第3話黒岡軍
船に揺られること1時間ほどで、律は晴翔と共に〈黒岡〉の港に降り立った。
港沿いに1本の大きな通りがあり、問屋や飯屋、甘味処が立ち並ぶ。
日も暮れて夜の帳が下りてきているというのにまだ賑やかだ。
柳並木の道を進んでいき、上之橋と書かれた橋を渡ると薄暗闇の中、炎に照らされた黒岡軍の正門が見えてきた。
黒岡軍の敷地を、お堀がぐるりと取り囲んでいて、西側には大きな池がある。
四季折々に花が咲く外周は、風光明媚な景色に彩りを添えている。
正門をくぐり中へ入ると律が呟いた。「こりゃなかなか立派だな」
これだけ立派なら飯も酒も期待できるぞと律は胸を躍らせた。
「敷地内は
大身屋敷を通り過ぎ、何棟かある兵舎の中でも最も大きな2階建ての建物に入った。
「ここは、第1大隊の兵舎です。」
中に入るとそこは土間になっていて簡素な造りの炊事場があった。
板張りの廊下を進んでいくと、座卓が3つ並べられた部屋があった、談話室のようだと律は思った。
談話室の隣に廊下があり奥は洗面所のようだ。
廊下からは庭が見えた。庭といっても木や花は植えられていなくて、ただの砂地だ、ここは剣術の稽古をしたり、体を動かしたりするための庭なんだろう。
晴翔は1階の中庭に面した部屋をノックした。
中から青年が顔を出した。確か、〈相木〉で会った柳澤伊織中佐だったなと律は思い出した。
「大佐、いま颯真の様子を見に来ていたところです」
「颯真はどうだ」
伊織は声を落として答えた。「ご心配をおかけして申し訳ありません。颯真は辛そうに見えます。食事もあまり喉を通らないようで昼食は食べませんでした。夕食もいらないと言っています」
自分の事を話しているのだと気が付いた颯真が伊織の後ろから出てきた。
「大佐、俺なら大丈夫です。今日はちょっと疲れていて早く休みたかっただけです。明日には良くなります」背筋を伸ばし僅かに声を大きくし、どうか弱弱しく見えませんようにと心の中で願った。
しかし、それは徒労だった。颯真の顔は青褪めていて、目の下にはくっきりと隈ができていた。どうしたって弱っているようにしか見えない。
律には以前石塚で会った時より、少しやつれているように見えた。
「まあまあだね、さすが日ごろ鍛錬している軍人さんだ、普通の奴なら今頃暴れまわっているか、殻に閉じこもっちゃって放心しているかのどっちかだよ、あれに憑かれてこれほどしっかりしていた人間は、今までお目にかかったことが無い」
その言葉を聞いて颯真は胸を張り、傾倒する晴翔に恥をかかせなかったと自賛した。
颯真が子供の頃、晴翔はいつも優しかった。父親に叱られたときは慰め励ましてくれた。大きくなって軍に入隊してからは、立派な軍人になるよう時には厳しく愛情を持って教え導いてくれた、兄のようで、もう1人の父のような存在だった。
晴翔のような軍人になりたいと目指してきた。だから絶対にがっかりさせたくなかった。
伊織は律の肩に燕が1匹止まっていることに気づいた。
「――あの、律殿の肩に燕が」
「ああ、これは俺の相棒」
律の肩にちょこんと止まっている燕を見て、伊織と颯真は燕って懐くのか?と首を捻った。
「お前の治療のためにわざわざお越し頂いたんだ。明日からは軍務を離れ、治療に専念しろ」
日増しに顔色が悪くなっているようで、晴翔は生気を失いつつある颯真を心配して軍務から外すことにした。
颯真が晴翔を慕うように、晴翔は颯真を歳の離れた弟のように可愛がってきた、生まれた時は本当に我が事のように嬉しかった。
この手に赤子を抱いた時の感覚は今でも忘れない。甥っ子で、部下でもある彼を厳しく育てなければという思いと、甘やかしたい衝動がいつも晴翔の胸中で戦っている。
颯真は弱虫だと思われたくなくて、肩を怒らせて精一杯強がった。
「休暇は必要ありません。軍務を行うことに支障はありません」
「命令だ、従え」
「……承知しました」颯真は晴翔に敬礼した。
「明日からよろしくね、俺のことは律って呼んで」
「よろしくお願いいたします」
律には颯真が納得していないように見えた。
軍務を外されたからなのか、律を信用していないからなのか、律は彼の真意をはかりかねた。
颯真の部屋を後にした晴翔は律を客室に案内した。
「ここは〈
北と南に2棟左右対称に並び、
