織が答えた。「律殿に異象の話をしていただいていました」


晴翔は呆れてため息をついた。「律殿、部下があなたにまとわりついてしまって申し訳ない、迷惑ならそう言ってくれて構いませんよ」


「迷惑なんかじゃない、俺も楽しんでるよ」


しゅんとした6人の顔がパッと明るくなった。


晴翔が命令した。「もうお開きだ、軍務に戻れ、颯真は部屋でちゃんと休め」

6人が談話室から出ていくと、晴翔がこめかみを揉んだ。


「大佐疲れてる?顔色も悪いみたいだ」


晴翔がため息をついた。「昨日久しぶりに徹夜をしまして、赤坂軍あかさかぐんの嫌がらせが酷くて頭を悩ませているんです。先日の〈相木〉――おそらく赤坂軍の仕業でしょう、黒岡にとって重要な灯台が壊されて出向くことになったんです。赤坂軍の総督桜田さくらだ恭一きょういちは黒岡軍を敵視しているようで、うちの総督は天人様から頼られることも多いし、脅威なんでしょうね、律殿にこんな内部の事情を話すべきではないと分かっているのですが、どうにも心が乱れていて、聞かなかったことにしてください」


「大佐にも瞑想が必要かもね、柳澤大尉と一緒にやってる瞑想を教えるから心が乱れた時にやってみて」


律は両の親指と人差し指を合わせ、安座した両膝の上に乗せた。


晴翔が同じようにすると律が言った。「柳澤大尉に言ったのよりは少し難しいことを言うよ。まずは呼吸に意識を集中させて心を落ち着けて、坐禅と違って無になる必要はないんだ、雑念が浮かんできても考えを止める必要はない、それを受け入れて再び呼吸に意識を集中させる。重要なのは今この瞬間一つのことに集中すること、体の感覚一つ一つに意識を集中させて、心地よさ不快さを普段とは異なる考え方をしたときどう感じるのか、自分の新しい一面を見つけられるはずだよ。感覚を客観的に捉えられるようになったら、今抱いている感情を一つ一つ明確に心の中で言葉にしてみて、そしてまた呼吸に集中する」


晴翔は目を瞑り呼吸に意識を集中させた。自問自答するうちに頭の中がはっきりとするのを感じた。

「これはすごく良い!頭の中が整理されたようだ。今なら冷静に分析ができる、やるべきことが分かりましたよ」晴翔は目の前の霧が晴れたようだった。


「役に立ててよかった」律はにっこりと笑って、また晴翔を落ち着かない気分にさせた。


「役に立つどころか、颯真の顔色もみるみる良くなって感謝してもしきれないくらいです。私は軍部に戻りますが、律殿はゆっくりされていてください」


「ありがとう、快適に過ごさせてもらって俺の方こそ感謝するよ」

晴翔が軍部に戻ると律は昼寝する場所を探しに行った。


そうして4日間律と瞑想した颯真は、悪夢を見なくなり平静を取り戻した。


〈黒岡〉に来て5日目の朝、律が颯真の状態を確認しようと兵舎へ向かうと、晴翔も様子を見に来ていた。


「やぁ、お兄さんたち!柳澤大尉、昨晩はよく眠れたかな?」


「律殿、おかげさまで随分とよくなりました、昨晩も悪夢を見ることなく朝までぐっすりと眠ることができました、本当にありがとうございました、今日帰られるのですか?」


「うん、飯も酒も十分堪能させてもらったからな、もう出ていくよ」


「なんだか寂しいですね――律殿とはもっと話したかったです。異象の話とても興味深かったです」


輝くような笑顔を向けられて、これがこの子の本来の姿なんだなと律は思った。


「俺もすごく楽しかったよ、君はとても俊英だよ、粒粒辛苦を重ねて目的を達成できるのは君の強みだと思う。でもね、人間の心というのは脆いものなんだ、これはどんなに強い人間だって同じこと、瞑想は毎日30分くらいでいいから続けるといい、君の心を辛苦から解放してあげる時間を作ってあげて、きっと君の役に立つから、じゃあまたどこかでね」律は颯真の頭をぽんぽんと叩いて、頬にチュッと口づけた。


颯真は顔を真っ赤にして、目を回した。

隣で見ていた晴翔は唖然とし体が硬直してしまった。


そんな2人の様子が律は面白くて大笑いしながら、手を振って肩に止まった燕と共に歩き去っていった。


正門まで来ると、目を回している颯真を兵舎に1人残し、走ってきた晴翔が律に追いついた。

「港までお送りします」


「そんなの別に気にしなくていいのに、大佐は本当いい人だね、また何かあったらいつでも相談してよ、大佐の頼みならなんでも聞いてあげる」


「今回のことも含めて感謝いたします。それであの……颯真とはその……そういった……」そこで言い淀んでしまった。


颯真との関係を聞きたいが何故か胸がギュッと締め付けられ言葉が出てこなかった。


普段の凛々しい顔が、俯いて鬱々としているように見えたので、颯真を心配しているのかなと律は思い、ちょっとやりすぎてしまったと反省した。

「大丈夫だって、大佐の大事な颯真君に手を出したりしないからさ、懐いてくる彼があんまり可愛かったから思わずしちゃっただけ、深い意味はないよ」

じゃあねと言って律が船に乗り込むと、晴翔は律に深々と一礼した。


律の長い髪が風にそよそよと揺れ日の光りを反射してキラキラと煌めいた。

顔にかかった髪の毛の下で目を閉じて微笑む。

晴翔の反応が律には新鮮で、可愛いとさえ思った。

律の心に微かで淡い色だけれども、確実に芽生えてしまった何かが、律の体内に流れた。

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