晴翔は南側の棟に律を案内した。
「この部屋をお使いください、一人世話係をつけます。不足があれば何なりとお申し付けください。必要なものを手配させます」
てっきり一般の簡素な造りの部屋に案内されると思っていた律は、思いがけない手厚い待遇に驚いた。「――ありがとう」
晴翔が部屋の片開き戸を閉めて出ていくと、律は早速部屋を一通り見て回ることにした。
その部屋は手前に座卓が1卓、座布団が向かい合わせに4枚敷いてある、部屋の隅には赤い布張りの、いかにも高価そうな長椅子に、高価そうな箪笥が1棹置いてある。
引き戸を開けると、布団が8枚ほど敷けそうな広々とした部屋の中央に布団が1組敷かれていた。廊下の先には洗面と風呂場まで備えてあった。
これはなかなか良い部屋だ、居心地もよさそうだし布団だってふかふかして温
かそうだ、いつも寝泊まりしている宿屋とは雲泥の差だ。
4日と言わずもう少し長めに言うべきだった、もったいないことをしたと律は思った。
翌朝戸を叩く音で目を覚ました律が目を開けると外はすでに明るかった、外で燕と雀が何やら死闘を繰り広げているようで、激しい鳴き声が聞こえてきた。
律は布団の中で大きく伸びをすると、起き上がって目を擦りながら窓に近づいた、燕と雀は1匹の気の毒なミミズを奪い合っていた。
燕と雀の間に挟まれて、逃げ場のないミミズの悲痛な叫びが律の耳に聞こえた気がした。
「紬、俺たちの朝飯がきたようだぞ」
燕が律の声に反応して室内に入ってきた。
敵を失った雀はミミズをくちばしでつかむと、どこかへ飛んで行った。
律は半ば寝たまま玄関の片開き戸を開けると、そこには15歳くらいの少年が立っていた。
その愛らしい少年は律を少し恐れているようで、俯きおどおどとしていた。
「君はもしかして大佐がつけてくれた世話係かな?」
「は、は、はいそうです。吉田玲也と申します。朝食をお持ちしました」少年は赤面した。
「ありがとう、俺は律だ、よろしくね」律は部屋に玲也を通した。
玲也は盆を座卓に置くとそそくさと出ていってしまった。
どうしてあんなに顔を真っ赤にして、慌てて出て行ったのかと律は不思議に思ったが、ふと鏡に映った自分の姿を見てその理由に気が付いた。
着物の前が完全にはだけていて、胸板や足まで露わになっていることで目のやり場に困ってしまったのだ。
早朝から幼気な少年の心を乱してしまったと一笑した。
盆にのった朝食の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、美味そうな匂いが律の腹を刺激すると、またもや4日と言ったことを後悔した。
律の朝食を紬も一緒に啄んだ。
「なあ紬、軍に手を貸して食い扶持を稼ぐってのも悪くないな」
紬がチュピチュピと鳴いた。
食べ終えた律は満足して縁側に寝転がり、また2時間ほど寝た。
そろそろ日が高くなるという頃に、ムクッと起き上がり歯を磨いて顔を洗うと颯真の部屋を訪ねることにした。
颯真はというと昨晩も眠れない夜を過ごしていた。うとうとすれば悪夢に襲われ、一晩中寝返りを打ち続けたため疲弊していた。
朝早くに律を訪ねようと思って〈鴻宰館〉へ向かって歩いていると、世話係をしている玲也にばったり出くわしたので律の所在を確認したら、『朝食の御盆を下げに行ったときは、〈鴻宰館〉の縁側で就寝されていました』と言われたので、律が出てくるのを〈鴻宰館〉の外で待つことにした。
時間を持て余した颯真は本を読んだり、剣の修練をしたりして午前の大半を潰した。
だけど全く集中できなかった。早く軍務に戻りたい――頭にあるのはそればかりで、心の
「俺は弱虫じゃない……」拳を握りしめた。
空は明るく太陽が
律が部屋から出て来ると、颯真の焦れていた気持ちが少し落ちついた。
「あれ?柳澤大尉ごめんね待っていてくれたんだ、声かけてくれてよかったのに」
「玲也から就寝されていると聞いたので、外で待たせていただきました」
「そうだったのか、ここの朝飯があんまり美味かったから腹いっぱい食べたら眠くなっちゃって」
「うちの料理人たちは腕がいいですから、気に入っていただけて良かったです」
颯真はこの男を信用していいのか、正直分からなかった。
大佐は信用しているようだけど、妖術使いはさもしいと聞いたことがある、金が欲しくて何かの術をかけたのかもしれないという気持ちが拭えなかった。
だが、今はこの男に頼るしかない、どういう人物なのか、何故ここまで来て颯真を助けようとしているのか、何を考えているのか分からないが、他に一刻も早く軍務に戻るための方法が思いつかなかった。
「律殿、今日はよろしくお願いいたします。と言ってもいったい何をするのですか?俺はどうしたらよいのでしょう?」
「大尉はただ座って精神を安定させてくれればいいよ、でもその前にどんな悪夢を見ているのか教えてくれるかな」
律と颯真は庭の長椅子に並んで座った。黄梅が咲き誇っていた。
「夢の中で俺は戦場にいます。とても現実的で、血の匂いまでも感じられるほどです、俺は全身血みどろで剣を構えていて、敵を刺し前進していくのですが、ある兵士を刺した時に違和感を覚えて、ふと自分がたった今刺した兵士を見下ろすと、彼はまだ幼く、10歳にもならないような子供で兵士ではなかったのです。
私は
そして最後には腕に抱えた少年が、突然目を見開き『どうして殺したの?』と私に問いかけるのです。そこでいつも目を覚まします」
自分を見失っていることを恥じているのだろう、立派な晴翔にしっかり者の伊織が上にいれば分からないでもない。
「なるほど、大尉は失敗を恐れているんだね、自分の置かれている立場と実力が見合ってないと思っていて、それを周囲に気づかれるのが怖いようだ。自分を過小評価しているのかな?他人の評価が気になる?」律は何も言わない颯真の目を覗き込んだ。「失敗して馬鹿にされるのを恐れているというよりは、慕っている大佐に恥をかかせたくないから失敗を恐れている、そんな気がするな。
君は大佐に認められたくて必死になっているようだけど、俺の目には大佐が君に失望しているようには見えないけどな、それでも君は満足せず自分を追い詰めるんだろうね、自分の実力に奢ることなく高みを目指す、それは悪くないと思うよ、でも時にはその心の底にある恐怖心を開放してやることも必要だ。もしかして君は高貴な生まれなのかな?」
律が近づけていた顔を話すと、颯真は詰めていた息をそっと吐きだした。
「私は黒岡軍総督
「驚いた、君たちの大佐は、なかなかのお坊ちゃんだろうとは思っていたけど、まさかそこまでとはね、それで納得がいったよ、やけに俺の待遇がいいなと思っていたからさ、それじゃあ君は次期総督か……重責だね、君が身動き取れなくなるほどに失敗を恐れてしまうのも納得だね。
ところで、ここにはお堂があるって聞いたけど、そこは使えるかな?できれば人が入って来ないようにしたいんだ」
「早朝はお堂に人がいますけど、この時間は誰も来ないので問題ないと思います」
颯真について兵舎を通り過ぎ、道場の奥にひっそりと佇む建物に入ると、律の肩に止まっていた燕がどこかに飛んで行った。
中には3mはあろうかというほど大きな観音像が鎮座していた。
「如意輪観音かこれは丁度いい、君を苦しみから救ってくれるかもね」
「この観音像は先々代の頃に、お世話になったお寺から寄贈されたものなんです。我々は毎朝ここに来て、経を唱えます。煩悩を打ち砕き、剣の鍛錬に専念できるように」
律が観音像に合掌したので、颯真も合掌した。
「それじゃあ始めようか、君はここに座って」律は颯真を誘導して観音像の左側に座らせた。
正座して礼儀正しく座った颯真に、律が手本を見せた。「俺の真似をして」
律は安座すると両の親指と人差し指で2つ輪を作り、左右の膝の上にそれぞれ乗せた。
そっくりそのまま颯真が真似をする。
「瞑想の一般的な姿勢だよ、心を落ち着けて呼吸だけに意識を集中させるんだ、頭を空っぽにする必要はないよ。考えていいんだ、今何を感じているのか客観的にとらえて、呼吸に意識を集中させながら今どんな感情を抱えているのか明確にしてみよう。休憩を挟みながらじっくりやっていくよ」
律の手から赤い光の筋が颯真の心臓に流れ込む、その瞬間暖かな風が吹き込み彼を包んだ。
何か大きな手に守られているようで、力がみなぎるようだった。
瞑想を始めて――何度か短い休憩を挟んだ――きっかり2時間たった頃、律が俯いていた顔をゆっくりと上げた。
それを見つめていた颯真は、律の目と目があった。
瞳には漆黒の暗闇が漂っていた、ただただ黒くどんよりとしていて、颯真は底知れない恐怖を感じた。確か彼の瞳の色は薄かったはずだと思っていたら、律が1回瞬きをすると彼の瞳は元通り薄い紫水晶色に変わった。
目の玉が飛び出そうなほど驚いている颯真に、律は愉快そうに口角を上げた。
「今日はこれで終わりだよ、続きはまた明日だ。腹が減った、昼飯を食べに行こう」
外に出てくると、燕がどこからか飛んできて律の肩に止まった。
律が少し疲れているように見えて、颯真は申し訳なく思った。
妖術使いは人を騙し、金を詐取する連中だと聞いていたが、そうじゃない親切な人もいるんだと自分の為に力を尽くしてくれている律を見て、考えを改めた。
「律殿、先ほど律殿の目が俺には黒く見えたのですが、あれは妖術か何かですか?」
幾分顔色が良くなっている颯真を見て律は安心した。たった今、初めて体験した妖術に興味津々な颯真を可愛いと思った。
「秘密だよ」律が小さく笑った。
〈鴻宰館〉に2人分の昼食を運んでもらって、颯真と少し遅めの昼食をとった。
「律殿はなぜ〈相木〉にいたのですか?」
「知り合いに頼まれて幽霊を退治しに行ったんだ」
「ゆ、幽霊ですか、どんな幽霊だったんですか?」颯真は幽霊が怖かったけど、恐怖心より興味が勝って聞かずにはいられなかった。
「事故死した男の幽霊だった、男は大工で仕事中にでかい木の柱が落ちてきて下敷きになって死んだらしい、気の毒に顔が半分無かったよ」
颯真の顔がひきつった。「律殿の仕事は、幽霊退治がほとんどなんですか?妖怪退治はしないんですか?」
「妖怪退治はあんまりしないな、妖は人間と違って悪戯はしても、罪を犯したりはしないから、よっぽどのことが無い限り退治まではしない、懲らしめる程度だ。仕事のほとんどは
「異物?ですか」
「怨霊がとり憑いちゃった物のことを『異物』って呼ぶんだ。それが
「今までにどんな異物を回収してきたんですか?」颯真の目が期待に輝いた。
「そうだな、ちょっと滑稽だった話をしようか。
「何ですかそれ、いったいその垣田という男に何があったんですか」颯真が笑い転げた。
「困った垣田は俺のところに相談に来たんだけど『コケッ』しか言えないから話が通じなくてね、紙に字を書いてもらったんだ、それで彼は養鶏場を経営しているってことが分かって、『コケッ』の意味はニワトリの声真似だろうと見当をつけた俺は、養鶏場に何か原因があると思って、垣田と一緒に養鶏場に行くことにしたんだ」
颯真は律の話しに聞き入った。「それで、養鶏場に何があったんですか?」
「それがさ、養鶏場には何もなかったんだ」
「えっ!じゃあニワトリは関係なかったってことですか?」
「そうとも言えない、異物があったのは垣田の屋敷の仏壇に入っていた母親の形見の宝玉だったんだ、そこで俺は異物にとり憑いてる怨霊を召喚して話を聞くことにした」
「律殿は怨霊を召喚できるんですか?」
「できるよ、召喚に応じたやつは垣田の亡くなった弟だった。半年ほど前に病死だったそうだ」
「弟は兄を憎んで祟ったんですか?」
「反対だ、兄思いの優しい弟は自分の死後、養鶏場が傾かないか心配して、『兄が命よりも大事な養鶏場を続けていけますように』って祈ったら、何故か兄がニワトリになってしまったってわけだ」
「人騒がせな弟だな」颯真が腹を抱えて笑った。
「だろ?それで俺は弟を成仏させてやったんだけど、兄にかかった異象はなかなかとれなくて、その後1週間くらい『コケッ』しか言えなかったんだ、声が戻った時は泣いて喜んでたよ」
「でしょうね、酷い災難だ」
「大尉は部屋に戻って少し休んでくるといい、剣の鍛錬も今日はしちゃだめ、ただ横になって天井を見つめること」
「分かりました」颯真はもっと話が聞きたかったが、律も休みたいだろうと
思って、素直に自分の部屋に戻った。
颯真が〈鴻宰館〉を出ていき今朝と同じように縁側に寝転がると、紬が律の顔に頬ずりした。
「さすがに俺もちょっと疲れちゃったみたいだ。ちょっと昼寝をするよ、お前はその辺で遊んでこい、雀を虐めるなよ」
律が目を瞑ると、紬はどこかへ飛んで行った。
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